139話 そういう世界
そこには波があった。
リズムに乗る、という言い回しがある。それは比喩表現ではなく、ごく一般的な意味合いで使われる言葉だ。
だが、考えてみれば何故リズムに乗る、なのだろうか。ニュアンスは異なるが、同じような意味合いで「リズムを感じる」という言い方もある。形の無いリズムと言うものに当て嵌めるなら、こちらの方が適切なような気もするが。
しかし、今の俺には断言できる。
リズムとは、音楽とは、乗り物なのだ、と。
知らない場所へも瞬時に連れ去ってくれる超特急であり、どれだけ高く飛んでも見えない景色を見せてくれる飛行船。そして、未知と未来と憧憬を探すための宇宙船だ。
音とは空気の揺らぎである、なんて無粋なことはこの際言いっこなしにしよう。揺らぎだと言うならば、ほらすぐそこに目に見える波があるじゃないか。
頭上に掲げられた数えきれない手の平。玲が声を発するたびに、京太郎がピックを叩きつけるたびに、琴さんがスティックを振り下ろすたびに、俺が弦を弾くたびに、ひらひらひらと舞い踊る。
ライトに照らされ、赤青緑と色を変え、様々な形に変化して、その波は絶えることなく揺れ続ける。それに体を投げ出してしまい衝動をぐっと堪えて、俺は波に向かって何かわからない言葉を叫んでいた。
叫ぶ。弦を弾く。踊る。笑う。たった9ヶ月前まで、俺の行動に観客がリアクションを返してくれることなんて殆どなかった。それなのに、今はもう一挙手一投足に歓声がつきまとう。
叫べば叫び返され、弦を弾けば体を揺らされ、踊れば手を伸ばされ、笑えば笑い返してくれる。それはそれは、心の底から楽しそうに。
どんなに正面のライトが眩しくても、滴る汗が目に入っても、見えないなんてことは決して無い。自分が楽しむための音楽が、名前も知らない誰かをこんなにも喜ばせている。そして名前も知らない誰かは、その「楽しい、嬉しい」をどうにかしてこちらに伝えようと必死なのだ。
頭の中を膨大な量の言葉が巡った。意味のあるもの、無いもの。理解できるもの、できないもの。整理のつかない言葉たちが、ほんの一瞬、一呼吸の間に雪崩のように押し寄せる。だから、たった3分間の曲が永遠のように感じられた。
琴さんを見る。長い髪を振り乱し、汗と一緒に会場の奥まで突き抜けんばかりの炸裂音を撒き散らしている。京太郎を見る。スピーカーに足を乗せ、マイクもない場所でオーディエンスに向かって何かを叫んでいる。玲を見る。視線を集め、光を集め、羨望と憧憬を集め、眩しくて全体像がぼやけても言葉を紡ぎ続けている。その姿は、迷える者を導く救世主のように見えた。
デジャヴ、ではない。俺はこの光景を知っている。見たことがあるのだ。そしてその記憶は、今ここで上書きされた。
あの頃は未だ、俺だけに見えている光景だった。だが今は違う。ここにいる誰もが、余すところなく同じ光景を目に焼き付けている。
「アリーナぁッ!!!」
間奏で玲が声を張り上げる。有言実行。それにしても、思ったよりもずっと早かった。まだ一曲目なのだから。その早漏っぷりに思わず吹き出してしまった。
でも仕方のないことだと思う。だってこの景色を、熱気と歓声に包まれた手の平の海嘯を眺めていたら、感情の昂りを抑えるなんてできやしない。そんなことはしたくない。
そして、観客は玲の昂りに大きなうねりを以ってカウンターを浴びせる。その光景にも思わず笑いが溢れた。
楽しい。
楽しい。
楽しい!!
あぁ! なんてことだ! なんだ、なんなんだこの感情は! いくら頭の中で言葉を巡らせても、今の気持ちを言い表す表現が見当たらない。馬鹿みたいだ。楽しい。それしか言えない。みたいじゃない。馬鹿なんだ。馬鹿になってしまったんだ。
世界が塗り替えられていく。一音一音、音を刻むたび、観客席に目を向けるたび、メンバーと目が合うたびに。多分きっと、ここにいる誰もが同じように。
世界征服。今日日小学生でも言わないようなその言葉を、大真面目に語った女の子がいた。
最初は馬鹿な話だと思った。でも、俺もそれをやると決めた。他の仲間たちもそうだった。なぜなら、彼女とならやれると疑わなかったから。
そしてそれは、今現実になりつつある。
たった2,000人しかいないこの場所だけど、とても小さくて、まだ60億人が知らないけれど。ここは今、確かにひとつの世界だった。
その世界の征服者はcream eyesだ。
一曲目が、終わる。終わらないで。でも、終わる。悲しくはない。名残惜しんでいる暇はない。
今は未だ名前の無いこの感情を、手にした4本の太い弦に叩きつけるんだ。何度も何度も何度でも。次の曲が始まるまでは、いいだろう。
そしてまた、俺は何かわからない言葉を叫んでいた。後ろは振り返らなかったけど、後ろで琴さんが笑っているのがわかる。それがたまらなく嬉しかった。
いや、違うな。嬉しいのは、今この世界にある全てだ。そう、全てが嬉しかった。ここはそういう世界だった。




