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彼女の嫌悪

 それから、夫をますます疎ましく感じるようになった。

 すると苛立つ私に、夫はある日こう言ったのだ。




「そんなに大変なら、暫く実家に帰ると良い」

「そんなこと……出来ません。貴方がこちらに帰っていらっしゃるのに」




 家政婦を雇っているから、私がするのは彼と食事を一緒に取ることと、見送るくらいのことだ。しかし暗に会社と同じビルにあるマンションに泊まる彼を、皮肉ってしまう。その皮肉に彼が動揺を見せるのではないか。そう恐れつつも期待しながら観察する。


「家政婦がいるから、用は足りるだろう」


 彼がキッチンの方にチラリと目を向けると、家政婦の松島と言う女性が少し恥じらうように顔を上げた。

 先日まで五十代の鏑木、と言う女性が通って来ていたのだが、腰を痛めたとのことで急遽補填されたのだ。松島は地味な装いをしているが、三十代の女ざかりだ。子供に手が掛からなくなったので、今までの専業主婦としてのスキルを活かして働き始めたのだと言う。ビジネスライクな態度を貫く鏑木と違い、松島が夫に見惚れる素振りを隠さないことに私は苛立ちを感じていた。


 まさかこの松島と夫を二人切りにさせるなど、出来る訳がない。彼が外で好きに振る舞っていることさえ腹立たしいのに、この家、私のテリトリー内でそんな真似をするのかと思うと―――頭に血が上った。


「貴方は、私を家に帰したいの?」

「俺の言葉をどう取ったら、そうなるんだ?」

「……私が邪魔だとおっしゃっているのかと」

「深読みし過ぎだ。ここに居たければ、居れば良い」


 しかし機嫌を損ねたらしい夫は、その後ムッツリとしてほとんど口をきかずに家を出た。それから彼が家に帰る頻度がますます減った。出張でいない事も多いのに、東京にいる時でさえ帰宅するのは週に二、三度あれば良い方になった。

 彼の秘書から代理でメールが届くたび、私の苛立ちは募る。

 そんな日は彼から与えられたカードでたくさん買い物をして、美味しい物を食べるのだ。ストレスを溜めるのは妊婦にとって一番悪いことだと、検診でお医者様も言っていた。マタニティ・マッサージにも通って、夫の愚痴を言って溜飲を下げる。

 友人の都を呼び出そうとしても、休日でなければ彼女の夫の都合がつかないと断られる。私がベビー・シッターを雇うと言っても、首を振る都。友情って何だろう、と虚しくなる。自分は私に『ベビー・シッターを雇って貰えば良い』などと簡単に言っていたくせに。


『子供が出来れば変わるわよ。男の人って親になる実感を持つのに、時間が掛かるらしいから』


……都が言うように、彼も変わってくれるかもしれない。

 それにどうせ家に帰っても私に居場所はないのだ。母親に口うるさくアレコレ言われて、窮屈な思いをするのは目に見えている。里帰り出産を母親から勧められた時、チラリと彼の愚痴を零したら、案の定似たような事を言われた。


『男の人はそう言うものですよ。子供さえできれば、子供可愛さに早く帰って来るから心配しなくても大丈夫よ』


 腹立たしく感じるものの、出産経験のない私には、経験者の言葉に反論するものは何もない。本当にそう言うもの、なのだろうか。私の望みは子供さえ生まれれば、叶えられるのだろうか?

 私はただ、結婚当初感じていた、確かにこの掌に幸せな未来を掴んだと言う実感を―――もう一度この手に取り戻したいだけなのだ。




 けれども里帰り出産を間近に控えたある日、そのささやかな望みも打ち砕かれた。




 SNSで知り合って仲良くなった女性から、メッセージが届いたのだ。私が読んだオンライン小説についての呟きに、細やかなコメントしてくれて仲良くなった。趣味が合う、と言われて嬉しかった。久し振りに心を打ち明けられる相手が出来たと感じ、非公開のダイレクトメッセージも何度か遣り取りをして、親しくなれたと感じていたのに。だけどある日、直接届いたそのメッセージに書かれていたのは―――


『……そうそう、HARUさんの旦那様には、いつも大変お世話になっています。とっても素敵な方ですよね。この間は○○と言う素敵なお店で、美味しい食事をご馳走になって―――』


 血の気が引いた。そしてスマホを持つ手が震えた。


 その時漸く悟った。この人は私の素性を知った上で、私をフォローしていたのだ。いや、もともと彼女は私の夫と知合いで、その妻である私に興味を持ったに違いない。そしてその興味の原動力は、決して好意などでは無く……。


 震える手でスマホを握り直す。夫に直接、何度も電話を掛けた。直ぐに留守電メッセージに変わり、その度に切る。それを何度か繰り返して―――。

 結局諦めて、彼の秘書にメールを送った。すると、直ぐに返事が返って来る。秘書の郷田によると、夫は会議中らしい。彼女から、終わり次第連絡をするように伝えてくれると言われて、一旦スマホを置いた。


 そこで気が付いた。

 手が痺れるほど、強くスマホを握りしめていたという事に。


 本当は。ひょっとしてあのメッセージはこの郷田じゃないろうか、と疑っていた。

 が、丁寧な返信に違うかもしれない、と言う印象を受ける。それともあんなメッセージを送りつけて置いて、知らん振りで対応しているのだろうか。―――だとしたら恐ろしい事だ。


 ジリジリ連絡を待っていると一時間ほど経過してから、夫からメールが届いた。話があると返信すると、直ぐには時間が取れないらしく『夜に家に帰る』との返事が戻って来る。

 近頃は帰らない日ではなく、帰る日に連絡が来るようになっていた。もうすぐ里帰りするのだから、その連絡もやがてなくなるのかもしれない、と寒々しい気持ちで考える。


 しかし一方で、胸の内は燃え滾るように震えている。


 やはり夫が帰って来なかったのは、女がいたからなのだ。

 それはあの、美しい姿勢の秘書かもしれない。それとも違う誰かなのだろうか?

 いずれにせよ彼が『仕事、仕事』と免罪符のように使っている言葉は偽りだったのだ。それを私は知ってしまった。

 だって私とゆっくり出掛ける時間はないのに、そのメッセージの彼女は素敵な場所に連れて行って貰えているのだから。


 しかしマグマのようにフツフツ滾った怒りは、時間を経過するごとに冷えて行き―――やがて堅い岩のように固まってしまう。

 冷え冷えとした透明な気持ちで、迎えた夫に、スマホのメッセージを突き付けた。


 しかし夫は眉を少し顰めただけで、こう言い放ったのだ。




「これはこちらで処理をする。もうこのアカウントからメッセージが来ても相手はするな」




 謝罪の一言も無いことに唖然とする。そのため、夫を糾弾しようと待ち構えていた気構えがよろめき、つい下手から問いかけるような言葉を発してしまう。


「あの……どういうことなの?」

「どういうこと、とは?」


 夫は眉一つ動かさず、私を見返している。

 違うでしょう? その態度は正しくない。

 貴方は自分の非を詫びて、私の前に膝をついてもおかしくない状況なのに……!


「彼女は貴方の何なの……?」


 私の当然の問いかけに、夫は僅かに瞳を細める。

 まるで言葉が通じない、外国人と話しているような手応えのなさに歯痒さを感じる。


「私は知る権利があるでしょう? あなたの妻で、この子の母親なのよ?」


 せり出したお腹に手を当てて主張すると、彼は漸く私にも分かる言葉で返答を口にした。


「……確証はないが、新しく雇った秘書だろう」


 秘書? 新しく雇った……と言うことは、いつも連絡をくれる郷田と言う秘書とは違う人間と言うこと? 夫一人に秘書って、そんなにたくさん必要なものなのかしら。郷田には男性の上司もいた筈なのに。


「どういう関係なの?」


 秘書と言いつつ、権力を笠に綺麗な女性ばかり周りに侍らせているのではないか、と私は疑いの目を向ける。結婚式で夫の部下から挨拶は受けたけれども、数が多過ぎて記憶はおぼろげだ。それと何くれとなく彼と話していた、姿勢の良い華やかな秘書の郷田と、その上司と言う男性だけだ。後はこれだけは覚えておけ、と言われた有力な取引相手ぐらいしか覚えていない。


「『秘書』だと今、言っただろう」

「食事をしたというのは……本当なの?」

「ああ」

「何故?」

「―――は?」

「どうして食事なんか……」


 夫は今度こそ不快気に眉を顰めた。怒りのオーラに私は身を竦める。

 一瞬殴られるかと思ったのだ。―――が、果たして夫は立ち上がっただけだった。そして無言で私に背を向け、その場を出て行こうと扉のノブに手を掛ける。


「何処へ行くの?!」

「会社だ」

「え、今から……?」

「仕事を途中で抜けて来たんだ。人を待たせている」


 ザワリと胸が騒いだ。思わず口を付いて、不安が零れ落ちる。


「それって……その秘書って言う人?」

「秘書はもちろん残っているが―――」

「彼女を……あのマンションに出入させているの?」

「は? マンション? 新しい秘書のことを言っているのか? 今、仕事で戻ると言っただろう」


 不快を色濃く表情に上らせ、彼は吐き捨てるように言った。


「でも……」

「ああ、そう言えば」


 彼は思い出した、と言うように首を振った。


「私用で郷田の手を煩わせるな。彼女は君より、よほど忙しいんだからな」


 私は言葉を失った。いつも私用の連絡を秘書にさせるのは誰だと、言いたかった。貴方が何度電話しても出なかったから、仕方なくあの秘書の郷田に連絡したと言うのに。郷田が、こっそりあんなメッセージを知らない顔で送りつけて来たのかも、と不安に押しつぶされそうだった私の気持ちを、踏みつけにされたような気分になる。


 怒りに震える拳を握って言葉を探す私に―――彼は更に冷たく、こう言い放った。





「では、行く。実家に帰ったら、一応連絡を入れなさい。ああ、今度は電話では無くメールでな」

「……はい」




 バタン、と閉まった玄関扉を前に、私は立ち竦む。


 彼の中では、私が実家に戻るまでの間に、彼がこの家に戻って来ることはない、と言うことは既に決定事項になっているらしい。それは元々そう言う予定だったのか、それとも今の会話で機嫌を損ねた結果、そうなったのか……。


 それから―――棚から鋏を取り出した。それを手に、寝室のクローゼットへと向かう。


 妊婦にストレスは禁物だ。私はこの怒りを鎮めるための、生贄を再び選ばなければならない。

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