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アイスクリーム・イン・ザ・サラダボウル  作者: 志登 はじめ
【第十章】ノー・ペイン・ノー・ゲイン
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116話 息を止めても季節は巡る

 多発性硬化症。


 マリッカのツアー中止が発表された2日後、シルバー・ストーン・レコード本社ビルの会議室に呼び出された俺たちが耳にしたのは、聞きなれない病名だった。

 国の指定難病のひとつに定められているらしいその病気によって引き起こされる症状は、視力や感覚の障害、運動麻痺など。一時的に声が出せなくなることもあるという。体温が上がると症状が悪くなる傾向があるらしく、ライブ中に発症したのはそのためだろうとのことだ。


「莉子ちゃんは大丈夫なんですか!? 治るんですよね!?」


 玲が泣きそうな顔で川島さんに詰め寄る。


「……多発性硬化症は、MRI検査を受けても診断が確定するまでにかなりの時間を要するそうです。だからまだそうだと決まったわけではありません。ただ、もし診断が確定した場合、現在の医療技術では完治させることはできないと聞きました」


「治らない、ってことですか……?」


「正確には、再発と寛解(かんかい)を繰り返すそうです。つまり症状が好転しても、いつまたこの前みたいなことになるかわからないと……医師はそう言っていました。幸い、今すぐ命の危険があるような病気ではないそうで、日常生活に戻れるケースも多い……」


「幸い……? 幸いって何ですか!!」


 川島さんの話を遮り、玲は拳を握りしめて俯きながら、大声で叫んだ。


「玲、川島さんに当たってもしょうがないだろ!」


「だって……そんなの莉子ちゃんがあまりにも……」


 玲がやり場のない思いを抱くのも理解できる。説明を聞く限り、命に別状が無かったとしても、もう以前の様に歌うことはできないということではないのか。それはつまり、ボーカリストとしての莉子が死んでしまったのと同じではないか。


「じゃあどうすれば良かったんですか!!」


 今度は川島さんが声を張り上げた。その表情は悲痛なもので、怒りや悲しみや不安や絶望や、様々な仄暗い感情が渦巻いているように見えた。


「どうすれば……良かったんですか……どうすれば、彼女を救えたんですか……教えてください」


「川島さん……」


 そんな顔を見せられたら、これ以上何も言えない。


 辛いのは川島さんも同じなのだ。いや、俺たち以上に無念と失望、そして自分の無力感に苛まれているに違いない。これまでの川島さんの仕事を見ていれば、そんなことはすぐにわかる。


 では、いったい誰が悪いのか。


 自覚症状を正確に伝えられなかった莉子か?


 気づいてあげられなかったメンバーやスタッフか?


 そんなこと、考えたってどうにもならないじゃないか。誰が悪いかなんて、こんなこと。


「……すみません。取り乱しました」


「わ、私の方こそ……すみませんでした……」


 重い沈黙が横たわる。何分くらいたっただろうか、息が詰まりそうな空気を破ったのは、開かれる扉の音だった。


「やれやれ、まるでお通夜じゃないか」


「土田さん」


「ちょっと川島くんと日下部くんと僕の三人で話したいことがあるんだ。悪いんだけど、cream eyesの皆は席を外してくれるかい?」


「……わかりました」


 土田さんの言葉には有無を言わさぬプレッシャーを感じた。まだまだ聞きたいことは山ほどあったが、事情が事情だけに駄々を捏ねて大人たちを困らせるわけにもいかないだろう。


「失礼します」


 会議室の扉を閉めた時、その静けさがとても怖かった。


 前にここに来たときは、希望に満ち溢れていた。マリッカのツアーに同行することが決まり、自分たちの可能性が輝いて広がっていくのを感じたのに。

 今は白い扉と壁以外、何も目に入らない。先が見えない。歌えなくなったのは俺たちではないのに。


「う……うぅ……」


 エレベーターへ向かう廊下の途中で、玲は遂に泣き出してしまった。俺たちはそれを慰めることもできないままエレベーターに乗り込み、液晶に表示される数字が減っていくのをただ眺めていた。


「何で玲が泣いてんの」


 ビルを出たところで俺たちを待っていたのは牡丹だった。


「何で牡丹がここに?」


「cream eyesが呼び出されたって聞いたから。玲に渡したいものがあってさ」


「私に……?」


 牡丹はそう言って、手に持っていた紙袋を玲に押し付けるように渡してきた。


「これは……」


「ねぇ、そんな暗い顔してさ、もしかして莉子の病気について責任感じたりしてないよね?」


「え?」


「もし今回の件でcream eyesが足踏みするようなことがあったら、私は絶対に許さないからね。莉子に変わって、皆をぶっ飛ばしに行くから」


「何を言って……って言うか、これは何なんだよ」


「それじゃ、私の用はそれだけ」


「ちょっと待てって!」


「待たないよ~」


 何にも説明せずに、牡丹は逃げるようにその場を去って行った。


「何なんだよあいつ……こんな時に」


「玲ちゃんは結局何をもらったの?」


「何でしょう……あんまり重くはないですけど……」


「確かめてみたらええやん」


 通路の端に移動して紙袋の中を覗いてみると、そこには綺麗な包装紙にくるまれた箱が入っていた。


「ホント、何だこれ」


「開けてみますね」


 玲は包装紙のシールを剥がし、丁寧に中の箱を取り出した。そしてその箱を開けてみると、可愛らしいクマのぬいぐるみが入っていた。


「かわいい」


「何でこのタイミングでぬいぐるみ? まさか爆弾とか……」


「ちょい待ち。奥に手紙入っとるやん」


 箱の底にあった小さな封筒には「Dear REI」と書かれていた。そしてそこに入っていた便箋を開いてみると


「誕生日おめでとう」


 ただ一言、丸っこい手書きの文字でそれだけが書かれていた。


 今日は11月21日。玲の19歳の誕生日だ。


「あ……あぁ……」


 そして便箋の裏には、小さく薄く目立たない「From RIKO」の文字。


 玲はぬいぐるみを強く強く抱きしめて、声を上げることなく静かに涙を流した。


 莉子がいつこれを用意したのか。どんな想いで手紙を書いたのか。なぜ牡丹がこれを持ってきたのか。そのことを少しだけ想像してみる。すると、暗く冷え切っていた心が、じんわりと暖かくなっていくのを感じた。


 玲はしばらくその場でぬいぐるみを抱きしめたまま立ち尽くしていたが、やがて涙を拭って空を見上げた。その視線の先には筋雲が流れていて、頬を撫でる風も冷たく、本格的な冬がすぐそこまで来ていることを感じさせた。


 俺たちが今やるべきことは、ふさぎ込んで下を向くことじゃない。


「そうだよな」


 俺は自分の両頬を、平手で思いっきり叩いた。バチンッと大きな音が鳴り、鋭い痛みが駆け巡る。


「急にどうした!?」


「決めた! 今日は焼肉行くぞ! 俺の(おご)りだ! 全員死ぬ気で食え!」


 頬が熱を帯び始めた。きっと、かなり赤くなっているに違いない。


 すると、パァンッともうひとつ大きな音がした。玲も俺と同じように、両頬を叩いたのだ。


「玲ちゃんも何してんの!?」


「えへへ。朔さん、お財布の中身は十分ですか?」


 両頬を真っ赤にはらした玲は、泣きながら笑っていた。この子は、本当に気持ちの強い子だ。


「何これ何これ。何で急に自傷行為を始めてんの? メンがヘラったの? ってへぶしッ!!」


 追加でもう一つ、乾いた破裂音が響く。琴さんが京太郎を引っ叩いたのだ。


「痛い! マジで痛い!」


「ウチは痛いの嫌やから」


「理不尽すぎる!」


 こうして琴さんだけは綺麗な顔のまま、俺たちは焼肉屋へと向かっていった。

 だが、赤坂の焼肉屋はどれも目が眩むような価格帯ばかり。


「これはちょっと……大学近くの焼肉屋なら食べ放題なんで、そっちに……」


「移動めんどいやん。ウチはここでええよ」


「俺の奢りですからね! そりゃそうでしょうよ!」


「朔さん、私誕生日ですよ? 莉子ちゃんは覚えててくれたのに」


「ぐ……それを言われると……」


「お前、何で奢りだなんて言ったんだよ……」


 俺たちが立ち止まることを、誰も望んでなんかいない。この胸に(つか)えてどうしようもない悲しみは、誰のせいでもない。

 ひとり1万円の焼肉は明日への活力だ。もちろん、デザートにアイスも忘れてはいけない。

 莉子のことを思うと、笑っていることさえ苦しく感じてしまう。それでも、俺たちは笑うんだ。笑って、前に進むんだ。


 そうしなければ、世界を征服できないのだから。

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