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身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ仇桜【改訂版】  作者: 一ノ瀬 星羅
第1章
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現世(3)

学校も塾も終わった私は駆け足で息を切らしつつ帰路に付いていた。抱えた手芸店の紙袋が皺だらけになっている。


早く帰ろう。出張明けなら私より早く帰ってきてるかもしれない。


お母さんが帰ってくる!


マンションに到着してエレベーターに駆け込む。階層数字が上昇するのを確認すると、鼓動する胸を押さえてゆっくり深呼吸した。


お話しようと母から言ってくれたんだ。どんな話をしよう?学校の事は──


紙袋がくしゃりと音を立てる。


いいや、母を失望させるような話は。無難な人付き合いも出来ないと思われたくない。


今度は重いため息をつくと、エレベーターがチンと音を鳴らしドアが開く。


逸る気持ちで廊下を抜けると自宅の扉まであっという間に辿り着いた。


しかしドアを開けて視線を下げた途端、私はその場で凍り付く。


玄関には綺麗に磨かれた黒いハイヒール。これは母の靴。そしてもう一つ男物の靴が並べてあった。


誰?この靴。


固まっている内に背後でドアがバタンと閉まる。


「帰ってきたわ。」


その音で気付いたのか、母が誰かにそう声を掛けている。やっぱり母以外に誰かいるのか。


リビングに繋がるドアが開いて母が顔を出す。


「伊織、お帰りなさい。」

「……ただいま。」


久しぶりに会った母の顔を見て、やっとその一言を絞り出した。


いつもの仕事向けの姿とは違って、柔らかい印象を受けるナチュラルメイク、暖色系のカーディガン。


誰かの印象を気にした装い。いつも毅然としている母が少し緊張した顔で私を見ている。


「大事な話があるの。聞いてくれるかしら。」

「はい……。」


母に促されてリビングに上がると、ダイニングの椅子に座っていたスーツ姿の男性が私を迎えるために立ち上がった。


全く知らない人だった。歳は母より少し若いような気がする。母よりよっぽど緊張して表情が強張っているが、それでも一生懸命笑顔を作ろうとしている様子に人の良さが感じられた。


その姿を認めて不安が胸中を渦巻く。


「君が伊織ちゃんだね。初めまして。」


そう言って差し出された手。私はそれを無視して母を見上げた。


「この人は誰ですか。」

「伊織。」

「有紀さん、いいんです。」


叱責の意味を込めて母に名を呼ばれたが、男性が苦笑しながら首を振る。


それに対して母は申し訳なさそうに視線を向けるが、その視線に別の感情も混じっているのを感じて私は確信した。


「斎藤和夫と言います。君のお母さんとお付き合いさせて頂いています。」

「伊織。お母さんはね、この人と結婚したいと思っているの。貴女も賛成してくれるかしら?」

「……。」


やっぱりか。


テーブルの上を見ると、沢山並べられた料理の数々。記憶に少ない母の手作り料理。この日の為にこれだけ用意したのか。


久しぶりに会う娘を労うためじゃなく、この男の為に。


「もちろん、私達も今すぐに籍を入れるつもりはないわ。貴女は和夫君とは初対面だもの。

心の整理も必要だろうし……。これからゆっくり人となりを知っていけばいいわ。それで貴女が納得してから一緒に暮らせば良いと思っているの。」


有紀さんに和夫君、ね……。


気持ち悪い。


「そうですか。」


自分でも驚く程冷え切った声が出た。私は作り笑いを浮かべながら男性に向き合う。心なしか笑顔を向けられた彼がたじろいだ気がした。


「では、取り敢えず──斎藤さんでしたっけ?お帰り頂いてよろしいでしょうか。」

「伊織!」

「いや、良いですよ。こちらも急に訪問したので……。お二人で話し合う時間も必要でしょう。」


彼は慌てて手を振ると佇まいを正す。


「それじゃあ伊織ちゃん、また会いに来るからこれからよろしくね。」

「またの機会があればよろしくお願いします。」


お前に気安く名前を呼ばれたり、よろしくされる筋合いもない。


私は笑顔を浮かべつつも、その意志を込めて嫌味を返した。


彼はそれに苦笑を浮かべて部屋を出ていき、母は慌ててそれを追って、玄関がバタンと閉まる。


部屋に一人残された私は料理が並べられたダイニングにいるのが耐えられなくなってキッチンへと向かった。


見渡すといくつか新しくなっている調理用品がある。その中に高そうな包丁があるのを見付け、鼻で笑った。


今日のために随分と張り切ったものだ。こんなものまで買って。


そんなに彼に良い顔がしたかったのか。そんなに理想的な家族を見せたかったのか。


誕生日、冷蔵庫に一人分だけ入っていたケーキと百貨店の包装がされたプレゼントを前に、母が帰ってくるのをずっと待っていた。


学校の運動会は、皆が家族で手作りのお弁当を広げる中、私は見た目だけは綺麗なテイクアウトのお弁当を喧騒から離れ一人食べていた。


進路指導でやっと学校に来た時も、対面する教師にバレないよう腕時計を何度も見ていた。


本当は、お金なんてどうでもいいからもっと構って欲しかった。もっと褒めて欲しかった。


それでも今まで耐えてきたのは、片親でも何不自由ない暮らしをさせてあげたいと思っていると、私の為に仕事を一生懸命頑張ってくれているのだと──そう信じていたからだ。


それなのに母は、私という家族に使える時間をあの男に捧げていたのだ。赤の他人のあの男に。


だったら今まで私が一人、母を待っていた時間は何だったんだろう。


私は鞄からボロボロになったキーホルダーを取り出すと、手芸店の紙袋にそれを突っ込んでゴミ箱に投げ入れた。


もう、いいや。

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