#106 それとなく垂れ流す
文章を打って送っても送っても、スマホの画面には、あなたの名前を題とするメールが表示されることはなく、不安や焦りで心が淀んでいた。
駅から見つめるこの道の先に、骨折をしているかのように、左腕に右手を添えながら近づくあなたが見え、不安定だった心は、100パーセントの落ち着きを放った。
あなたは呼吸を整えるように、ゆっくりと駅前の空気を吸い込むと、こちらまで音が届くくらいの大きな息を、全て吐き切るようにしっかりと吐き出した。
田中さんが、私やこのはちゃんを見つめるように、あなたは私を見てくれてはいないが、こんな風に柔らかなあなたの手を掴んで引っ張ることが出来ている、ただそれでいいと思えた。
平穏な日々や、たった今足を踏み入れた、このオシャレなカフェでの二人だけの世界がどれだけ楽しいのかを、視覚から脳に繋げて、ただただ浸った。
私がプレゼントした赤いシャツではなく、正反対の真っ黒なシャツを着て、私の影のようにしているあなたに、自然な笑顔が溢れてゆく。
私にはあなたが驚くような秘密がたくさんあり、勇気を出してそれを出そうとする度に、鼻腔がむず痒くなってくるが、今も少しだけむず痒い。
秘密は、あなたの心臓に配慮して隠し続けてきたが、この甘い味覚がある今のうちに、ほぼ全てを垂れ流すしかない、そう身体の内からの指示が聞こえた気がした。
「あのね、話があるんだけどいい?」
「あっ、はい。何でしょうか」
「ちゃんと、心構えしておいてね」
「わっ、分かりました。嫌なことですか?」
「分からない、微妙な感じ」
「そうですか」
「準備は出来た?」
「はい」
「あのね、実はね。私には、顔が似ていないんだけど、双子の妹がいるの」
「えっ」
「まだ言ってなかったよね、ゴメンね。それでね、二卵性の双子なんだ」
「あっ、はあ」
「まだ、あなたにはしっかりと伝えてなかったなと思って。しっかり言っておかなくちゃ駄目なことだから」
「ああ」
「小さい頃に両親が離婚して、離れ離れになったの」
「ああ、そうですか」
「玲音にチョコを渡したのも、妹の菜子なんだ。妹に好きな人をとられた経験があってね。だから、菜子のことは姉妹だとは思っていないの。妹だと認めていないの」
「そ、そうですか」
「まあ、可愛い妹への憧れも少しはあるかもしれないけど。萌那も菜子とは色々あってね」
「はい」
「色々、垂れ流しすぎたよね?大丈夫?気分悪くなってない?」
「はい、大丈夫です」
妄想で作り上げられたあなたと、現実のあなたは本当によく似ていて、あなたが居てさえすれば、この世界を延々に生きていける気が今もしている。
口呼吸しかしていない自分に気が付き、生きていると改めて気付かされ、その瞬間に幸せを含んだ苦しさが、身体の先端から先端まで満遍なく広がっていった。
このはちゃんに、私の彼女だよと言われてから、身体を動かすことが楽になり、笑顔が溢れることが多くなり、自然体での行動に近づいてきたと、たまに感じている。
長い長い会話に塞がれていた注文を放つために、球体を半分に切ったようなボタンを押すと、待ち合わせに遅れてきた友達のように、店員が走ってきた。
あなたはその勢いに押され、手のひらを身体の前に翳してバリアをするあの癖が、久し振りに現れ、その風景に少しだけ口角が上がった。
サンドイッチを注文したあと、唾液が分泌量を増やし続け、喉の内側に張り付き、何も口に入れていないのに、飲み込む動作を頻繁にするしかなかった。
鼻の通りもここ一週間で一番よく、あなたの匂いの奥の奥に潜む快楽まで、触れられているような気がして、優しくなれた。
誰もが退屈に思う出来事でも、あなたがいるから輝きを放ち、今のこの一般の観点でいうところの日常に近い状況でも、キラキラが惜しみなく降り注いでいる。
頼んだサンドイッチが運ばれてきて、それを掴んだあなたの指には、幾つもの痛々しいほどの深い傷があることに、今更ながら気が付いた。
急に距離を縮めたくなり、ウズウズと落ち着かなくなり、あなたの腕に心臓を預けるようにすると、スッと隙間に溶け込むように、一瞬で落ち着きが溢れていった。
あなたは突然、一週間会わない期間を定期的に設けたいと口にしてきて、電流のようなものが全身に流れ、鼓動が止まったかのように、急な静けさを覚えた。




