19話 初めての鬼軍曹
「無駄口をたたくなウジ虫! 生意気に人の言葉をそのドブ臭い口から垂れるなら、前と後ろにSirと言え!」
「は? え?」
「答えはYesかハイだ! そんなことも理解できんのか! 貴様の頭にはクソでも詰まっているのか!」
「さ、Sir yes sir!!」
約束の時間から30分遅れでスタジオの部屋に入ってきた京太郎は、突然玲から罵倒され、わけもわからず言われるがままに敬礼した。本来、女性にはSirではなくMa’amを使うのだが、そんな細かいことはどうでも良い。
「何すかこれは」
京太郎が助け舟を求める。やれやれと言った風に首を横に振りながら、琴さんがそれに応えた。
「あんたが大事な練習初日に遅刻なんかしよるから、玲ちゃんが鬼軍曹になってもうたやん。どうしてくれんの」
「どうしろったって……」
「口より先に手を動かせ!」
「Sir yes sir!」
京太郎は大慌てでギターとエフェクターをガチャガチャとセッティングしていく。それを眺める玲の顔は、実に満足気だ。恍惚としているようにさえ見える。そして何故か、本当に何故か、京太郎の頬も赤く染まっていて、その表情は喜びに満ちていた。
「まさか玲にこんな素質があったとは。なんか両方の開けちゃいけないドアを開けてしまったような……」
自分で嗾けておきながら、俺は恐れおののいていた。
「やはりお前の差し金か」
「あはは。でも京太郎さん、遅刻はダメですよ?」
「あ、普通に戻った」
「ずっと鬼軍曹のままじゃ練習できないですから」
「期待以上のクオリティだったよ、玲」
「ホンマになぁ。まぁ、京太郎の方はアレやったけど。キモかったけど」
「最初にぼかした意味あります? もう遅刻はこりごりだよぉ……」
「それは待たされたこっちのセリフや。はよ準備しなはれ」
琴さんの正論が決まったところで、ようやく京太郎の準備も完了した。
「それじゃあ、まずは演奏だけ合わせてみようか。いきなり歌もってのは、難しいだろうから」
「玲ちゃんは楽園ツアーとラブ&ビッグ・マフ、どっちからが良い?」
「えっと、楽園の方がいっぱい練習してきたので、そっちからお願いします」
「難しい方からいくんやね。まぁそれもええやろ」
琴さんは結んでいた髪をほどいて、椅子に座りなおした。
「ほんなら、カウント4つで始めよか」
3人が頷くと、琴さんはスティックを鳴らしてカウントを取った。初めて玲がハコで歌ったあの日と同じように、印象的なギターのアルペジオが奏でられる。
「ん?」
異変に真っ先に気付いたのは京太郎だった。ギターの音が2本分重なって聞こえたからだ。だが、そのまま演奏は続行された。しかし、Aメロに入ってすぐ、俺と琴さんも、京太郎の感じた違和感に気付いた。
「ちょっとストップ」
手を挙げて演奏を止める。
「そ、そんなダメでしたか?」
玲が焦りの表情を浮かべた。
「いや、ダメってわけじゃないんだけど……」
「玲ちゃん、モリクマのスコアを買ったって言ってたよね」
「あ、はい」
「ちょっとそれ、見せてもらえる?」
「わかりました」
玲はギターケースのポケットの中から少しよれたスコアを取り出し、京太郎に手渡した。楽園ツアーのギターパート部分には、ピンク色の蛍光ペンで線が引かれていた。
「やっぱり」
「あの、私なんかやっちゃってますか?」
俺もそのスコアを覗き込んだ。そして理解した。
「あ」
「玲ちゃんごめん。これは完全にこっちのミス、って言うか、説明不足だったわ」
「え?」
「玲ちゃんが練習してたのはね、リードギターの方だったんだよ」
「リードギター?」
通常ギターが二人いるバンドでは、ソロパートやギターでのメロディラインを担当するリードギターと、コード弾きなどでバッキングと呼ばれる伴奏を担当するリズムギター(サブギターと呼ぶ場合もある)に分担される。二人のギターのうち、片方がボーカルを兼ねている場合、大抵はボーカル&ギターがリズムギターを担当する。
「全然できないって言ってたのは、これが原因か」
「いや、イントロのアルペジオなんてほぼ完璧だったぞ。ギター始めて一週間であれが弾けるようになってるってことは、玲ちゃん相当練習したんだろうね」
京太郎は感心したようにそう言った。だが、玲の表情はどんどん焦りの色が濃くなっている。まるで日曜夕方の国民的アニメの演出の様に、顔に縦線が入っているのが見えた気がした。
「つまり、私が練習してたのって……」
「残念ながら、京太郎のパートだったんだよ」
「えーーーーッ!!」
玲は両手で頭を抱えて膝をついた。
「私の今までの練習は……一体……」
その顔には深い絶望が刻まれていた。京太郎の言うとおり、たった一週間でイントロのアルペジオを弾きこなすに至るには、相当な練習量を要したはずだ。
「ま、まぁまぁ。リードギターに比べればリズムギターは簡単だから、練習自体は無駄にはならないよ」
「うぅ」
俺のささやかな慰めはあまり効果が見られない。そこへ、琴さんが素朴な疑問を投げかけた。
「お父さんはその辺、教えてくれんかったん?」
「アルペジオの弾き方とか、チョーキング? のコツとかは教えてくれました。最初にしては随分難しい曲をやるんだなー、とは言ってましたけど」
「……玲ちゃん、あんた自分がボーカルやるって伝えてたん?」
「あ」
ウキウキでギターを買って来た玲を見た父親は、てっきり玲がギタリストとしてバンドに参加するものだと勘違いしたのだろう。玲が人前で歌うことに強い抵抗感を持っていたことを知っているからこそ、いきなりボーカルを担当するとは思わなかったとしても無理はない。
「あんたら、揃いも揃ってホウレンソウがなってないわ」
「私、おひたし好きですよ」
「俺はあんま好きじゃないっす。青臭いし」
「お前ら……」
玲はともかく、京太郎までも頓珍漢な回答をする。彼はもうすぐ21歳になると言うのに。
「報告・連絡・相談! 略して報連相! 社会人の基本や!」
「うちら学生だし……」
「ぐだぐだ言わない! はぁ。ウチはあんたらの教育担当やないんやけどねぇ」
「とりあえず、今日は玲のリズムギターの練習を中心にやっていきましょうか」
「うぅ、すいません……」
「いや、さっきも言ったけど、これは俺らが事前にちゃんと伝えてなかったのが問題だから、玲ちゃんは全然気にしなくていいよ。むしろごめんね、マジで」
「ありがとうございます」
その後、予定していた3時間のうち、2時間が玲のリズムギター練習に費やされた。最初はテンションが急落していた玲だったが、やはり難しいリードギターの方を練習していたからか、リズムギターをスムーズに習得していった。そして次第に、表情にも明るさが戻ってきていた。
「結構いい感じになって来たんじゃない? 一回通しで、みんなで合わせてみようか」
俺の提案に全員が同意する。
「ほな、あらためて」
琴さんのカウントが響いて、京太郎のアルペジオが始まる。ベース、ドラムと同じタイミングで、玲のバッキングが加わると、音の厚みが一気に増した迫力のある演奏となった。
玲の表情を伺うと、まだコードを押さえる手元を見るのに必死な様子ではあったが、口元には笑みがこぼれている。それを見たこちらも自然と笑顔になり、そしてそれは、京太郎と琴さんへも波及していった。
「けっこういい感じやね。細かいところはまだ色々詰めるとこあるけど」
「そっすね。初日でこれだけできれば上々っすよ」
途中で止まることも無く、何とか最後まで演奏しきることができた。初回でこれならば、十分と言える成果だろう。
「玲、初めてのバンド演奏はどうだった?」
「自分がミュージシャンになったみたいに感じました」
玲は少し呆けたような表情でそう答えた。
「一曲ギターを弾ききったんだ。もう立派なミュージシャンだよ」
俺が笑ってそう言うと、玲はとても晴れやかな笑顔を見せた。
「ありがとうございます!」
こうして、記念すべき4人での初めてのスタジオ練習は終了した。4人はそれぞれが確かな手ごたえを感じていた。
「お会計6,300円です」
レジの若い男が低めのテンションで告げる。
「じゃあウチと朔と玲ちゃんは1,000円ずつで、残りは京太郎よろしゅうな」
「え?」
「遅刻したんやから、その分の罰金込みや」
「やっぱり、もう遅刻はコリゴリだよぉ……」
「あははは」




