「早い者勝ちだ」
「幸村は何処だ」
「はっ、これに」
現れた幸村は断髪した髪にくしを入れ、さらには椿油を塗ってあるようで、なかなかの男前になっている。年の割におしゃれな男だ。
「その髪はなかなか似合っているではないか」
「ははっ」
幸村は苦笑いをして見せた。
「ところで幸村」
「はい」
「そなたを呼んだのはな、相談したいことがあるんだが、他の者にも断髪を奨励しようと思うんだ――」
「皆を断髪にですか」
「そうだ」
「しかし」
確かに江戸時代に栄華を誇った武士がちょん髷を切ることは断腸の思いだっただろう。だが明治になってから、あの断髪令が出された時代から、約二百六十年も時をさかのぼっている。
今はまだそれほど髷に対する執着もないのではないか。そう考えたのだ。
「無理にさせようとは思わないぞ。奨励金を出そう」
「奨励金ですか?」
「そうだ。一番に断髪した者には、褒美として相当量(五百万円)の金を与えるんだ」
「…………!」
「そして二番手の者から百番までの者には(百万円)、次の百人には(五十万円)、さらに次の百人には(二十万円)と金を出す」
幸村は腕を組み、うなってしまった。
「早い者勝ちだ」
「なるほど、それでしたら切るものが現れるかもしれませんな」
明治4年、木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通らがアメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣された。
岩倉具視をリーダーとし、使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉は髷と和服という姿で渡航した。この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っているほど人気があったようです。
ただし、日本の文化に対して誇りを持っていた岩倉の髷なんですが、アメリカに留学していた子供らに「未開の国と侮りを受ける」と説得され、シカゴで断髪。以後は洋装に改めたようです。
変えられるものなら早く変えてしまった方が良い。さらには写真で今の風俗を撮れないかと考えた。
おれは未来から明治時代の写真機と資材を探し出して、大阪城に運び込んだ。つまりインチキをしたわけだ。なるべくこういうことはしたくないのだが……
この頃にはすでに、大阪城の周辺に学校も開校させてあった。そこでの授業で写真術を学ばせ、興味を持った者に技術の開発を命じた。
だが今すぐ利用という訳にはいかない。
感光材料による撮影が実現したのは、一九世紀に入ってからでした。銀板写真が発明されたのは千八百三十九年ですが、その四年後にはオランダ船により長崎に日本最初の写真機材が持ち込まれている。
島津斉彬の肖像写真は、現存する最古の、日本人が撮影した写真と言われています。 興味を持った彼は写真機材の研究を命じたようですが、銀板写真は薬剤の調製が難しく出来なかったでしょう。