「拙者はまだやれますぞ」
「勝家、今夜は働いてもらうぞ」
「はい!」
勝家は太郎兵衛と違い興奮している。時空移転という離れ業に夢中のようなのだ。ただ幸村は不満げであった。代わりに勝家を連れて行こうとしたのだが……
「拙者はまだやれますぞ」
「それは分かる。だが今回はマストの上とか、かなり危険なのだ」
幸村は五二歳になっていた。やはりここは勝家のような身軽な者がいいだろう。後は佐助とおれとトキの四人で、深夜またマストの帆に火を付けてやる。
前回は早く発見消火されてしまったので、今回は消火しにくいようにメインマストの中段を選び、三隻同時に付ける事にした。
夜の更けるのを待って、油をしみこませた布を三人でそれぞれ持ち、トキに転送させてもらう。たたんだ帆の隙間に差し込むと、三人がほぼ同時に着火。後は対岸から高見の見物と相成った。
気づいた水兵が、大声で叫んでいるのが聞こえて来た。
マストの中段である為、消火が思うようにいかないのは明らかだった。遂に三隻ともメインマストが黒焦げになるという事態になってしまった。
その後は、薩摩藩士が夜陰に乗じて和船で軍船に乗り込み、マストに火を放ったと噂が広まった。
翌朝、怒り狂った軍船から、ついに沿岸の街に向かい発砲が始まった。
これは長崎港の教訓から十分学んでいた事なので、前もって住民を避難させてもらっていた。だから建物だけで、人的被害は無いと思われる。
ところがその砲撃が始まり暫くして、イギリスの軍船が鹿児島湾の沖合に姿を現した。当然スペイン船にとっては沿岸の砲撃どころではない。急遽、船を移動させ向きを変えようとするのだが何しろ帆が足りない。それに停泊中ではすぐに動かせないのは当然だ。甲板上はとんでもない騒ぎとなった。
そして湾に侵入して来たイギリス軍船は、敵船の船尾に対して横に向きを変えると、砲撃を開始。スペイン船は至近距離の真後から、船内貫通弾を浴びることになった。
帆船の後ろには砲が無い。一方的に撃たれて二隻が大破。ただ湾の一番奥に居た一隻はかろうじて動き出したのだが、旋回が思うようにいかない。水深も分からない不案内な湾で岸に寄ってしまい、浅瀬に乗り上げ動けなくなった。
イギリス船三隻はすぐ湾の外に出る。長崎港の軍船が回って来る恐れがあるからだ。湾内でぐずぐずしていると、今度は立場が逆になる。残りの一隻だけはさらに湾深く侵入すると、座礁しているスペイン船の後ろから近づき、船体を横に向ける。後は目の前の的を撃ちぬくだけだった。
これで敵の残りは五隻、四隻対五隻となった。
豊臣勢の九州上陸地点は肥前国、筑前国、豊後国の三カ所に決まる。
豊臣直属軍二〇〇〇〇の内二〇〇〇が平戸に、残りは筑前国に上陸。勝家は再び刀を腰に差し、豊臣軍の大将となった父勝永に同行する。
毛利秀就の軍二〇〇〇〇も同じく筑前国に上陸。
宇喜多秀家の軍一五〇〇〇、長宗我部盛親の軍八六〇〇は豊後国に上陸となり、総勢六三六〇〇の大勢力だ。
この時点で豊臣に忠誠を誓っている九州南半分の大名は加藤、立花、小西、島津だった。ただし立花家では家臣と立花宗茂殿が意見を対立させているとの情報もあった。
平戸には鍋島勝茂が居たのだが、龍造寺高房は機会あらば勝茂より実権を取り返そうと機会を狙っていた。そこにこの戦騒ぎである。利用しない手はないと考えているようだ。
筑前国の小早川秀秋は、黒田利則の、九州から豊臣勢力を一掃しようではないかとの書簡に対してどう返答するか迷っていた。豊臣の勢力は侮れないが、スペインとポルトガルの軍が味方するとの話に魅力も感じていたのだった。
藤堂高虎は九州ではないが、黒田利則からの誘いに応じて四国より兵を出し、九州に渡っている。島津忠恒殿は大破した軍船のスペイン軍が上陸してくるのは分かっているので、地元を離れるわけにはいかない。
また小西行長の領地より出陣している軍なのだが、行長がキリシタンであることや、この戦いを九州勢として主導する加藤清正と、領地の境界線をめぐる争いが絶えないこともあり、その去就は微妙なものとなっていた。おれがキリスト教の排除に乗り出していることで、気まずい関係になりつつあることも確かだ。キリスト教そのものではなく、その背後に隠されているものが問題なのだが……