140話 忘れられないから忘れない
4曲目を終えたところで俺たちは演奏の手を止め、玲が満員のフロアに向かって話を始めた。
「次からの3曲は、私たちがバンドを組むきっかけになった曲たちです。少しだけ、その時の話をしてもいいですか?」
その問いかけに観客は歓声で応える。
玲は普段MCであまり長くは喋らない。だからだろうか。観客に向き合って、歌ではなくこうして言葉を伝えようとしている玲の姿は、何だか新鮮な感じがした。
「私、今年の4月まで自分がこんなステージに立つことになるなんて想像もしていませんでした。それどころか、バンドを組むことさえ考えたこと無かったんです。人前で歌うなんて経験もありませんでした。中学高校の合唱コンクールでも、口パクで誤魔化していたような子だったもので」
そういえば、前にもこんな話をしていたことがあったような。あれはいつのことだったか。
「自分の声が嫌いで、誰かに聞かれるのが恥ずかしくて、笑われるのが怖くって、私はいつも口パクしてました。本当は歌うことが大好きだったのに、そのことさえ忘れてしまうくらい、私は歌うことに憶病になってたんです」
あぁ、思い出した。下北沢でnuclearと対バンした時だ。あの時は皆テンション上がっていたな。玲も、いつも以上に上機嫌だった気がする。シンタローさんは今も元気に吠えているんだろうか。
「私、大学に入って最初はテニサーに入ったんですよ。テニスサークル。私、テニスが得意なんですけど……」
「あれ、玲ちゃん中高補欠やった言うてたやん。話盛ったらあかんて」
「も、盛ってません! 得意なんです! 下手なだけで!」
そのやり取りに観客がドッと沸く。俺も笑ってしまった。得意だけど下手なだけって何なんだ。
「えっと、何だっけ……あ、そうだ」
ツッコミを入れられた玲はどうにか話を戻そうと試みる。しかし、場の空気はすっかり緩んでしまったようだ。フロアからは相変わらずクスクスと笑い声が聞こえてくる。
「そのテニスサークルの新歓イベントで、皆でカラオケに行こうって流れになったんです。正直うわって思ったんですけど、人数も多かったし自分が歌わなくても平気かなって思ってついて行くことにしました。今までもそういう機会はありましたし、歌わなくても合いの手とかタンバリンで盛り上げたりするのは好きでしたから」
あの日は散々琴さんに飲まされて、京太郎と一緒にグロッキーになっていたな。正直、花見の時に新入生と何を話したか記憶がほとんどない。二十歳になったばかりで酒の飲み方も知らなかったのに、随分無茶をしたもんだ。いや、させられたのか。あの大魔王様に。
「でもいざお店に着いてみたら大きい部屋が空いてなくって、6人部屋に案内されたんです。これはヤバいかもって思ったんですけど、ここまで来て帰るって言うのも空気悪くしそうだから言い出しづらくて……そしたら案の定マイクが周って来て」
その日はサラダボウルをはじめ、多くのサークルが新歓イベントを行っていた。俺たちも30人くらいで行ったのに大部屋は取れなかったし、かなり混雑していたのだろう。
「私は結構なんで、他の皆で歌ってください! 歌うの苦手なんです! ってずっと拒否してたんですよ。でも歌って歌って~、って言われているうちに、何でかその日は歌っても良いかなって思ったんです。何ででしょうね。本当、何であの時そう思ったんだろう。いつもだったら、自分が歌わないことで空気が悪くなると思っても、何かと理由をつけてどうにかこうにか逃げてきたのに。女の子しかいなかったからかなぁ。今でも不思議です」
そう言えば、初めて談話室に来た時に玲は言っていた。あの日玲がカラオケで歌ったのは1曲だけだったと。
「それで歌っていたら……そこの朔さんが入ってきたんですよ。完全な部外者なのに。女の子ばっかりの部屋に酔った勢いで強引に」
「言い方! あれは素で間違えただけだから! 下心とか一切無かったから!」
また観客から笑い声が溢れた。今度は先ほどの天然ボケとは違い、玲も冗談のつもりで言ったのだろう。したり顔でにやついていた。
それにしても、それはどれだけの偶然が重なって起きた奇跡なのだろうか。出会ったことが不自然なくらいだ。
玲がカラオケに行くのを断っていれば、カラオケの大部屋が空いていれば、玲が最後まで歌うのを拒んでいれば、俺が部屋を間違えなければ、酔いを醒ますために遅れて店に入らなければ……どの要素が欠けても、俺と玲が出会うことは無かった。今この場に立っていることも。
「その場で私はバンドに誘われて、今ここにいます。すごくないですか? こんなことってあるんだって、私にもこんなことができたんだって、今でも信じられないくらいです。そしてその時にカラオケで歌っていたアーティストの曲が、これから演奏する3曲。初めてcream eyesのメンバーと演奏した曲でもあります。その時はコピーでしたが、今回はオリジナルの曲にアレンジを加えて演らせてもらいます」
そう、俺たちに始まりを、すべてのきっかけを与えてくれた曲たち。いつまでも思い出の中に綺麗にしまっておきたい気もするが、今日は特別な日だ。みんなに見せびらかしても罰は当たらないだろう。
「それでは3曲、聴いてください」
森野 久麻のカバーは嘘の味、ラヴ&ビッグ・マフ、楽園ツアーの3曲で、最初に演奏するのは嘘の味。
サラダボウルの新歓ライブで演奏した時、玲はギターを置き、京太郎の一本のみで演奏したが、今回は二人ともギターを持ったままだ。
少しの沈黙のあと、京太郎がギターを構え直す。観客はそれを静かに見守っていた。
そして、テレキャスターのフロントピックアップが放つ甘い音色で、お洒落なフレーズが奏でられていく。オリジナルのディレイを多用した空気感あるギターとは大きく異なるアレンジが加えられたイントロに、観客はまだ何の曲か気づいていない様子だ。
奏者の腕前が露見するクリーンなリフも、御手洗四兄弟に鍛えられた京太郎にかかればお茶の子さいさいというもの。そこに玲のレスポールがクランチトーンで絡んでいく。
オリジナルは「歌謡曲」の色が強いが、よりバンドサウンドとしてクリアなアレンジになっている。このあたり、土田さんのセンスは本当に脱帽ものだ。
「優しくて苦いから 憎らしくて甘いから
苦しくて辛くって 暖かくて酸っぱいの
忘れられない 君と語らう 星空臨む通学路
忘れさせてよ 君が振る舞う 最高級の嘘の味だけ」
歌い出しで誰の曲か気づいたのか、フロアが一気に沸き上がる。モリクマの曲はやはり知名度も人気も高い。
どうやらカバー曲は無事に受け入れられたらしい。そのことに安堵しつつ、玲がサークルに入った当初の懐かしさと大舞台で演奏している高揚感が混ざり合った不思議な感覚が俺を包んでいた。
あの頃は観客の誰もが見知った顔だった。歓声は優しくも生ぬるいものだった。身内ノリは嫌いなんて嘯いてみても、そのぬるま湯はあまりにも心地よかったのだ。
今はどうだ。俺たちが勝手に思い出の曲に仕立て上げた歌で、観客は大いに楽しんでいる。これは俺たちが望んでいたことじゃないか。
身内ノリは嫌い。でも、世の中の全てを身内にしてしまえば、身内ノリしか存在しなくなる。今なら、そんな途方もないことさえ簡単に出来そうな気がした。
「どうもありがとう!」
「わぁぁあああああ!!!」
「玲ちゃーん!!」
「こーとちゃーん!!」
「キョウタロさーん!!」
「さぁああくぅううう!!」
一曲目のカバーを終えて、観客のテンションは未だ最高潮。そこにはメンバーの名を叫ぶ声が響き渡っていた。この盛り上がりをグラフにすれば、折れ線がフレームアウトしたまま帰ってきていないような状態だ。
それにしても、何故俺を呼ぶ声だけ野太い男のものばかりなのか。京太郎でさえ黄色い声援を浴びているのに。そして何故俺だけ呼び捨てなのか。
そんな余分な考えを挟ませまいと、すかさず京太郎が荒々しいファズを効かせたギターを弾き倒す。「嘘の味」のカバーとは異なる原曲を踏襲したそのイントロフレーズに、観客はすぐさま何の曲か気づいたようだ。
2曲目は、ラヴ&ビッグ・マフ。森野 久麻本人の曲の中でも、ライブ人気の高い一曲だ。
「気に入らないわ 思い通りにならないあなたなら
その大切なハミングバードと一緒に 焼いて食べてしまいましょう
だから手に入れたのよ ロシア製の 戦車みたいなビッグ・マフ」
この歌に登場するハミングバードとは、ハチドリではなくGibsonのアコースティックギターのモデル名のこと。玲の父親が使っていたギターだ。そして今、そのギターは娘の玲へと受け継がれている。
新歓ライブで演奏した時はそのことを知らなかったし気にも留めなかったが、そんなギターを焼いて食べてしまおうとは何とも物騒な歌詞だ。
そんなことを知ってか知らずか、観客たちは踊り狂っている。規則正しいリズムで飛び跳ねる振動は、ステージの上まで伝わってきていた。
「あぁ どうしてどうして
憎くて辛くて どうしようもなく大好きで
だからもう 全部全部 台無しにしたいの!」
玲もフロアの熱に負けじと、頭を振りながら叫ぶように喉を震わせていた。cream eyesには無い激情を歌った曲に、演者の俺たちも際限なく昂っていく。
曲の最後にあるギターソロで、京太郎はディストーションを踏み潰し、爆音と共にステージの際に迫り出した。その足元に伸びる手を払うこともせず、恍惚の表情を浮かべながら自慢のテクニックを見せびらかす。そして最後にチョーキングを決めた時、観客から大きな歓声が上がった。
京太郎の右後ろから眺めていたが、それは悔しいほどに完璧な光景。クソ、俺もベースソロをどこかに仕込んでおけば!
ギターソロの余韻が残る中、今度は玲がアルペジオを奏で始める。それは玲がギターを手にして初めてコピーしたイントロのフレーズ。そして、森野 久麻の代表曲である「楽園ツアー」の始まりだ。
誰もがすぐにその曲に気づいて声を上げ始めたその時、ステージ奥に差し込まれた一筋のスポットライトが照らす先を見て、ZIPPER Tokyoは歓声を大きく上回るどよめきに包まれた。その理由はあまりにも簡単だ。
「え、嘘!? マジ!?」
「本人だよ! モリクマ!!」
フロアにいる誰一人として予想だにしていなかったご本人登場の演出。それに対する反応は凄まじく、キャーキャーと悲鳴にも似た声があちこちから聞こえてくる。会場のどこかにいるであろう土田さんが、ほくそ笑んでいる姿が目に浮かぶようだった。
「さぁさぁ ここはすべてが溶け合う楽園さ」
歌い出しを担当したのは森野 久麻本人だ。当たり前なのだが、その本物の歌声に、どよめいていた会場が一気に引き締まる。
さすがの貫禄と言うか、すごいパワーだ。可愛らしくありながらどこか妖艶さを感じさせるその歌声は、玲や莉子とも違う方向で天性の才能を感じずにはいられない。俺なんかがそんなことを言うのはおこがましいのかもしれないが。
「どこへ行こうと自由だけれど 行先に迷うと言うならば」
しかし、今度はそれに臆することなく玲が歌声を被せていく。ハンドマイクを握った森野 久麻と目くばせをしながら、古くからの友人の様に振舞うその姿に気後れする様子は見られない。
「僕が特別に案内しよう その綺麗な心を チケットにおくれ」
そして二人の声が重なった時、会場はこの日一番の大歓声に飲み込まれた。地鳴りの様な音と振動が、ビリビリと肌を震わせる。俺は思わず、特にキメでもない何でもないタイミングで飛び上がってしまった。
Rickenbackerの長いネックを振り回し、ステージ中央にいる森野 久麻からウィンクを送られたならもう最高だ。俺はそのまま琴さんの真ん前を陣取って、滅茶苦茶に弦を弾きまくった。右腕を高々と掲げると、観客はそれにも大きな声で応えてくれた。
「目的地までノンストップの超特急
窓には遮るガラスも無いからさ
振り落とされない様気を付けて
辿り着く先尋ねるなんて
野暮なことは無しにしよう」
時に交互に、時にユニゾンで、時にハモリながら、今日初めて会ったとは思えないほど息の合った二重奏を紡いでいく玲と森野 久麻。その歌声に魅了されたのは、観客だけではなかった。
他の誰でもない、俺自身がそのハーモニーの虜になっていたのだ。笑顔を交わし合う二人、観客を煽る二人。そのどれもが尊く、愛おしく感じられた。これが今夜限りのものだと思うと涙が出そうになるくらいに。
「さぁさぁ ここはすべてが溶け合う楽園さ
何をしようと自由だけれど 別れが怖いと言うのなら
僕がいつでも案内しよう その時にはまた 綺麗な心を」
曲が終わりを迎えようとしている。どんなに最高な時間でも、それが永遠なんてことはありえない。それはとても寂しいことのように思える。でも、最高の時間が終わったのなら、また次の最高を作ればいい。この曲はそんな風に言ってくれているような気がした。
最後の一音、名残惜しむようにギターをジャカジャカと掻き鳴らす玲。そして、フロアに向かって何度も頭を下げる森野 久麻。本来なら俺たちのような木っ端バンドのためにわざわざステージに立つような存在ではないのに、少しも傲慢さを感じなかった。
それはきっと、彼女が謙遜しているからとか礼儀正しいからとかではなくて、素直に、心の底から歌を聴いてくれた観客に感謝しているからなのだろう。その姿はとても美しく見えた。
「どうもありがとうございました。突然お邪魔してすみません」
少しはにかむように喋りだした森野 久麻はものすごく可愛かった。
「ご存じない方もいると思いますが、私、森野 久麻と申します」
冗談なのか素なのか、まさかの自己紹介から始まった。
「知ってるよー!」
「結婚してくれー!」
観客から示し合わせたような反応が返ってくる。そりゃそうだ。ライブハウスに足を運ぶような人間で、森野 久麻を知らない者などいるはずがない。
「今日はもうほんと、飛び入りも飛び入りだったんです。それを快く受け入れてくれて、私の歌を大切にしてくれている人たちがいて、その人たちと一緒に歌う機会を得られるなんて、私のアーティスト人生も捨てたもんじゃないですね」
いや、あなたのアーティスト人生が捨てたもんなら、世の中のアーティストの9割は立つ瀬が無くなりますよ。と、突っ込むのはきっと無粋なのだろう。
「これまでの活動にマンネリを感じたことなんてありませんが、それでも今日は新しい発見がありました。この先どんな壁があるのか……もうそういう青いことを言う年齢ではないかもしれないですけど、とにかく、そういう物があった時には、きっと今日のことを思い出しましょう。素敵な歌と、出会いをどうもありがとうございました。この場を与えてくれた土田さんにも感謝を」
森野 久麻は挨拶を終えると、自分の役割は終わったと笑顔でスタスタと舞台袖へと捌けてしまった。何ともさっぱりしている。それにしても、短くも軽妙なトークの中にさりげなく土田さんへのフォローを入れるあたり、経験値の高さを感じずにはいられない。
俺たちは彼女が去った方向へ深々と礼をする。
「皆さん、どうでしたか?」
頭を上げた玲は、ニヤニヤとした顔でフロアへと問いを投げた。それに雄叫びを返す観客たち。俺だって客の立場であそこにいたら、同じように叫んでいただろう。
「森野さん、本当に本当に、ありがとうございました。私はまだ青臭い人間なので、これからもたくさんの壁にぶつかるでしょう。でも、何にもぶつからない時だって、今日のことはきっと何回も思い出すんだと思います。こんな経験……あぁ、もう言葉にならないな」
ただ単純に自分が好きだったアーティストが、自分と肩を並べてステージに立つなんて、あまりにも現実味がない。夢のような時間を終えた今だからこそ、そのことを実感するのだろう。玲が言葉を詰まらせる気持ちもよくわかる。
「うん、このままだと泣いちゃいそうだから、次いきましょう!」
強引に気持ちを切り替えようとする玲。だが、その時俺は異変に気付いた。
トラブル発生! だが、玲はまだ気づいていない様子だ。
これはマズい。何がマズいって、それに対する準備をしていない。バンドマンなら一度は経験したことがあるであろうありふれたハプニングではあるのだが、いかんせん玲にとっては初めての出来事だ。俺も京太郎も、このことを想定していなかった。今までもそれが起きなかったから、頭からすっぽり抜け落ちていたのだ。
「玲!」
次の曲を始めようとする玲に向かって声をかけた。玲は意表を突かれたような顔をしている。
「弦、切れてる!」
そう、玲のギターの弦、おそらく5弦が、切れてビヨンビヨンになっていたのだ。




