彼女の幸せ
不幸一色だった私の日常は、変わった。夫の帰宅が遅くなろうが、何処で眠っていようが全く気にならなくなったのだ。だって今の私は―――憧れの騎士を目の前で堪能できるのだから。
現金なもので、悠馬さんに夢中な私の中から夫への独占欲は掻き消えてしまった。だから夫が外で女と会おうが恋をしようが、どうでも良いと思えるようになった。今では結婚当初の優しかった夫を取り戻したいなどと、微塵も考えない。
ただ、夫の浮気相手から電話が掛かって来た時は、やはり不快な気持ちにはなる。ただ、『またか』とうんざりした気分になる程度だ。もう、怒りをぶつける生贄を選ぶことも無い。
どうせ扱い辛くなれば、浮気相手は夫に切られる運命だ。妊娠が本当だろうが狂言だろうが、同じこと。金を握らせて、おしまい。だからどうせなら一線を越えるような真似をせず、楽しんでおけば良いのに、と思う。欲を掻くから、いけないのだ。
私も、欲は捨てた。
愛されたいと願う我欲を捨てれば、そこそこ楽に生きられる。
世間ではホストに入れあげたり、出会い系で一度きりの相手とホテルで会うような、満たされない主婦がいると聞いた事がある。が、そんなリスクが高いばかりでトキメキの無い付き合いなんて何が楽しいのか、私には理解できない。
私の今のささやかな望みは、一つだけ。私の『癒し』である悠馬さんの、隣のポジションをできるだけ確保し、楽しい妄想に胸を躍らせることが出来れば、言う事は無い。
そう、それまでは。ちょっとしたトキメキがあれば―――私は、幸せを感じていられたのだ。
その時私は、ちょっと疲れていた。夫の浮気相手からの電話の所為ではない。週末に開催された催しで、夫の母である義母の相手をしなければならなかったからだ。
その気配を察してくれた悠馬さんが、私を心配そうに覗き込む。
いつもより近い距離に、鼓動が速まる。彼の関心が私に……子供絡みではなく、私のみに向けられた瞬間。眩暈がするほど心地良さが、胸に湧き上がる。
だから、ちょっとした出来心だった。夫の愛人から、脅迫電話が掛かって来たコトを打ち明けたのは。
本当の疲れの要因である義母の話題を選ばなかったのは、何故だろう。たぶん、無意識に計算が働いたのかもしれない。義母に対する愚痴では、悠馬さんの純粋な同情を得ることはできない。ひょっとすると、彼の不興を買ってしまう恐れもある。
彼に恋をしていた私は、咄嗟に自分をよく見せたいと思ってしまったのだ。彼の温かい視線を失わない為には、私は『純粋な被害者』でなければならない。
苦しい胸の内を打ち明けた私に対する、悠馬さんの視線が更にいたわるように優しくなる。その幸福感といったら……!
男の人にこんな優しい目で見られたのは、初めての事だった。その時雷に打たれるように、その事実に気付かされた。
嬉しかった。
俯きつつ語る自分を、何処か遠くから見下ろす自分がいる。まるで、悲劇のヒロインみたい。そう冷静に捉えているのに、外側だけは悲壮感ただよう耐え続ける女になりきっていた。
だって、悠馬さんの同情が気持ち良かったのだ。気持ちを打ち明けた事で、今までより近づけたような気がして―――とても、とても嬉しかった。
だから多少の演出は、仕方がない。私は慎重に事実を選り分けて口にする。苛立ちを解消するたびに生贄を選んだことや、家政婦の松島と勇気をもって戦ったことには決して触れない。それが悪いことだとは、思っていない。生きていく為に必要なことだったと思う。結婚は現実なのだ。完全に悲劇のヒロインになり切れない過失を抱えることもある。私だって人間だから、そうそう被害者ではいられない。そうしなければ、ここまで耐えることは出来なかっただろう。
ただ、少しでも彼に嫌われるような発言は避けたかった。
被害者であり続ければ、あの労わるような優しい視線を手放さずに済む。
この夢のような酩酊感を、少しでも長引かせたい。その為には、私はあり得ないほどの純粋さで横暴な夫の仕打ちに耐える女でいなければ、ならない。その時私は物語の主人公のになり切っていた。だからスラスラと悠馬さんに対してこんな事を言えたのだ。
貴方たち夫婦が羨ましい。
お互い愛情を持っていて、僕が彼女を人間として扱い尊重している。少なくとも自分の夫と違って、道具のように相手を遇することはないのだろう、と。
貴方は素晴らしい夫だわ。
男らしくて、愛情深い。本当の男らしさはそういうものだわ。
私は、彼を褒め称えた。そう、これはある意味私の本心でもある。
私がもし、物語のヒロインだったら? きっとこんな風に、言うだろうから。決してヒロインは夫に当てつけるような言葉を投げつけたり、しない。時には愚鈍に見えるほど、他人を褒めたたえもする。
すると、彼はこそばゆいような表情を浮かべた。
ヒロインの言葉が、魔法のようにヒーローの心を掴む瞬間。これがそれなのだと、天啓のように感じた。現実に物語の中の出来事を、目の当たりにした瞬間だった。
私の言葉にこんな威力があるとは、思ってもみなかった。これまで私の言葉が誰かの心を動かすなど、経験したことが無かったのだ。
皆、私の言葉を笑って、若しくは眉を潜めて聞き流す。世間を知らない、甘い人間なのだと常に誰からも軽んじられ、見下されてきた。初めて、自分にも何かが成し遂げられるのではないか? そんな予感がした。
その予感に後押しされるように、パン!と視野が開けた気がした。そのため、私は重大な事実に目を向けることが出来たのだ。
ひょっとすると、彼も言われ慣れていないのかもしれない。私が彼の妻だったなら毎日浴びせるほど口にするだろう、彼に対する感謝の言葉を。
私はこの時、初めて彼の妻を意識した。
こんなに素敵な悠馬さんに。こんなに大事にされているのに―――彼女はそれを誉めもせず、当たり前のように愛情を浴びているのだろうか?
ふと、夫の言葉が蘇る。
『お前の仕事だろう』『確かに、妄想で当たり散らす女より、黙々とやるべきことをやる女の方が好ましいな』―――体の芯まで冷たくなるような、まるで小さな家庭で奮闘する人間を遥か彼方から睥睨するような……威圧感のある言葉の数々を。
ひょっとして悠馬さんも、私と同じ? 彼の妻は、傲慢にも専業主夫の彼を一段下に見ているのではないだろうか。
ふと、言いようのない怒りが込み上げる。
『専業主婦なんだから』『仕事って大変なのよ。春香には旦那様の気持ちはちょっと想像できないのかもね』―――呆れたように、都の口元が放つ言葉。その口元はニヤリと弧を描く。口元を歪めてまるで馬鹿にするように嗤う女が浮かんだ。いつの間にか……都の顔は、見た事もない悠馬さんの妻にすり替わっていた。意地悪そうに、人を見下し嗤う女の顔に。
この時からだ。私が顔も知らぬ、話した事も無い悠馬さんの妻を憎むようになったのは。
無自覚に幸せを享受し続ける女性は、私の怒りを受け止めるべき格好の標的になった。
私の尊厳を傷つけ続ける夫。親友だと思って来た都の、掌を返したような態度。義母からの言い知れない圧力。娘である私の気持ちを理解しようとせず、自分勝手な振る舞いを続ける母親と父親に対するふつふつと滾る怒り―――呑み込んできた今までの恨みの全て。
私には捌け口が必要だったのだ。それは、許されるべきではない幸せに浸り切った彼の妻に、むけられるべきものだった。
決して私には出来ないことを成し遂げている女性。男と渡り合う事を恐れもせず社会的にも成功し、素敵な優しい旦那様に愛され支えられ、可愛い子供も手にし―――それなのに与えられる好意に鈍感で、感謝を抱きもしない女。
そういう女は、罰を受けるべきなのだ。
私が妄想で押しとどめていた欲望に、行動の理由を与えたのは、そんな醜い感情だった。
これまで私は、悠馬さんの事をアイドルのように、綺麗な宝物を見るように、大事に大事に心の中で愛でていた。しかしその時からゆっくりと、私の中で何かが変わったのだ。
生ぬるい幸せに浸っていた、幸せな時は終わりを告げようとしていた。
私は、アイドルだった悠馬さんを―――私の復讐の道具に仕立てることに決めた。
彼は傲慢な女を断罪する凶器に生まれかわらねばならない。私が経験してきたあらゆる理不尽の受け皿として。
それと気付かぬうちに、私は悲劇のヒロインでいることを放棄する。
そう。それはまさに、嫉妬深い王妃。愛妾や側室ばかりに目を向ける美しい国王に顧みられず、歪んでしまった。そんな昏い気持ちを知ろうともしない、愛されることを当たり前のように考えている贅沢な女に、今こそ思い知らせてやりたい。
そのために、綺麗な想像の世界から―――私は一歩、踏み出すことにした。
鬱屈した恨みを晴らすことを目的として、傲慢な女の魂を貶めるために。
こうして私はこれまで想像の中で大事に大事に愛でていた、美しい偶像だった彼を、籠絡するに至ったのだ。