現世(2)
教室の扉に手を掛けると、引き戸のレールが軋んだ音を立てた。先に教室に居た何人かの視線が向けられたが、興味なさそうに直ぐに逸らされる。
私はそれに安堵すると、自分の席に着いて鞄から図書館の本を取りだした。参考書のような真面目な本じゃない。少し昔のライトノベルだ。
『参考書ならまだしもそんなものばっかり読んで!!もっと努力したらどうなの?!周りの人を見なさい。貴女より苦労してる人なんていくらでもいるのよ!!』
過去に言われた言葉が不意に蘇る。
今回の推薦入試合格、母は褒めてくれたが何処か不満そうだったな。
母はもっと偏差値が高い学校に行って欲しいと思っていた筈だ。けれどそこを推薦してもらえる程、後期試験で入学を目指せる程、私は出来が良くなかった。
母はそれで良いと言ってくれた。けれど本当は分かってる。私の成長に見切りをつけたのは。
会う度母の表情を伺ってきたのだ。隠した落胆を察するのはもう慣れている。
知らずのうちに手に力が籠り、持っていた本に皺が入った。
「どうせ私は……。」
「えー!何これ可愛い!!」
私の呟きを遮るように甲高い声が響く。びくりと身動ぎして声の方に顔を向けると、クラスメイトの女子が私の鞄を見ていた。いや、もう既に私の許可も得ずに鞄に付いたキーホルダーをいじっいている。
今朝は何もないかと思っていたのに──!
「このテディベア、付いてるタグが有名ブランドのやつじゃない。良いなー。流石お金持ちは違うね。」
厭味ったらしく告げると、彼女はニヤリと笑みを浮かべて見上げてくる。
「これ、いくらだったの?」
「……知らない。お母さんが買ってくれたものだから。」
それを聞くと、彼女は嘲笑うように噴き出した。
「あはっ!そうかー。お金持ちは値段も気にしないんだ。やっぱ貧乏人とは感覚が違うんだなー。」
彼女は何が可笑しいのか、クスクスと笑い続けている。
前々から私に対するクラスメイトの態度は良くなかった。さり気なく避けられたり、聞こえなかった振りして無視されたり。
けれど最近になって、今の彼女のように直接絡んでくる人が出始めた。
彼女は、あらゆる教科で好成績を出している。私など歯牙にもかけない程優秀である彼女が、何故わざわざ私に突っかかるのか。
「ねぇ、これ頂戴?」
彼女のおねだりに私は顔色を変えてかぶりを振った。
「駄目だよ、これはあげられない。」
「えーなんでよー。どうせ幾つも持ってるんでしょ。推薦もお金で買えるくらいお金持ちなんだしー。」
「そんな事してない!」
確かに他よりは裕福だとは思うが、そんなことがまかり通る訳がない。
「えーどうかなー?だってあんたの成績じゃ有り得ない程良い高校に受かったじゃない。」
言い掛かりも良いところだ。私が合格したのは周辺高校の偏差値で中間ぐらい。ごく平凡な高校だ。
いや、この場合はそれすらも烏滸がましいという嫌味か。
受験のストレスでピリピリしている中、スクールカースト下位の人間が受験戦争から一抜けしたのが気に入らないのだろう。
「あんたと違って?貧乏なうちはどーしても国公立の進学校入学に向けて神経削らなきゃいけないわけ。
で、少しでも私を応援するつもりがあるならくれるよねー?って話してんの。
だってあんたが今やることなんて、あたしら応援する事しかないもんね?」
可愛らしく小首をかしげておねだりする彼女だが、その瞳には悪意が滲んでいた。私は向けられる敵意に脅えながら、それでも首を振った。
「あげられないよ……。」
だってそれは──
「あっそ。」
ぶちりと音を立てて留め具を繋げる縫い目が千切れた。広がった縫い目から綿がはみ出る。
「あ、ごっめーん!取れちゃった。」
彼女は全く悪びれる様子もなく謝ると、手に持ったテディベアを眺め、途端に顔を顰める。
「何これきったな!!」
ばしりと人形が叩きつけられた。私は飛びつくようにそれを拾い上げる。
「え、何その必死さ。もしかしてアンティーク物だった?ごっめーん!私って貧乏人だからそういうの分かんない。お金持ちの懐の深さに免じて許してよね。あはははっ!」
彼女はそう嘲笑ってその場を離れていった。
私は涙を堪えながらそのキーホルダーを抱えて椅子に座る。
小さい頃、旅行に連れていってもらった時に買ってもらったプレゼントだったのに……。