彼女の不安
今では、すっかり夫との仲は冷めきっている。
私は客室を、寝室として使うようになった。どうせ夫は偶にしか寝室のベッドでは寝ない。それに夫は妊婦に手を出す気はないらしい。ずっと身体的な接触のないまま、日々は淡々と過ぎて行く。
なのに私のお腹は、そんな事にはお構いなしにどんどんせり上がって来る。視線を下げると、私の意志とは関係なくボコボコと動くお腹が見える。
まるでエイリアンみたい、そう思った。
私のお腹に住み着いたエイリアンの性別は、男だそうだ。せめて見た目が、夫に似なければ良いと願う。頻繁に動くのは性別の所為だろうか。ボコッと、お腹の裏側から蹴り上げられて皮が突っ張るたび、苛立ちが込み上がる。
「いたい。煩いな……」
都は妊娠中、お腹の中の子供にいっぱい話し掛けたって言っていた。私もそんな風に妊婦生活を過ごすのだろうか? と何処か他人事のように考えたこともあった。
だけど実際妊娠して。私は、そんな気にはどうしてもなれそうもない、と確信する。言葉を発したとしても、出て来るのは恨み言だ。これで本当に生まれた後、可愛いと思えるようになるのだろうか、と不思議に思う。
鏑木の腰が治ったので、松島が通ってこなくなった。ホッと胸をなでおろす。これでやっと、安心して実家に帰れると思った。特に楽しいことのある家ではないけれど、少なくとも帰って来ない夫が、今夜誰と眠っているのかと……ヤキモキせずにいられるのは、有難い。
出産後、一月と思っていた実家滞在が二ヵ月に伸びた。ふにゃふにゃとした新生児の世話も大変だし、何より眠い。母乳が出なくなって、ミルクを足すようになったのだが、これがまた大変なのだ。とてもあの、孤独な空間で戦えるような作業じゃない、と思う。しかし二ヵ月に差し掛かる頃、母親が心配そうにソワソワしながら私の帰宅を促すようになった。
「航一さんを独りにしておいて、心配じゃないの」
「もともとあの人、週に二、三回しか返ってこないわよ。長期出張も多いし」
「あのね」
二人しかいない場所で、何故か母親は声を潜めた。
「夫の浮気は、大抵里帰り出産の時に始まるのよ」
真剣な顔で話し始めるから、少し笑いそうになった。
浮気なんて。とっくにあの人はしているに違いない。確たる証拠はないと言え、ストーカーになった新しい秘書とは、間違いなく絶対に何かあった筈だ。済ました顔をしているが、以前からの秘書の郷田だって分かったもんじゃない。接待で銀座のホステスと遊んで来ることもあるだろう。今更だ、と思った。
「男は寂しがり屋なのよ。放っておかれると、優しくしてくれる女に絆されてしまうの。現に貴方のお父様だってね、……」
と、聞きたくもない苦い経験談を語り出した。
子供だった私は知らなかったが、そう言う騒動が、かつてこの家でも起こっていたらしい。その当時他所の女に嵌ってしまった父親を取り戻すのに、探偵を使ったり話合いをしたり、母親は大層奔走したそうだ。聞きながら思う。……もうこれは、忠告では無く愚痴じゃないの?
娘に、聞かせる話じゃないでしょう? とも、思う。
そんな話、今更聞きたく無かった。ミルクを二、三時間おきに飲まさなければならないから寝不足だし、航太郎を寝かしつけるのに抱っこして揺らす腕は痛いし……疲労がピークに達している私に、何故そんな嫌な話を聞かせるのだろう?
何故、母親は『母親』で居てくれないのだろう。
貴女の口から貴女の夫の愚痴など、聞かされたくないと娘が思っているのが分からないのだろうか。彼女は結婚して子供を産んだ私を、女の同胞として見ているのかもしれない。今だから言える、と言った所か。不快気に眉を顰めつつも、何処か喜々として語る様子を見ていて思う。彼女はさぞスッキリしたことだろう。押し込めていた不満と秘密を、新しく現れた同胞にやっと暴露出来たのだから。
でも私は貴女の娘で、貴女の男は私の父親なの。
そんな話は―――出来れば一生、聞きたく無かった。
それかどうせなら。結婚する前に、話してくれれば良かったのに。
外堀を埋めて置いて『素敵な男性と結婚出来て、幸せね』なんて盛り上げて置いて―――隠し玉のように、種明かしをしないで欲しい。そしたら結婚なんて……あんな男の子供を産むなんて、しなくて済んだのに。
嫌い。皆、嫌いよ。
中でも私が一番嫌いなのは―――もしかして、この無邪気に人の好意を享受するだけの、私の眠りを常に阻害することしか考えていない、傍らにある、この小さな存在なのかもしれない。
私は母に追い立てられるように、渋々マンションに戻ることになった。
すると驚いた事に。
家のキッチンには、松島がいた。
「……鏑木さんは?」
珍しく夕食の席に着いている夫に尋ねる。「一度戻ったが、やはり腰の具合が思わしくないようだ。辞めて貰った」と返事がある。するとキッチンから声が掛かった。
「あの。鏑木さん、専門の病院で手術するようですよ。ヘルニアが悪いみたいで」
「そう……」
「旦那様は治療に専念するようにって、気を使って下さったんです」
まるで夫を庇うような物言いに、チリリとうなじの毛が逆立った。
松島は以前、大人しくてこちらから話し掛けなければ、声を出さないような人間だった筈だ。いつの間に、こんなにハッキリ声を出すようになったのだろう。
夫の皿が空になったのを目にした松島が、気を利かせてこう言った。
「いつものお茶で良いですか?」
「ああ……いや、白湯をくれ」
「承知しました」
息が止まるかと、思った。彼女は『いつも』と言った。私の前で、夫とのつながりをアピールするような言葉を使うのは何故なのか。鼻歌を歌うように、機嫌良く彼女は白湯を用意する。私はジッとその様子を食い入るように見ていた。すると視線を感じたように、彼女が顔を上げる。
「奥様はどういたしますか? 麦茶やタンポポコーヒーも用意しておりますが」
「タンポポコーヒー?」
「カフェインレスの珈琲の代用品です。母乳に影響あると嫌がる方もいらっしゃるので……」
「……私はほとんど、ミルクなの。母乳が出なくて」
「そうですか。では、緑茶や紅茶もご用意できますが」
「……紅茶にして」
「かしこまりました」
ああ、嫌になる。
どうして自分の家に来てまで、こんな目に合わなきゃならないの?
松島が白湯と紅茶を運んで来た時、ちょうど図ったようにベビーベッドの航太郎が泣き声を上げた。
「ゴメンなさい。航太郎の世話があるから、いらないわ。―――捨ててちょうだい」
「!……分かりました」
驚いたように目を丸くして頭を下げる松島に、少し溜飲を下げる。しかし航太郎を抱きかかえて移動しようとした時、松島から白湯を受け取った夫が「ありがとう」と言ったのを耳にして、途端に胸苦しくなった。
振り向くと、松島が照れくさそうに笑って会釈し、私の食べかけの皿と夫が完食した皿をお盆に下げている。
苛立ちを抑えながら、私は航太郎を抱えて廊下へと逃げ出したのだった。