ついに砲撃が始まった。
ついに砲撃が始まった。ところが当時の鉄砲や大砲は、すべて滑空砲なので、的中率は悪い。砲身内にライフリング (旋条)が無い砲で照準器もないから、命中率は0%に近いなんて笑える話だ。砲弾は撃ってみなければ何処に飛んで行くのか分からないという代物だった。
それでもスペインとポルトガルの帆走軍船、ガレオン艦の舷側から発射する艦砲射撃はそうとの威力を持つものであり、日本にはこれに堪えうる要塞も砲もなかった。日本における野砲の類はまだ極めて貧弱であったのだ。なにしろ千八百五十三年の黒船四隻の来航から二四〇年もさかのぼった時代なのだから無理もない。
そしてこの長崎の港でも、四隻で合計数百発の砲弾が撃たれたりしたら、やはり被害は出る。しかし、すでに住民は皆逃げてしまった後なので、建物が破壊されただけではあった。
翌日スペインとポルトガルの兵が上陸して来た。数は二〇〇〇から三〇〇〇くらいだとの報告があった。豊臣軍が来るまでにはまだ間がある。最前線の清正軍は少しづつ後退して、様子を見るという姿勢を徹底していた。
上陸した敵軍の兵士らによる略奪はすぐ始まった。だが、さすがに金持ちの市民は金目の物を持って逃げたのだろう。めぼしいものが無いし、生け捕る女子供も居ない。それが分かると敵軍はすぐに他の獲物を目指し移動を開始した。
やがて熊本の隣からは小西行長軍や、九州南端の薩摩から義弘殿は高齢の為、島津忠恒殿が代わりに到着、迎撃軍は総勢四〇〇〇ほどとなる。ちなみに行長自身は、豊臣軍と共に大阪より来ることになっている。
豊臣軍はまだ到着していないが、迎撃軍の総指揮をお願いしたいと清正殿から頼まれる事となった。
軍議では、敵艦船に海上からの攻撃が出来ないかとの案も出されたのだが、何しろ船舶の能力は敵軍が圧倒的に優勢であった。
スペインのガレオン艦は複数のマストを持ち、操艦の技術により、ある程度風上にも進むことが可能である。これに対し、長崎港周辺の和船はマスト一本を有するのみで、櫓に依存していた。しかし狭い入り江内でなら、小回りの利く和船の方が有利ではないかという者もいた。
だが洋上で敵艦隊を攻撃することは到底無理だと、採用されることは無かった。ただし陸上戦の場合はどうか。スペイン、ポルトガル兵に劣らず日本の兵も長期にわたる戦によって鍛えられ、精強であった。
鉄砲の装備とその集団戦法は上陸してきた敵兵と互角に戦えるに相違ない。スペイン軍はフィリピンを征服したようなわけには到底ゆかないだろう。
それに陸戦が長引くと、マカオ、マニラの基地から長途の航海を必要とする軍の兵站と補給の問題がある。兵や武器・弾薬を搬送したうえで長期間にわたる戦には途方もない経費を伴うだろから、彼らがどこまで本気で日本と戦う気があるのかが試される一戦でもあった。
信長が建造した大型の木造鉄装船は一五七八年。その二〇年後に建造された朱印船は長さ三六m、横幅九mであり、他にもほぼ同規模のスペイン軍船に匹敵する船が建造されて、それが大砲三門によって武装されていたという。
ただそれが外国の軍船に対して、そく使えるレベルにあったのかどうかは分からない。