#104 愛してるの右斜め前
カーテンの薄さを縫って、部屋に入ってきた朝の光の渦が、シンプルなホテルのベッド全体を照らし出し、あなたの顔もハッキリと浮かび上がらせてゆく。
あなたが普通に大きな目で目覚めていたことで、私の昨日の口付けに気付いていない確率は、目覚める前よりも格段に上昇した。
寝ている間に、私の妹と名乗る人物からあなたにメールが来たらしく、起きて早々にブロックする方法を聞かれ、その声が今日初めて聞いたあなたの声だった。
寝起きのあなたに、昨日つい買ってしまったキャラクターのクマ耳を付けてあげようと触れたあなたの耳は、私の心以上にぷるんぷるんしていた。
部屋は無色に近い白系中心で構成されていて、私がプレゼントしたあの燃えるような赤いシャツを、あなたが着ることによる部屋の彩りも、少しの差し色もここにはなかった。
人の心に対する潔癖症のようなものが、あなたの表情にも、纏う雰囲気にも今は表れていなくて、昨日の夜の出来事についてそれとなく探っても、平常なあなたの顔が映るだけだった。
夜の中で一番近いあの夜の、私への愛情を伺わせる二文字の口の動きが脳に刷り込まれ、リピートで流しっぱなしになっていて、嗅覚も巻き込むほどの勢いで迫ってきている。
手を繋ぎ、とぼとぼと洗面台に歩いていき、ひとりを求めず二人で一緒にする歯磨きは、心を綺麗に美しくしてくれる予感がした。
「僕は歯磨きに時間が掛かるので、終わったら先に行ってください」
「うん、分かった」
「心配性というか、満足行くまで磨いてしまうんです」
「いいと思うよ。性格は人それぞれだから」
「す、すみません」
「玲音らしいといえば、玲音らしいからいいよ」
「すみません。ありがとうございます」
「歯磨き中は、無理に喋らなくて大丈夫だからね」
「はい」
「磨き始めるまでは長いけど、私はかなり早い方なの」
ミラクルが群れをなせば平凡に変わる、みたいな単純な脳の成り行きなんて通用しなくて、透明になればあなたと噛み合い続けることも出来るかもしれない、みたいに考えていた。
歯磨き中も意識しなければ、首が前に曲がり、顔が少し前に出てしまっていて、あなたにも生活にも前のめりなのだと気付かされた。
私の身体や身体を司る神経は、抱き締めることにしか脳がなく、身体が思っている以上に浮わついていて、手を動かしながらその場をうろうろしていた。
カラフルなキャラクターとのツーショットの待受画面と、あなたと二人で映る鏡の傍らにある小さな窓の朝ぼらけは、あなたと見ることで、とてもきれいに感じられた。
あなたの心や身体から放たれるオーラから、私や周りを遠ざけようとする何かを受信してしまい、全く新しい愛情表現やスキンシップが降りてきて欲しいと願った。
口を濯ぎ終わった後も、口は爽快感を遺憾なく発揮し、触れていたあなたの指先がその爽快感に伴い、いつもより熱を帯びていった。
あなたの身体との距離はかなり近く、ずっとあなたの安心するような優しい匂いに触れることが出来ていて、今が一番の幸せなのかもしれないと感じた。
何度も鏡を見ていると、あなたの後頭部の髪のぐちゃぐちゃが、胸にドシドシと問いかけてきて、あなたを身体の境界線を越えるほど近くに感じた。
あなたは真の彼氏のような出で立ちに収まっていたが、鉛筆の文字は必ずしも消せるとは限らないし、力を入れすぎて消せない鉛筆の文字もあるから、何事も慎重に進めることが大切だ。
財布から取り出した第一ボタンに触れながら、嬉しさをしっかりと噛み締めていたが、その嬉しさに反抗するように瞼がピクピクと動き、瞼が僅かに擦れる感触があった。
私が洗面所の鏡の前から離れようとすると、あのとき確かに私の瞳に映った、愛情を伺わせる二文字の口の動きを、鏡越しの今のあなたからも送られ、その後の私の中の無音状態はひっきりなしに続いた。