18話 初めてのスタジオ練習
土曜日。この日は初めて4人でスタジオ練習をする日だ。渋谷にある音楽スタジオを13時から予約していた俺は、少し余裕を持って12時15分に駅に降り立った。途中コンビニでおにぎり2個と500mlの烏龍茶を購入し、スタジオの控えスペースで軽い昼食を取るつもりだったからだ。
4月も後半、先週までの肌寒さが嘘の様に気温が上がり、デニムジャケットを着てきたことを少し後悔した。ベースのケースを背負っていると、背中が厚手のコートを着ているように暑くなる。
スタジオのあるビルの自動ドアを抜け、右手にある階段を地下に降りていく。正面にあるエレベーターには、スーツを着たサラリーマン風の男性が乗り込んでいった。エレベーター付近の看板には、何やら企業の研修会場を案内する表示がされていた。
地下1階の扉を開けると、カウンターの向こうに座った愛想の無い店員が軽く会釈をする。こちらも会釈を返し、ソファとテーブルの置かれた奥のロビーへと向かった。店内に設置されたテレビでは、洋楽のミュージックビデオを延々流し続ける有料番組が映し出されていた。
「朔さん、お疲れ様です」
ミルクティーを片手に、玲が行儀よく座っていた。慣れない空間に少し緊張している様に見えた。
「お疲れ。随分早いね」
「なんかソワソワしちゃって」
「練習の調子はどう?」
「正直、今日は全然自信無いです」
「まぁ最初だしね。しゃーない」
俺は買ってきたおにぎりをビニール袋から取り出し、その包装を解きはじめた。紅鮭入りの三角形を口に頬張ろうとした瞬間、隣から何か唸るような音がした。ふと玲の方を見ると、顔を真っ赤にして俯いていた。
「一個食べる?」
もうひとつ買っておいた明太子のおにぎりを差し出すと、玲は俯いたまま、それを両手で受け取った。
「すいません」
「腹が減っては何とやらって言うし」
そのまま二人で、モサモサとおにぎりを食べ始めた。しかし、ミルクティーとおにぎりと言う組み合わせはいかがなものか。
「辛いです」
「いや、そこは文句言わず食いなよ」
コンビニおにぎりの明太子なんて、辛味はたかが知れている。どうやら玲は辛い物が相当苦手なようだ。対する俺は、甘いものも辛いものも大好物で、友人からバカ舌と詰られる程度には激辛も嗜む。どちらかと言えば鮭より明太子の方が本命だったのに、施しに文句を言われる筋合いは無い。
ほどなくして、琴さんがスタジオに入ってきた。手荷物はスティックケースの入った手提げのカバン1つ。身軽なものだ。
「お疲れさん」
「どもっす」
「お疲れ様です」
「何や二人とも、ピクニックにでも来たんか」
「俺は善意のボランティアです」
「朔さんに辛いものでイジメられています」
「ようわからんな」
3人で談笑しながら13時を待つ。しばらくすると、練習を終えたバンドがスタジオから出てきて、ロビーが混雑してきた。時計を見ると12時55分を指している。だが、まだ京太郎は現れない。
「あいつ、またやったか」
「やりよったなぁ」
「京太郎さん、遅刻ですか」
バンドマンには、時間にルーズな人間が異常に多い。正確に言えば、仲間内の約束の時間を守らない輩が多いのだ。
「京太郎の遅刻癖は、それは酷いもんなんだよ。あまりにも遅刻が多いもんで、前にあいつだけ集合時間を1時間早めに伝えたことがあるんだけど、それでようやく約束の時間ぴったりに来たってエピソードがあるくらい」
「それは中々……」
「とりあえず京太郎には俺が連絡入れとくんで、先にスタジオ入っちゃいましょう」
「師匠がいないと不安です」
「初めての練習に遅刻するようなしょうもない男を、師匠なんて呼んだらアカンよ」
「そうだなぁ、じゃあ京太郎が来たら、こう言ってやればいいよ」
ゴニョゴニョと玲に耳打ちをした。
「えー? そんなこと言ったら、さすがに京太郎さんも怒るんじゃないですか?」
「だーいじょぶだいじょぶ。できるだけ迫真の演技で頼むよ」
「でも面白そう。がんばってみます」
玲はにこにこ顔で悪巧みを快諾した。
8畳のスタジオは壁の一面が鏡張りになっている。室内の照明は通常蛍光灯がついているが、入り口付近のつまみを捻ることで、電球色に切り替えたり、明るさを調節したりできる。
「わぁ~、なんか雰囲気いい感じにできるんですね」
「なんかその反応、初々しいわぁ」
「今日ちょっと暑いし、冷房強めにして良いっすか?」
「ええよ。ウチも暑いわ」
荷物を降ろし、それぞれのセッティングを始める。俺が機材を手早く繋ぎ、フットチューナーでのチューニングを始めてもなお、玲はギターにケーブルすら差していなかった。
「あの、私はどっちのアンプを使えばいいんでしょうか」
スタジオに置かれたアンプは、定番であるROLANDのJC-120とMarshallのJCM900。どちらもサラダのハコに置かれたものと同じものだ。
「京太郎はいつもJCを使ってるから、マーシャルで良いんじゃないかな」
「スイッチが二つあって、どっちを入れれば良いのやら」
「えーっと、確か片方が電源スイッチで、もう片方がスタンバイのスイッチで……」
「スタンバイ? むむむ、難しいですね」
「俺も正直よくわからないんだけど……っと、とりあえずこれで音が出るはず」
「よーし」
ブゥーンと通電した音を確認し、玲は覚えたてであろうEのオープンコードを鳴らしてみた。
「あれ?」
ジャランと鳴るはずのオープンコードの音が、ブツブツに途切れていた。本来触れないはずの弦に中途半端に指が当たり、弦の振動を妨げてしまうと起こる現象だ。
「家で練習してる時はちゃんと鳴ったのに~」
焦る玲を見て、すぐにピンときた。自分にもその経験があったからだ。
「玲さ、家で練習してるとき、ずっと座ったまま弾いてたでしょ」
「あ、はい。そうです」
「座って弾くのと立って弾くのって、結構感覚違うんだよね。俺も始めたばっかの時に戸惑ったから、よくわかるよ。最初のうちは違和感あると思うけど、慣れれば家で練習した様にできるようになるから」
「うぅ、こんな落とし穴があるなんて」
玲は一瞬落ち込んだような表情を見せたが、すぐに立ち直ってガシガシと懸命にギターを弾き始めた。ほどなくして、途切れのない綺麗なEコードが鳴ると、玲は満面の笑みで俺と琴さんの方を向いた。
「できました!」
俺は昔の自分を思い出していた。できなかったことが、ひとつずつできる様になっていく。それが楽しくてたまらなかったことを。
「玲」
「はい?」
「ギターは楽しい?」
「はい!」
「はは、だよね!」
あぁ、そうだ。自分はまだ取り戻せる。取り戻さなければいけない。音楽が楽しくて仕方なかった、あの時の純粋な心を。
 




