彼女の喪失
手直しする前に、予約投稿が発動してしまいました……!
修正(9:30頃)前のものをチェックされた方、誠に申し訳ありませんでした<(_ _)>
「もう、お終いだ。終わりにしよう」
悠馬さんが何を言っているか、よく解らなかった。
「え? 『お終い』って? もしかして奥さんと別れる事になったの?」
私が聞き返すと、悠馬さんがまるで宇宙人を見るような目で、私を見ていた。
「いや、春香さん。もう二人で会うのはよそう。子供をまじえて会うのも。幼稚園の会合や参観日は仕方が無いけれど……もう、ばれたからには続けられないよ。君も分かっていたろう? こんな関係、長く続ける事なんかできない。君にはいろいろ励ましてもらって、本当に感謝している。僕は自信を無くして、少し病んでいたのかもしれない」
無意識に私は手を伸ばす。
離れていく彼の心を繋ぎ止めるように、膝の上で握りしめられていた彼の拳に触れようとした。するとスッと、その手を躱されてしまう。
「許してもらえるかどうかはわからない。けど、僕は彼女に一生を掛けて償うつもりだ。君も、旦那さんと航太郎君と幸せになる道を……諦めずに考えてみないか?」
そうして私に触れないまま、彼は真っすぐと私を見据えて来る。
彼は何を言っているんだろう?
いや、あまりのショックで動揺しているだけだ。
落ち着けば、いつもの優しい、人を拒めない彼に戻ってくれる筈だ。だって、夫の浮気が止む見通しなんか、万に一つも無い。私が……悠馬さんとの未来を諦めて、航太郎と夫と幸せに? あり得ない!
でも妻との偶然の遭遇で混乱し、苦悩する彼を、これ以上悩ませるのも可哀想だと思った。これから、私は彼を支えていくんだから。離婚が決まるか……あるいは妻との関係が冷え切る時まで、待っても良いかもしれない。
私は渋々頷いた。
すると彼は、何故か一つ大仕事をやり遂げたような、安堵の表情を浮かべたのだ。
別れの言葉は、きっと彼の気の迷い。
私は、彼を待てる。私達は大人で、夫婦の契約や子供への義務……家族や社会の様々なシガラミに縛られている。情熱だけで、全てを振り切れるとは私も考えてはいない。
ともかく彼の気持ちが、混乱が落ち着くのを待とう。落ち着いたら―――お互いの気持ちを確かめ合い、今度こそ二人で生きていく誓いを固めるのだ。
しかし、さすがに現場を抑えられてから平気な顔で逢瀬を重ねるのはマズいだろう。だから動揺して、つい別れを切り出してしまった悠馬さんの言葉を、一度は受け止める振りをしようと思う。
そう思って、指折り数えて待っていた。―――なのに。
事態は、私の未来予想図とはおよそ違った方向に動き始めていたのだ。
満ちゃんが幼稚園を休んだ。暫くお休みが続き、『やっと来た!』と思ったら、見た事の無い体格の良い鋭い目つきの眼鏡の男が、満ちゃんの手を引いて幼稚園の送り迎えをし始めた。強面ながら、冷たい銀色の眼鏡フレームの奥の瞳は涼やかで、かなりの美丈夫だ。
何故送り迎えの人間が変わったのか、事情を知らないママ達があれこれ噂をする。
先生方は、口を濁して答えてくれない。箝口令が敷かれているようだった。
皆興味津々で、満ちゃんにこっそり問いかけている。
「ねえ、満ちゃん最近お迎えに来ているあの人、誰?」
「イシドウさん!」
「『イシドウさん』って、お父さんかお母さんの兄弟?」
「ううん、違うよ」
「親戚のおじさん?」
「違うよ。『イシドウさん』は、私と結婚するの!」
満ちゃんの話は要領を得なかった。両親の兄弟という筋が一番ありそうな線だったが、それは否定された。確かに兄弟では無いだろう。だって、悠馬さんにも、あの傲慢な妻にも全く似てない。もし兄弟だとしても、義理以外は考えられない。
皆で満ちゃんを囲んでいたら、スーツ姿の厳つい男が現れた。満ちゃんは蛙のおもちゃみたいにぴょんぴょん跳ねて、その男にしがみ付く。彼は顔色一つ変えずにしがみ付く満ちゃんを抱える。満ちゃんは随分彼に懐いているようだ。―――私は喰い入るように、その男を観察する。
いっそ直接、聞いてみようか?
勇気を出して悠馬さんにメールを送ったけれど、全く返事が来ないのだ。別れを告げられたあの日から、かれこれ一か月が経とうとしていた。
ホテルのロビーで彼の妻と遭遇した翌日、幼稚園に子供を預けたあと悠馬さんは私を公園に誘った。私達は並んでベンチに座る。そこで彼は、あの別れの言葉を私に告げた。
その一週間ほど、今まで通り幼稚園には悠馬さんが満ちゃんを送り迎えを行っていた。できればこっそり視線を交わしたと思い、彼を見つめる。しかし真面目な彼は、頑なにこちらを見ようとはしなかった。きっと別れを言い出した手前、私に話し掛けるのは気まずいと考えているのかもしれない。
そうよね……今はまだ時期じゃない。
将来の二人のためだと私は自分に言い聞かせ、話し掛けず、連絡したい気持ちも抑え込んだ。
航太郎が満ちゃんちに行きたいと、ごね始める。私は苛ついて、ぴしゃりと叱った。最近優しく接していたからだろうか? 航太郎は随分、我儘になっていた。
しかし私の剣幕に漸く立場を理解したようだ。ビクリと震えて、それから不用意にに近付いて来ることはなくなった。
私だって―――良い母親でいたい。
悠馬さんさえ、私を見てくれるなら航太郎にも優しくなれる筈なの。悠馬さん、早く、早く私を迎えに来て。私は逸る気持ちを抑えつつ、祈り続けた。
次の一週間、満ちゃんは幼稚園を休んだ。
その後スーツの強面が現れた。悠馬さんとは、あれ以来顔を合わせていない。
更に一週間が過ぎた頃、私はとうとう我慢しきれずにメールを送った。『元気?心配なので、連絡ください』といった、短いもの。
本当は色々聞きたかったし、声も聞きたかった。でも、電話はまだマズイと思い、我慢したのだ。メールの返事が来たら。今度こそ、都合の良い時間を聞いて絶対電話をしようと、心に決めた。
しかし、いまだに返信は無い。
今度は悠馬さんに何かあったのでは、と心配になった。
また一度だけメールを送ってみる。けれどもやはり、返信は無い。
迷った末、勇気を出して電話を掛けてみることにした。コール音が続き……しかし、悠馬さんはそれでも出なかった。もしかして、傍にあの妻がいるのかもしれない。
留守電になった所でメッセージを残して、ケータイを閉じる。しかし、いくら待っても。折り返しの電話も、メールも返って来なかったのだ。
私は更に心配になった。
悠馬さんはどうしているのだろう?
淋しくて仕方が無い……体が、心が凍えるように冷たい。早く、温めて欲しい。また悠馬さんと抱き合いたい……!
今の私に出来るのは、妄想の中で悠馬さんと逢瀬を重ねることだけだった。
私に内緒で離婚していた悠馬さん。彼が颯爽と現れて、こう言うのだ。
『待たせたね、春香! もう心配無い。ちゃんと就職もしたし、マンションも買った。僕に付いて来て欲しい―――君が必要なんだ!』
私の胸は、喜びに打ち震える。
そう、私に必要なのは彼との愛だけだ。重たいしがらみも、世間の常識も全て脱ぎ去って……彼の元へ。夫も子供も捨てて、彼の胸に飛び込むのだ。
そんな希望に満ち溢れた物語を思い描けば……気持ちがすっと安らいでくる。優しい悠馬さんの微笑みを思い浮かべ、私は漸く眠りに着くのだった。