表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/11

彼女の苛立ち

 夢を見ていられたのは、妊娠するまで。




 妊娠してつわりが始まり、思うように動けなくなった。ご飯を炊く湯気の匂いにすら、吐き気を感じる。なのに夫は、今まで通り自分の思うがままに生活していた。

『二人で作った子供なのに』と、腹が立って仕方がなくなる。体調が定まらず苛立ちを隠せない。次第に夫に向かって、とげとげしい言葉を掛けずにいられる日が少なくなって行った。


 もっと根気よく接してくれれば良いのに。


 腹立ちを抱えながらソファに座ったままの私を置いて、仕事に向かう夫。重い扉が閉まるその音が、居間まで届く。その途端、落ち着かなくなり腰を上げた。

 廊下に出て、既に誰も居なくなった玄関にそっと立ち入る。閉まったドアを見つめながら、何故か置いてきぼりにされたような……気分になる。

 せめて出て行く前に。戻って来て私を気遣う言葉を掛けてくれるくらいの、優しさを示す気も無いの? そんな彼に対してまた今日も、失望を深める。


 女子高の友人、出産経験者の(みやこ)の旦那様は違う。つわりで不安定な状態にあった都が理不尽に腹を立てた時ですら、彼女を優しく気遣ってくれたと言う。普段仕事で家にいないからと、休みには色々な場所に連れ出して、気晴らしにも付き合ってくれたらしい。

 私の夫は仕事が忙しいからと言って、愚痴に付き合ってもくれない。そう漏らしたら彼女は「そりゃあ、そうよ」と呑気に笑った。


「春香の旦那さんくらい忙しかったら、寝る暇だってないでしょうし」


 などと、夫の肩を持つ始末だ。しかも苦しんでいる最中の私に向かって、慰めにもならない言葉を掛ける。


「それに出産したら今度こそ、寝る暇もないんだから旦那さんのことなんか考える暇も無くなるわよ。ひょっとすると、旦那さんの気持ちが分かるようになるかもね。むしろ妊娠中は楽だったって思い知るわよ!」


 その割に、新生児を持つ母である都は、こうして私の呼び出しに応じてランチをしているではないか。それも、彼女の旦那様がその間娘を見てくれているから、らしい。やはり彼女は私より恵まれていると思う。

 私の夫は仕事、仕事で代わりに子供を見てくれることなんて、あり得ないだろう。そう言うと「春香は今も通いのお手伝いさんが家事をしてくれるのでしょ? 何かあったら旦那さんがベビーシッターを雇ってくれるんじゃない?」などと、大人ぶって窘める。


 それはおそらく、彼女の言う通りだと思う。彼は金払いは、悪くないから。

 だけど私が言いたいのは―――そう言うことじゃないのだ。伝わらない事にもどかしさを感じる。




「春香は専業主婦なんだし、ゆっくりやれば良いのよ。時間はあるんだから焦る必要ないわよ」




 彼女の実家は古くからの地主だ。家柄の良い人にままある事だけれど、お金儲けには走らず、今ある物を維持する事を優先している。生活自体は地味で、女子高で裕福な暮らしを自慢する同級生が多い中、一般人のような比較的慎ましい暮らしをしていた。なのに周りを羨むような事もなく、飄々としている。

 高校時代彼女は、私同様地味なグループに属していた。外部受験で国立大学に入ったけれども、聞く限りでは高校と遜色無い、地味な生活ぶりを続けていたと感じた。そして卒業後公務員になり、初めて付き合った同僚と直ぐに結婚する。今は六ヶ月の産休を経て育休を取得中だ。一年子育てに専念した後、復帰するつもりだと言っている。小さい子供がいるのに働かなければならない彼女を、気の毒に思う事はあっても羨ましいと思うことは無かった。


 なのに『専業主婦』と言われた時、微かに苛立ちを感じてしまった。彼女の言葉に潜む、優越感を発見してしまったのだ。自分は私と違う、とでも言いたいのだろうかと悔しくなった。

 それでも積極的に人と関わる性質ではない私の愚痴を聞いてくれるのは、彼女くらいのものだ。同い年だけれども、彼女を頼りがいのある姉のように思っていた。けれども今、小さく裏切られたような気持ちになってしまう。


 誰も私の気持ちを分かってはくれない。こんな事を母に打ち明ければ、必要以上に騒ぎ立てて何もかも台無しにしてしまうだろう。父は母のそう言う性質をことさら嫌っているし、取引相手である私の夫の顔色を窺い『それぐらい我慢しなさい』と叱られるのがオチだ。

 だからこれまでいつでも、私の言うことを遮らずに頷いてくれる存在だった彼女に、そのように窘められてショックだった。

 憂さ晴らしの筈のランチだったハズなのに、より苛立ちを募らせる結果になってしまう。モヤモヤとした気持ちを抱えながら、家に帰った。


『本日社長は業務の為、こちらに宿泊致します』


 彼付きの秘書から代理でメールが送られて来た。彼が取締役社長として任されている会社は、彼の父親が会長を務める、親会社が所有する自社ビルのワンフロアを占めている。そのビルの高層階は分譲マンションになっていて、彼の名義になっている部屋があるのだ。仕事が忙しい時や接待で遅くなった時に彼は、その部屋に泊まることがある。

 ただし私はまだそこに足を踏み入れた事はない。ハウスクリーニングを定期的に入れているから世話をする必要はないし、彼は仕事に関わることに私が口を出すのを極端に嫌がるのだ。それにそう言った物件はその部屋だけじゃなくて、都内だけではなく主要な都市や海外にも幾つかある。

 一度その部屋を見てみたい、と言ったら眉を顰められた。理由は夜景が綺麗だろうから、と言う単純なものだった。彼にとっては『そんなことで』貴重な時間を削られたくない、考えを纏めたくて一人になる場所なのに、私がいたら邪魔になるから―――と断られた。




 女がいるのかな。




 ふと、思う。最近冷たいのは、私がイライラしている事ばかりが原因じゃなくて。そのマンションに別の女性を招き入れているからかもしれない。だから私が無邪気に放った言葉に、彼は眉を顰めるのではないだろうか?―――そんな考えが頭に浮かんだ。


 今日も私は一人で夕食を食べる。彼は会社の部下と、若しくは取引相手と食事をするのだろうか。それとも誰か女の人と……?


 あの秘書の綺麗な女性―――あの人がもし、彼の浮気相手だったら。


 だとしたら、代理のメールは本当なのだろうか。

 夫には私から『帰って来ないで』と連絡があったと言っておいて、私に彼からの代理を装って『帰れない』とメールを送る。そんな工作も彼女には、可能なのじゃないだろうか……? 彼を自分の元に留める為に。


 誰でも知っているような、系列会社をたくさん持っている経営者一族に生まれた御曹司。実業家で資産家、それでいて周りが見惚れるような美しい容姿を持つ魅力的な男性。立ち居振る舞いも堂々として完璧な……そんな彼と結婚出来て、私は幸せだった。友人がつつましやかに、平凡な公務員の夫と安上りの公園デートをしていると聞いて『私の相手は包容力のある男性で良かった』と、胸を撫で下ろしたものだ。


 なのに―――今はその友人が、羨ましくて仕方が無い。


 私はおもむろに彼のクローゼットを開き、ネクタイを一つ取り出した。それを握りしめて居間へ戻り、ハサミを取り出してザクザクと遠慮なく切り刻む。


 それを紙袋に包み込むとキッチンへ行き、燃えるゴミと書かれたゴミ箱の前に立った。

 ペダルを踏み蓋を開け―――振りかぶる。紙袋ごと、ネクタイの残骸をゴミ箱の底に叩きつけた。




 ボスッ!




 その鈍い音が。

 スッと胸のつかえを取り除いた。




 私は漸く笑顔を取り戻し、泥を落とすように両手を払う。そして鼻歌を歌いながら、今日の全ての憂さを完全に洗い流すべく、シャワーを浴びる為に浴室へと向かったのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ