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身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ仇桜【改訂版】  作者: 一ノ瀬 星羅
第1章
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現世(4)

その時、再び玄関の扉がバタンと音を立て、母がリビングに戻ってきた。


「伊織。どうして彼にあんなことを言ったの。」


帰ってきて早々怒鳴りつけられるかと思ったが、母の口調は疲れたようなため息交じりだった。


私は母に近寄りたくなくて、キッチンに備えられた椅子に座る。


「赤の他人と話したくないもの。」

「これから家族になるかもしれない人なのよ。」

「それはお母さんの都合でしょう。私は家族になりたいと思わない。」

「今はそう思うかもしれない。でもこれから付き合っていけば伊織もきっと彼の事が気に入るわ。とても優しい人だから。」


優しい声色に怒りを覚え、力任せにテーブルを叩いた。母はびくりと身じろぐ。普段大人しい私がこのような態度を取ることに驚いているのだろう。


「あの人のために庇えるんだね。」

「伊織、何を言って──」

「お母さん。お母さんは私が他人に悪く言われた時、今みたいに庇ってくれるの?」

「もちろんよ!何を言ってるの?!」


母は目を丸くして強く否定した。その態度が可笑しくて、私は薄く笑みを浮かべる。


「嘘つかないで。無理でしょう?そんなの。だってお母さんは庇える程私の良いところなんて知らないもんね?」


その言葉に母は一瞬息を呑んで固まったが、視線を僅かに逸らしつつ答えた。


「そんな事ないわ。貴女は一人でよくやってるじゃない。」


顔色が変わった母を私は嘲笑った。


「そう思うなら何で私が帰ってきて最初にその言葉が出てこないの?何で今、私を責める言葉が出てくるかな。逆じゃない?」

「それは──」

「あぁ、分かってます。親が結婚したいと思ってるような人だものね。きちんと礼儀を持って接しなきゃ。心中どう思おうが気持ちよく帰ってもらえなきゃ、これからの関係に支障がでるもの。

こんな当たり前の礼儀も出来ない人間と一緒に暮らさなきゃいけないかもしれないなんて、あの人もさぞ不安に思っただろうね。」


私はテーブルの上の料理を見遣る。


「少なくとも、お母さんは私がそうしてくれると思ってたんだよね?だからこんなに張り切って家族団らんのセッティングしたんでしょう?そこにある料理も凄いね、お店のみたい。

でも、残念だけどそれは捨てるしかなさそう。私、レトルトに慣れすぎちゃって今更そんな高級そうな味、分からないわ。」


私がそう吐き捨てると、母は私の元に歩み寄って神妙な顔をし、肩に手を置いた。


「ごめんなさい。貴女にはいつも寂しい思いをさせたわね。でもこれからは違うから。」


謝っていながらも、冷静に諭せば私が素直に頷くと思っている表情。


未だに私の心情の深刻さに気付いていない母に、私の心はひたすら寒々と凍っていった。


「お母さんが謝る必要無いよ。私良い事思いついたんだから。」


掴まれた手を強く打ち払った。そのあまりの強さに驚きで目を見開く母。


私は目の前でホルダーに収まっていた包丁を手に取り、切っ先を己の喉笛に向ける。


「私が、死んじゃえばいいんだよ!」


母の表情が恐怖に豹変した。


「お母さんはあの人と一緒になるのに私の許可なんて要らないし、あの人は血のつながらない子の面倒を見なくていい。ほら、みんな丸くおさまるじゃない。」

「やめてッ!!!なんて事言うの?!!貴女はそんな事気にする必要は無いの!!お母さんが悪かったから……!!気に入らなかったらあの人とも別れるから!!そんな事言わないで頂戴!!」


ヒステリックに叫び出した母に、私は違うよ、と告げた。


「お母さん、頭良いのにまだ分からないの?それとも私の言い方が遠回し過ぎたかな。」


やっぱり私って出来が悪いのね。そう呟き、今まで浮かべていた笑みをすっと消して母の顔を見上げた。


「今更そんな事言ったってもう遅いのよ。」

「──ッ!!」

「私今とっても嬉しいの。近所からお母さんへの嫌味のダシにされなくなる。学校でもいじめられなくなる。そしてなにより──あんたの大事な大事な世間体に傷を付けることが出来て、本当に嬉しいの。」


憎しみを込めた精一杯の笑みを浮かべて、私は包丁を持つ手に力を入れる。


「さよなら。今度の娘はお母さんの希望に叶ういい子だといいね。」


途端、刃を突き刺そうとした手が掴まれた。必死な顔をした母が、柄を握る私の手をこじ開けようと両手に力を入れる。


私は掴まれた両手を引きはがそうとするが、母も渾身の力でしがみ付くためなかなか離れない。ついには二人して床に倒れ込んだ。


今になって親らしい姿を見せた母親に憎悪が湧く。


私はもみくちゃになりながら叫んだ。


「ふざけんな!止めようとしたって分かってるんだから!!私が死んで周囲から非難されるのが嫌だからでしょう⁈いい気味よ!!あの男と一緒に後ろ指さされて生きていけばいいんだ!!」


母は答えない。ただ私の手を解こうと夢中だった。私は更に苛立ちが募り、大きく腕を振り上げる。


「いい加減に、放せよ!!!」


掴まれた腕を払う為に力一杯振るった両手。


「えっ──。」


今まで感じたことのない感触。呆気にとられた母の声。


私の握った包丁は母の首元にくい込んでいた。


柄からするりと私の両手が離れると、代わりに震える母の手が刃を確かめる様に首元に宛がわれている。


しかし、指の隙間から抑えきれなかった血潮が見る見るうちに流れ出して服を真っ赤に染め上げていった。


呆然と固まる私の目の前で母は床に倒れ込み、弾みで包丁が抜けて瞬く間にフローリングに鮮やかな赤が広がる。


頸動脈が切れたのだろうか。あまりの出血量に有り得ないくらい顔が青白くなっていった。貧血で意識が混濁しているのか瞳も定まっていない。


母が何か言うように口元を動かした。喉元を抑えていた血まみれの手が私に延ばされる。


しかしそれは私の元に届くことはなく、血潮の中に落ちた。


「死んじゃった……。」


ぼそりと呟いてみたが哀しみは湧かなかった。


その事で実感する。あぁ、私って本当に欠陥品だったのね。


だったら、


「どうやって死のう……。」


首を掻き切るのは、母の今の表情を見るかぎり結構苦しそうだ。あんまり痛いのが長続きするのは嫌だな。


あぁ、そうだ。飛び降りよう。このマンションの高さから飛び降りたら一瞬だよね。


思い付いたらふらりと足が動いていて、母の血潮を踏み付けて歩き出す。


いつもの様に玄関の鍵を手に取り、血塗れの足で靴を履いて、家の外に出ると鍵を掛ける。


血痕を落としながら廊下を歩き、辿り着いたエレベーターの上昇ボタンを押すとべっとりと赤い指紋が付いた。


そして辿り着いた屋上。私はフェンスを乗り越えて夜景を眺めていた。


世間では大金を払ってでも求める景色。それを見て嘲笑う。


「ばっかみたい。」


前に倒れ込んだ。ふわりと肉体を襲う浮遊感。次いでどんどん強さを増していく突風。


目を閉じながらそれを感じ、そして強烈な衝撃と痛みが肉体を駆け抜けたところで私の意識は無くなった。

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