「秀頼!」
「兄上」
「おう、秀頼か、久しぶりだな」
「兄上、あの歌舞伎座、女子達の踊りは見ものですね」
「…………」
「とくに、すかーと、と言う着物は――」
「秀頼」
「あのように足を出すなぞ、これまで聞いたことが――」
「秀頼!」
秀頼はこの頃、淀殿と聚楽第に居たのだが……
「秀頼」
「はい」
「どうだ、蘭学とか、学んでいるか?」
「兄上は私を幾つだと思っているのですか」
不満そうな顔でおれを見る秀頼だ。
秀頼に関しては、最近お忍びで歌舞伎座に入り浸っている、という話が伝わって来ていた。秀長とまではいかなくとも、おれと一緒に政務をこなすだけの者ならよかったのだが。典型的に、いい意味での殿様なのだ。
まあそう言うおれの過去も、振り返って見れば似たようなものだから、あまり人の事は言えない……
どこかに、そうせい候と言う殿さまも居たらしいが、秀頼はまさにそれだ。家臣の意見に対して異議を唱えることがなく、常に「うん、そうせい」と返答していたため「そうせい侯」と呼ばれていたと言う殿さまだ。
また薩摩治郎八という人物も居る。彼は大富豪の息子として欧米に知られ、フランスでの華麗で洒落た浪費ぶりに、バロン薩摩と呼ばれていたようです。
治郎八の生活ぶりは、有り余る財力を背景に趣味に浸り続ける毎日。実家からの仕送りで、一〇年とか三〇年とかの歳月で約六〇〇億円をただ何となく使い続けたという人物です。
一代で巨万の富を築き「木綿王」と呼ばれた薩摩治兵衛の孫ですね。イギリスに留学後、ヨーロッパの社交界にその名を轟かし、その豪快かつ華麗な振る舞いから、バロン薩摩と呼ばれていた。
その一方で、芸術家を支援するなど文化後援に私財を投じた。しかしそんな生活が出来ると言う事は、世の中が平和であるという事の証かもしれない。
そのような莫大な私財を投げ出してまで芸術家を後援するなどの行為が、円熟した文化を下支えして行くという事もある。秀頼の存在は、彼なりに世の中に貢献しているという事になるのかもしれない。
だが、おれの野望は少し違う。
一七世紀が始まった日本で、豊臣財閥の城を築き、海外に打って出るのだ!