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#102 危険かつ安全なキス

歯磨きに30分以上かかってしまったから遅れます、というメールがあなたから届き、それを長い間、何も考えずに眺めていた。


あなたの画像は何一つ付いていないのに、あなたが歯をひとつひとつ丁寧に磨いている動画が想像のなかに、くっきり過ぎるくらいに映る。


目当てではない電車が後ろに止まり、その地響き混じりの高い音が、脳の血管にまで入り込み、暴れているような痛みがジンジンと走った。


暫く生暖かいベンチに座っていると、あなたが後ろから現れ、人の肌と肌が触れてはいけなくなる日が来ない保証などないので、あなたの手を有り難みを持って、吸い付くように握った。


あなたと手を繋いで、駅のベンチで電車を待つという、この何でもないような貴重な時間が、視覚を含めた全ての感覚のなかで、最高に幸せなのであろう。


なだらかな坂を上るように大きくなっていった腹の叫びは、坂をなだらかに下るようにゆっくりと収まっていき、あなたはそれに気付かないフリをするように、そっと目を閉じていた。


大好きな歌姫の活動休止は、今も鼻呼吸の荒々しさを沸き立たせているが、その鼻の荒々しさがあなたへの愛情に繋がっていくような、そんな予感が僅かにある。


今期の唇の割れがようやく終息したような予感はしているが、肌は相変わらず弱く、舌でなぞる口内の感覚も、相変わらずデコボコとしていて、凹凸を引き起こしていた。


「旅行、楽しみだね」


「はい」


「今日は私とずっと一緒にいるわけだけど、本当に大丈夫?」


「はい。菜穂さんはそのラインを越えましたから」


「良かった」


「あの。大丈夫ではなく、一緒にいたい、です」


「ありがとうね」


「あ、はい」


「テーマパークも楽しみだけど、ホテルも楽しみだよね」


「はい」


「お泊まりしたことないから緊張するな」


「あっ、そうなんですか」


「うん。今は落ち着いているみたいだけど、駄目になったら言ってね」


「分かりました」


人と深くなるまでが遠いあなたに、ここまでの深さまで潜り込んでいけたことを、自分でも予想外に、そして不思議に思っている。


あなたの心にも触れた父の第一ボタンを、あなたから貰い、財布のチャックの部分に小銭と共に忍ばせてあり、それを身体で感じるようにして、行く末をしっかりと願った。


ベンチから立ち上がり、あなたが落ち着きたいときによくする、その場で軽く跳び跳ねることを、場の雰囲気に馴染むように、軽く真似してやってみると、少しだけ心が軽くなったような気がした。


瞼に接着剤を垂らしたような気だるさが支配していたが、目の前に美しい白を基調としたボディを持つ電車が来たことで、それはベリベリと剥がされていった。


電車に乗り込んで席に座り、私と手を繋いでいる側とは反対の、あなたの頭の側面が一瞬だけふと見え、そこには10円大のハゲが恥ずかしがりながら佇んでいた。


あなたとのキスはまだ二回止まりで、レモンのようなイチゴのような、甘い甘いあの味は、もうここからは完全にいなくなっていた。


電車の中に漂う特有のカビのような、どこか優しいような香りが鼻に広がり、一時間後のあなたとの、何とも言えない世界が容易に想像できた。


スマホのカメラを起動し、スマホの世界越しに動くあなたを、心臓が驚かない程度になめらかに映し、なめ回すように追い続けた。


あなたは電車の席でスマホを取り出し、険しい顔をしながら何かを見ていて、その画面にピントを合わせてみると、そこではサッカー関連の記事が次々とスクロールされていた。


人混みでは、あなたの握力も通常時以上に上がり、頭にあるツインテールというアンテナでは、もっともっとあなたの気持ちを感じ取ろうとしていた。


私たち二人のそれぞれの外側に、ひとり分の空間が空いたそんな世界では、普段何でも抑えて隠そうとするあなたも、私の胸元で激しい息遣いを、思い切り惜しげもなく放っていた。

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