142話 ENCORE
ホールに向かって、眩い照明を浴びながら歌う玲の右後ろ。ここが俺の定位置で、今では他のどこよりも居心地の良い場所になっていた。
そこから眺める今の景色は、時に飛び散る汗の雫さえ数えられそうなほどスローで、時に婆ちゃん家で見たビデオテープの早送りのように忙しなく、そしてどこまでも果てしなく伸びる道の様に見えた。
それはライブハウスという場所において、特段珍しい光景ではないのだろう。俺だって何度も目にしてきたし、今日来ている観客だってきっとそうだ。それでもいつの日か、今この目に映る絶景は、本当に俺たちの進むべき道になっていくのだろう。
そういう予感、いや、確信がある。今まで見てきたフロアからではない、ステージの上から眺めたからこそ。
「―――も――――ッ―――――ね―――!!」
12曲目に新曲のORATORIOを歌い上げ、歓声を上げるフロアに向かって玲は何かを叫んでいた。マイクを通さないものだから何を言っているのかまったく聞こえなかったけれど、手を振って叫んだその想いは、きっとフロアにいる全員に届いたことだろう。
何せこちらを振り返ったその笑顔は、まともに見つめるのが恥ずかしくなるほどの眩しさだったのだから。
「ありがとうございました」
観客に向かって小さくそう呟いて、俺はベースをスタンドに置いた。真っ白な照明を浴びたジェットグローのRickenbacker4003は、開演前と変わらず偉そうにふんぞり返っている。
本当に弾きづらくて扱いづらい奴だけど、これまで本当にありがとう。そしてこれからもよろしく、相棒。
「お疲れさん」
ステージ裏へ向かう途中、琴さんがガバっと肩を組んできた。笑いのツボにはまった時に見せる、あの豪快でくしゃくしゃの笑顔で。
「楽しかったっすね」
「ホンマにな」
後ろを振り返ると、最後にステージに残った京太郎がフロアに向かって両手を振り続けていた。何というか、クールとかそういうのとは程遠いそのしまらなさに笑いがこみあげてきた。
「朔さん!」
一足先に裏へ引っ込んでいた玲が、琴さんに負けじと肩を組んでくる。両肩をふたりに抱えられると、何だか怪我で退場するサッカー選手みたいだなと思った。
「もう! もう! もうッ!」
「いでででで! 何だよ」
肩を組んだ状態で、玲は俺の頭をバシバシと叩いてくる。その度に胸が俺の目の前で揺れるものだから、目のやり場に困るではないか。
「あははははは」
めっちゃ笑っている。俺の頭を叩いた意味はわからないが、玲は心底楽しそうに、何の憂いもなく、涙を流すほど大笑いしていた。
「……お疲れ様。どうだった?」
「ミスっちゃいました!」
「あははは! それじゃあまだまだ練習不足ってことだ!」
何となく、玲はそう言うだろうと思っていた。だから、その通りの言葉が返ってきて何だか安心した。
「でも」
「めちゃめちゃ楽しかったんでしょ?」
「……はい!!」
玲はそう言うと、肩に回していた手をほどいて今度は正面から抱きついてきた。
「おふたりさん、何をいちゃついとるん」
琴さんは呆れ顔で微笑む。そこへようやく京太郎もステージ裏へと戻ってきた。
「師匠~!」
弾けたピンボールの様に玲が京太郎の元へとすっ飛んでいき、そしてそのまま抱き着く。みはるんにはとても見せられない映像だ。
「玲ちゃん。最&高だったよ!」
「何言ってるんですか! 当たり前じゃないですか!」
「あはは、当たり前か! そりゃそうだ!」
あれ、何だかここだけ思っていたのと違うような……そうか、京太郎に女性に対する免疫がついたから、まともなリアクションができているんだな。人は成長するものだということを実感する。
「でもまだ、終わりじゃないから」
俺たちはステージを降りたが、ここで終わりではない。それはこれからもバンド活動が続いていくということではなく、単純にライブがまだ終わっていないのだ。
「あぁ、そうだよな」
京太郎が頷くと、フロアから拍手と歓声がひとしきり鳴り響いた後で、今度は静かにゆっくりと、一拍ずつ手を叩く音が響き始めた。そして、だんだんとそのテンポが早まっていく。以前にも一度だけ聞いたこれは、アンコールを求める観客の声だ。
「前の時はこれに応えられなかったんですよね」
「せやなぁ、持ち曲出し尽くしとったし」
「でも今日は違うもんね」
「ちゃんと準備してあるからな」
俺たちを呼ぶ手拍子はテンポと音量を上げ続け、すぐに最大値へと到達。そのタイミングでステージ袖に土田さんがやってきた。
「はい、これ。最後までやりきっておいで」
それだけ言って、土田さんは弦を貼り直した玲のレスポールジュニアを手渡した。
「ありがとうございます!」
玲はその場でストラップを肩にかけた。莉子のギターも良かったが、やはり玲にはこのTVイエローのギターが一番似合っている。
そして、一杯一杯になったアンコールの手拍子をニヤニヤしながら暗い舞台袖で聞いていた俺たちは、誰からともなく手を繋ぎ、スポットライトが照らすステージへと戻って行った。
「―――――――――――――!!」
わぁっと大きな波のような歓声に包まれながら、手を繋いだままステージ中央で頭を下げる。そしてそれぞれが自分の相棒の元へと駆け寄って行った。
「アンコールどうもありがとう!」
玲の呼びかけに一段と大きな声で応える観客たち。スタンドに立て掛けた莉子のギターからシールドケーブルを抜いて自分のギターへと差し直し、玲は何かを呟いた。
「待ってるから」
真偽はともかく、俺にはそう聞こえた。
「最後まで頼むぜ、相棒」
相変わらず偉そうな愛機を担ぎなおし、琴さんと京太郎とアイコンタクトを交わして、玲の鳴らすギターの音を待った。
アンコールのために用意した曲は2曲。バンドの色を前面に押し出したスローナンバーの新曲「白鯨の夢」と、cream eyesとして初めて完成させた曲「Beautiful」だ。
「それでは聴いてください。私たちの想いを込めた新しい曲と、私たちの始まりの曲です」




