133話 特別な日の中にある日常
俺たちが下北沢の貸しスタジオに到着したのは朝の9時。ライブ前に何をしに来たのかと問われれば、その答えは「練習をしに来た」である。
cream eyesではライブの前にスタジオで練習していくのがルーティーンの様になっていた。そしてこの下北沢のスタジオは、SILVETでライブをする時にいつも利用していた場所だ。
もちろんライブの前にはリハーサルがあるし、探せば今日の会場であるZIPPER Tokyoの近くにもスタジオはあっただろう。そうでなくても1週間にわたる合宿を行ってきた俺たちが早起きをしてまで下北沢のスタジオにやってきたのは、玲が朝の集合場所を大学前に指定したのと同じような理由だったように思う。
「始めますかね」
演り慣れた「Beautiful」でウォーミングアップをしながら、バンドのコンディションを探っていく。
京太郎はまだ眠そうだ。ギターにキレが足りない。だが、以前に比べて運指の正確性が増していて、ひとつひとつの出音がクリアになっている。時間が経って目が覚めれば本領を発揮してくれるだろう。
琴さんはまったく問題ない。弾むようなスネアの音に力強いバスドラム、そしてセンス抜群のフィルイン。これまで以上に安定感とグルーヴ感を感じるドラミングは、同じリズム隊として頼りになるの一言だ。
玲の歌も曲が2番に入ったあたりから喉が開いてきたようで、実に気持ちよさそうにメロディを紡いでいた。
京太郎や琴さんと比べても、顕著にレベルが上がったと感じるのが玲の歌だ。これまでもその歌声は素晴らしいものであったが、その類い稀な声質と表現力に頼っていた部分が思っていた以上に大きかったらしい。音程を合わせるスピードと安定感にビブラートの心地よさ、活舌や声量といった技術的な部分が目に見えるように向上したことで、歌の説得力が大きく増していた。
それらは全て、御手洗四兄妹による過酷な個人レッスンの賜物だ。俺自身も、ベースの腕前が二段階くらいレベルアップしているのを実感している。そしてその個々のレベルアップが、バンド全体の完成度を大きく引き上げていた。
「うん、良い感じ!」
「バッチリですね! この調子で新曲も確認していきましょう」
ちょうど一ヶ月前、金沢NINE HOUSEでのライブで実力の違いを見せつけられたマリッカにだって、今なら負けない演奏ができる。そのくらいの自信が身に付いていた。
「ちょっと休憩しよか」
「そうですね。ここで飛ばし過ぎて本番バテたら困りますし」
「何か、ここに居ると落ち着いちゃうなぁ。今日の夕方にはZIPPERでライブやってるなんて、実感湧かねー」
「師匠、もっとしゃっきりしてくれないと」
「しゃっきりって、なんかレタスみたい」
「師匠!」
「あははは。でもまぁ、落ち着くいうのもわかるわぁ」
慣れた場所にいることで落ち着きを感じるということは、それだけ潜在的に緊張しているということなのだろう。だからこそ俺たちは、大学前に集合し、下北沢のスタジオで練習しているのだ。
この後に訪れる、あまりにも非日常的な時間に押し潰されないために。
「楽しいな」
演奏の途中、そんな言葉が零れた。新曲の確認作業もウォーミングアップも、本来ライブ前に練習に入った目的であったことを差し置いて、俺はこの二時間の練習を純粋に楽しんでしまった。
cream eyesの曲はやっぱり最高だ。家の中でも移動中にも聴くし、ふとした瞬間に思わず口ずさんでしまう。そんな音楽を仲間と一緒に奏でるのは本当に楽しい。上手くなった今だから、尚更にそう思う。
「こんなもんかな。ちょっと早いけど、昼飯食べて行こうか」
「はいはい! カレー! スープカレーが食べたいです!」
「えらい勢いやなぁ。カレーなら合宿中もよう食べたやん」
「でもまぁ、シモキタと言ったらやっぱカレーっすからね」
もちろん小洒落たカフェもガッツリ系の定食屋も下北沢には存在するが、少なくとも俺たちにとって下北沢はカレーの街であった。これは多分、初めてのライブで対バンしたハーレム・キングのメイドさんたちによる影響が大きいと思う。
「それじゃ、カレーを食べたらいよいよZIPPERに乗り込むぞ!」
「おー!!」
その日食べたココナッツミルクの効いたスープカレーは、少し甘ったるくて辛党の俺にはやや物足りなさを感じさせた。でも、それがちょうどいい。今は、少し物足りないくらいがちょうどいいんだ。
満足するなら、それは煌めくステージの上で。




