彼女の幸運
幸運な事に私の息子と彼の娘は、仲が良かった。
それに、今まで気が付かなかったのだけれど……なんと! 私達が入居しているのは、同じマンションだったのだ! これまで気付かなかったのは、棟が違ったせいだ。私達の部屋から一番近い入口と、彼等の部屋からアクセスしやすい出入口が違ったのだ。
そのことに気が付いてから、何となく遠回りして悠馬さん達が使う入口から出入りするようになった。間もなく、悠馬さんと満ちゃん、私と航太郎の四人で一緒に幼稚園の帰り道を連れ立って歩くようになる。
やがて帰り道の途中にある公園に立ち寄るのが日課になった。子供達が制止を無視して遊具に駆け寄る。遊び始めると、彼が「仕方ない」って顔で眉を下げる。「ある程度気が済むまで遊ばせないと、帰りそうもないですね」なんて私も溜息を吐いて、笑ってみせる。
本当は、帰りたくないのは私の方だ。
沸き立つ胸を押さえながら、今にも緩みそうな頬を押さえる。夫にそっくりな息子も、偶には役に立つ。今夜のメニューはあの子の好物にしてあげても、良いかもしれない。
子供達が追いかけっこをしながら、遊具の周りを走り回る。その光景を見守りながら同じベンチに座り、彼と何でもない世間話を交わした。
細胞に陽の光が染み込むような錯覚を覚える。いつまでもこんな時が続けば良いのに。
子供達から目を離さないまま話す、彼の横顔を盗み見る。こっちを見て欲しいような……見て欲しくないような、くすぐったい気持ち。こんな気持ちになるのは、いつ以来だろう……?
彼はいつも礼儀正しく距離をとって接してくれる。
もう少しくだけた雰囲気になっても良いのにって、ちょっと物足りない気持ちが湧いて来る。
もう随分同じように一緒に帰路を辿り、公園のベンチに並んで座っているのに―――私と彼の間にある、一人半くらいの空間は縮まる事は無い。その事実を頭の隅に追いやって、他愛無いけれども、宝物みたいな時間をそっと胸に閉じ込める。
「そろそろ帰らないと」と言い出すのは、いつも彼の方。私はいつまでだって一緒にいたいのに。だって夫が夕飯に間に合うのは、ごく稀なことだ。朝は顔を合わせるけれども、出張に行ってしまえばもう、存在を忘れてしまうくらいだ。更に言うと海外に行ってしまえば、数週間帰国しないことザラなのだ。
楽しい時間に終わりがあるのは悲しい。けれども、ちょっとだけ想像力を働かせれば、マンションまでの道のりは楽しい。
いつもこんな風に考えるの。私と彼は六年目の仲良し夫婦。子供は二人。今日は子供達の大好きなオムライス! でも実は彼も子供の頃からオムライスが大好物で……なんてね。
並んで歩く帰り道。僅かな逢瀬。切ないような、甘いようなキラキラした時間。
―――こんなにウキウキしたのはいつ振りだろう。と、ふと振り返る
思えば夫と出会った当初も……毎日が楽しかった。
女子校育ちで男性に免疫の無かった私は、お見合いの席で初めて顔を合わせた彼に一目惚れ。一も二も無く承諾して、結婚を前提としたお付き合いが始まった。
夫は何でも自分で決めてしまうような強引なタイプだったけれど、エスコートはスマートだし何よりカッコよかった。目鼻立ちが整っていて、体格も良く背も高い。一緒に歩くと、すれ違う女性が目を丸くして見惚れている。そんな時はちょっと誇らしい気分になったものだ。
女子校の同級生には、大学生や社会人と付き合っているような積極的な人もいたけれど。私はそう言うのは何だか違うと思っていた。お付き合いは試しにしてみるものじゃない。本当に好きになった人と付き合わないと……!
私の目には、彼女達は妥協しているように見えた。彼氏への不満や愚痴を聞いていると、何で付き合ったのだろう? って疑問に思う。だって付き合ったり別れたりってそんなに頻繁にするものじゃないでしょう? 本当に好きな人に出会えれば、一目で分かるはず。だから私は妥協はしないんだって、そう思っていた。
友達に誘われて、男子校の学生とグループで遊びに行くことはあったけれど、一対一で付き合うには至らなかった。少女小説のヒーローに恋をしていた私には、彼等は子供っぽく頼りなく見える。積極的過ぎて空回りしたり、ちょっとしたことで機嫌を損ねたり。
親の選んだ女子大に進学しても―――似たり寄ったり。その頃になると母親が私の行動に目を光らせるようになった。サークルの飲み会で帰りが遅くなった時には『嫁入り前の娘が何ですか』って目を吊り上げて怒るの。いつの時代? って内心思ったけれど、それもあって結局深いお付き合いに至る相手はいなかった。
そんな私だから、夫と付き合い始めた時は夢心地だった。
こんな素敵な人と結婚できるなんて、自分はなんて幸運なんだろうと思った。今まで出会った男性とはまるで違う。社会人の彼が選ぶお店はどれも、目がくらむくらいお洒落だ。会員制のバーに足を踏み入れた時は、ずっと大人の世界を冒険しているみたいにドキドキした。豊富な話題、キラキラ輝くような洗練された極上のディナー。
デートは全て、彼のシナリオ通りに進む。私はただ目の前に提供されるのを待っているだけで良い。まるでお姫様にでもなったみたいな気分だった。
夫によると、私はこれまで付き合った事が無いタイプらしい。―――明け透けにそう言われて少し面食らったものの、初心な私はその言葉を前向きに捉えてしまった。『家庭向きだ』と言われて、素直に嬉しく感じた。おそらく女性に労せずモテて来たであろう彼は、私のような箱入りの娘では無く、外見の美しい女性や自立した女性と、これまで付き合って来たのかもしれない。
けれども今やっと本当に愛情を向けるべき、守るべき相手を知って心を入れ替えてくれたのだ……!
本当に小説のような恋があるんだ。これまで妥協しなくて良かった、運命の相手にやっと出会えたのだと―――私は、愚かにもそう喜んでしまったのだ。
ところが夢見ていた結婚生活は、次第に色褪せ始める。
現実を知ってしまった私は、そこから抜け出す方法も分からないまま、ただ日々を空虚に過ごすことになる。