現世(1)
朝日が窓から差し込む部屋で一人、学習机の椅子に座りながらスマホを弄っている。
高校の推薦入学が決まって初めて買ってもらった携帯だ。
同級生の中には既に持っている人が殆どだったが、母は受験の邪魔になるからと買ってくれなかった。今は慣れないスマホの初期設定を済ませ、SNS のアプリをダウンロードしたところだ。
鏡の様に綺麗な画面をスクロールし、拙い手付きでキーボードを打つ。
『お母さん、おはよう。』
表示画面に映し出された一文。スタンプの押し方も分かっていなかった。それでも今すぐに言葉を送りたい。でも何と言ったらいいのかも分からなくて、こんな他愛もない言葉になってしまった。
ジッと画面を睨み付ける。直ぐに画面の変化は見られなかったが、1 分ぐらいして既読の表示が現れる。途端、期待で息を呑みながら食い入るように画面を見つめ続けた。そして、
『おはよう。今日は早く帰れるわ。お話をしましょう。』
そんな言葉が返ってきた。
お母さん、帰ってくるんだ!!
私は自然と口元が緩んでいた。早く帰ってくるなんて珍しいな。このスマホだって母がネット手続きで購入して届いたものなのに。
私は急いで返事を打ち返した。たどたどしい自分の手付きが恨めしい。
『待ってるからね。』
既読は直ぐに付いた。けれどいつまで待っても返事が表示されない事に、落胆のため息が零れる。
しょうがない。お母さんの時間をこれ以上奪っちゃいけない。長い出張明けでとても疲れてるんだ。今日は早く帰って来れるのだからそれで良いじゃないか。
私はスマホを学生鞄に仕舞うと、ゴムで髪を纏めて椅子から立ち上がる。鞄を持つと持ち手に付けられたテディベアのキーホルダーが揺れた。
「あら、おはよう伊織ちゃん。」
玄関の鍵を閉めていると、隣の部屋に住む専業主婦のおばさんが話しかけてきた。
「……おはようございます。」
私は薄く笑いながらそれに返事を返す。
「お母さん、今日も朝早くからお仕事に出かけたのね。それとも出張かしら。凄いわぁ、シングルマザーで大手のキャリアウーマンだもの。私なんて子育てだけで精一杯なのに尊敬するわ。」
「ありがとうございます。」
ねちゃつくような笑みを浮かべる彼女に対して私は作り笑いを浮かべながら軽く頭を下げ
た。
いつもこうだ。
この人は、私と話す時はほぼ母の事しか話さない。特筆する所のない私は、母にマウントを取る為の道具としか考えていないのだ。
『子供ほったらかして働かなきゃ生きていけない。それに対して自分は三人の子供を立派に育てて稼ぎの良い旦那に養ってもらっている。人生の勝ち組は私の方だ。』
この人が母をネグレクトだと近所に吹聴しているのを知ってから、このような嫌味が分かるようになってしまった。
「あの、すみません。そろそろ行かないと遅刻してしまうので。」
べらべらと喋る彼女の言葉を遮って、私はマンションのロビーに繋がるエレベーターに駆け込んだ。
扉が閉じて誰の視線も無い空間になると、私は深いため息をつく。
望んで手にした生活なのに、何を母に嫉妬する事があるのか。
そう思うとふと自嘲の笑みが口元に浮かぶ。
私に人の事が言えるのだろうか。