拾った童女を暗殺で養っています
びしょ濡れの手をハンカチで拭い、顔に近づけくんくんと嗅ぐ。
……よし、臭いは取れた。大丈夫そう。
この季節は手を洗うのも嫌になるほど手が冷たい。
顔を上げると公衆トイレの洗面所の鏡に能面みたいな無表情が写っていた。
見慣れた私の顔だ。
今日も人を殺した。
標的はでっぷりと太った中年のおじさんだった。なんかどこかの社長だったか校長だったか……どっちだったかな。
別に個人的恨みがあるわけじゃない。
ただの依頼だ。
「うん、終わったよ。いつもの口座に……うん、はい。じゃあまたね」
仕事用のスマホで手短に連絡を済ます。
たぶん私は世で言うところの暗殺者というものなのだろう。
仲介人を通して依頼を受け、人を殺してお金を貰う。
最低な仕事だが、もう殺人に感じ入るようなナイーブな神経は持ち合わせていない。
というか摩耗してすり減って無くなった。
最初のころは相手は悪人なんだと必死に思い込んで事に及んでいたが、もうその必要もなくなった。
それがいいことなのかはわからない。
暗殺者としてはいいことかもしれないが、少なくとも人としては終わっている。
つまり私は人ではない。人でなしだ。
暗殺者という肩書きも良くないと思う。
なんか漫画とかの影響で微妙にかっこいい感じがするし。
私はただの殺人犯である。
そこに関しての割り切りも、当然済ましている。
最初は確か、私怨で人を殺した時だった。
それを仲介人に見つかって、手際を褒められて(イカれてるのかなと思った)、暗殺の仕事を勧められた。
私は是非もなくそれに従った。
お金が必要だったのだ。
二人分を稼ぐには手っ取り早くてよかった。
幸いと言っていいのか、才能もあったみたいだし。
自宅であるアパートの部屋の鍵を開けるとどたどたと騒がしい足音が近づいてくる。
「おねーちゃんおかえり! おなかすいた!」
「ただいま真由里〜お姉ちゃん疲れちゃったあ」
「今日もバイトお疲れ様だねー」
腰のあたりに抱き着いてくる真由里の頭を撫でてやる。
さっき人を殺した手で。
「今日はねえ、公園で遊んだよ! みっちゃんとはーちゃんとおままごとした!」
「そっか、良かったね」
「うん! 私おかあさん役だったの!」
「……そっか」
真由里には両親がいない。
母親は元からいなくて、父親は死んだ。
親戚づきあいも無かったらしく、一人になった彼女を私が引き取った。勝手に。
誘拐と変わらない。その上、私は人を殺した金でこうして生きている。
今小さな食卓に並んでいるスーパーの惣菜だって汚い金で買ったものだ。
「この唐揚げおいしーね。また買ってきて」
「うん、いいよ。明日も食べようね」
「やったー!」
この笑顔を見ていると、心が洗われる。
これを見るために生きている。
今の私は真由里のために生きている。
「…………」
いつも屈託のない笑顔を浮かべている真由里は時々ふと自身の境遇を目の当たりにしてしまったかのように悲しみを滲ませる。
この歳で両親を亡くしてしまった子どもの心は想像に余る。
私には、こうやって一緒にいることしかできない。
「唐揚げ一個あげよっか」
「いいの? わーい!」
こうしてやればすぐ笑顔になる。
できれば笑っていてほしい。
私は笑えなくなったから。
初めて出会ったのは夏。両親からの虐待を苦にして逃げてきた公園だった。
顔に青あざを作ってベンチに座って泣きじゃくっていると、真由里が話しかけてきたのだ。
『お姉ちゃんだいじょうぶ?』
『え……?』
『泣かないで』
そう言って、真由里はぼろぼろのハンカチで一生懸命涙を拭ってくれた。
その瞬間、光が見えた。
比喩ではなく本当に見えた。
もしかしたら精神的に追い詰められたことで幻覚が見えたのかもしれない。
だけど、確かに私の目には光が映ったのだ。
『お姉ちゃん、私とお揃いだね』
秘密だよ、と夏なのに長袖のシャツをめくると、その腕には私と似たような青あざがいくつも並んでいた。
お父さんが怒るの。私がばかだから、と少し悲しげに笑った。
この時、何も言えなかったのを今でも後悔している。
それから何度か公園で会って、お互いの傷を舐めあって……そんなある日のことだった。
『……それ、どうしたの』
『あ……あはは。ごめんね、こんなの見るのやだよね』
真由里の顔は大きく腫れていた。
それを恥じるように、彼女は顔を逸らしている。
その目尻には涙が浮かんでいた。
『今日はね、ちょっと……いたかったな』
『真由里……』
『でもお姉ちゃんの顔みたらげんきでた! ありがと!』
笑う彼女は走り去っていった。
きっとあの子は帰るのだろう。自分を殴る親の住む家に。
そう思ったとき、私の中の大事な線がぷつんと切れた。
その夜、私は初めて人を殺した。簡単だった。
そうして紆余曲折の末、私は暗殺者になった。
最初にしたのは自分の両親を殺すことだった。これも簡単だったし、どうしてか何も感じなかった。
そのプライベートな殺人は、仲介人にひどく怒られた。あなたでなければ始末しているところだったとかなんとか。
良かった、才能があって。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「お姉ちゃんはずっと一緒にいてね」
「もちろんだよ」
真由里は彼女の父親を殺したのが私だと知らない。
虐待されていたとは言え、親は親だ。最初のころはよく泣いていた。
そのたびに自分のしたことは正しかったのかと吐き気に襲われ続け、毎晩悪夢を見た。
だけどきっとこれが正しい。
絶対に。
あの日の真由里を見過ごしていたとして、きっと今の私はその私を許さないだろう。
これから先、何人殺したって真由里を守る。
一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ――と誰かが言っていたような気がするが、だったら私はその英雄になってやる。
真由里だけの英雄に。