9話 彼女の秘密
「は、は、は、はっじめまっして! 僕、京太郎!!」
「落ち着きぃや」
突然起立した京太郎の頭を、琴さんが軽く叩く。玲はクスクスと笑っていた。
「改めて自己紹介しますね。玉本 玲、法学部の一年生です。でも、はじめましてじゃないですよね、先輩」
「せ、せ、せ、せ、せ?」
先輩と言う響きに、何か特別なものを感じたようだ。気持ち悪い。
「お前、ほんと駄目だな」
「あはは。すいません、早く来すぎちゃいました」
「ええよええよ。ほら、座り」
琴さんが椅子を引くと、玲はスッと腰を降ろした。ほぼ初対面とは思えない、とても自然で落ち着いた仕草だった。
「来てくれてありがとう」
俺もできるだけ平静を装って会話を始めた。が、内心は心臓が飛び出るのではないかと思うくらい、鼓動が早まっているのを感じていた。こんな緊張は、小学生の頃に初めて学芸会の舞台に立った時以来だ。あの時は寡黙な木の役を見事に演じきったものだが、今は黙っているわけにはいかない。
「この前はいきなり声をかけてごめんね」
「いえいえ、ビックリはしましたけど」
「あの後、あっちの部屋はどんな感じだった?」
「すごかったですよ~。みんなで悪口の大合唱! あんな話、絶対乗らない方が良いって、散々言われましたもん。特に、え~と……」
「ウチは二宮 琴」
「そう、琴先輩への悪口がすごかったんです。ちょっと綺麗だからって調子乗ってるーって」
「あはは、今度会ったら八つ裂きにしたろうかねぇ」
「琴先輩だったら出来ちゃいそう!」
玲は驚くほど軽い口調で話す。
「あ~……やっぱそうだよね……」
「しっかし、それでよう来る気になったねぇ」
「うーん、元々合わないなぁって思ってたので、何かあれで吹っ切れました。私、テニスがやりたかったんですけど、誰もテニスやってないんですもん、あそこ。テニスサークルなのに」
「テニス?」
「はい。私、中高テニス部だったんです」
色白で華奢な体は、とてもスポーツと結びつかない。それどころか、スポーツ全般はからっきしな雰囲気をひしひしと感じる。
「中高ずっと補欠でしたけど」
「やっぱり」
「あ、ひどい!」
「あぁ、ごめんごめん!」
しくじった! 京太郎と会話してるわけではないのに、いきなり失礼すぎた。そう思ったが、玲は変わらずにこにこと笑っていた。
「あはは、自分でも才能無いってわかってますから。6年間部活やってて、サーブもまともに打てないんです、私」
そいつは酷い。と思ったが、すんでのところで言葉を飲み込んだ。どうやら冗談は通じるタイプのようだ。
「テニスはもういいの?」
「うーん、今になって思えば、私多分それほど好きじゃなかったんだと思います。やってる時は楽しいと思ってたんですけどね。考えてみれば、部活も友達に誘われて何となく入っただけですし」
その言葉に琴さんが反応する。
「今回は何となく、じゃないん?」
「今回も何となく、です」
玲が満面の笑みで答えた。やばい、琴さんがキレる。俺は咄嗟にそう思った。琴さんは本気でバンドをやろうと考えていた。それに対する回答がこんなふわふわした物では、怒りに触れるのではないかと。だが、
「あっはははははは」
琴さんは爆笑していた。
「私、バンドやろうなんて考えたことなくて。いきなりでちょっとビックリしましたけど、先輩に誘われた時、これだー! って、そう直感しました。今までとは違う、新しくて楽しい何かが始まるんじゃないかって、そんな予感がしたんです。これって、何となく、ですよね?」
「せやなぁ。しかし何や、朔とおんなじやん。あんたら直感に頼りすぎやで」
「だって私、今まであんまり人に必要とされたことって無かったから、あんな風に熱心に誘われたのが嬉しくって」
琴さんはまだ笑いが止まりきっていなかった。それにしても、あの時玲がそんな風に思っていたとは予想外だ。俺は何て幸運なのだろうと、初めて神様に感謝した。そして、チャラついたテニスサークルの面々にもついでに感謝した。謀らずも、玲の報われないテニス生活に引導を渡してくれたのだから。
「俺もあの時、玉本さんを誘わないと絶対後悔するって、そう思った」
「何か、照れちゃいますね」
玲はふふっと笑った。
「あ、あと玲でいいですよ、先輩」
「そう? じゃあ玲で。俺も朔でいいよ」
「ウチも琴でええよ。先輩なんて、面映ゆいわ」
「ありがとうございます、朔さん、琴さん」
ずっと黙っていた京太郎だが、この時に少しだけ残念そうな顔をした。
「先輩は先輩のままが良いですか?」
玲が悪戯っぽく問いかける。
「は? え? あ、あの……え?」
「あ~、こいつは京太郎、もしくはD太郎と呼んでやってくれ」
「D太郎?」
「朔てめぇコノヤロウ!」
「DTRでええんちゃう?」
「琴さんも! コラ! 言いづらいし! 京太郎でお願いします!!」
「あははは。じゃあ京太郎さん、よろしくお願いしますね」
「あ、うす。よろしく、ね。玲……ちゃん」
「ほんま、ウチ以外の女の子と話すときは気持ち悪いなぁ」
「……」
「気持ち悪くないですよ。面白いです!」
面白いと言われて、京太郎はにやついていた。それ褒めてないぞ、と言いかかったが、黙っていた方が面白そうだと思い口を噤んだ。
「でも、何で私を誘ったんですか? そんなに才能ありそうに見えました?」
こういう言い回しが嫌味の無い感じでスラっと出てくるところ、実は琴さんとタイプが似ているんじゃないかと思った。
「そりゃもう! 才能の塊だと思ったよ」
「すごい! 見ただけでそんなことわかっちゃうんですね~。何だか照れくさいです」
「見ただけじゃなくて、聞かせてもらったからね。たまたまだけど」
「聞かせて……? 私、ギター弾いたことなんてないですよ?」
「ん?」
「え?」
何だ、この違和感。話が噛み合っていない。齟齬が生じている。
「あの、玲」
「はい?」
「俺、ボーカルとして君を誘ったんだけど」
そう告げると、玲は目を大きく開けて固まってしまった。その直後、手にしていたプラスチック製の透明なコーヒーカップが、プルプルと震えだした。何か嫌な予感がする。
「玲?」
「ボーカル……? 歌う人ってことですか?」
「そ、そうだけど」
玲の額から汗が流れ落ちる。コーヒーをストローでずずっと一口飲むと
「えーーー!?????」
そう叫んで、奇妙な冒険に旅立ちそうなポーズで立ち上がった。
「え? 歌? 私の?」
玲は混乱している。今にも小石を拾ってモンスターに投げつけそうな勢いで。
「何や朔、肝心なところ伝えてなかったん?」
「え、いや、その」
「しょうもないねぇ」
改めて玲の方を見ると、顔を真っ赤にしてしおらしく座っていた。
「き、聞かせてもらったって、あ、あ、あ、あの時のカラオケですか……?」
かろうじて声を絞り出したといった感じで、玲は俺に問いかけた。
「う、うん」
「あ゛~! 恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!」
両手で顔を覆って悶える玲。そのままガンガンとテーブルに激しく頭を打ち付け始めた。明らかな異常行動に、周囲の視線が一気に集まる。俺たちは困惑してしまった。誰も彼女を貶めたつもりは無いのに。
「おぉ、何事や」
「あの、玲ちゃん。いったん落ち着こ? 何がそんなに恥ずかしいの?」
D太郎がまともに女子に話しかけている。だがそんな驚きはもはやどうでも良いことだ。今は玲を落ち着かせなければなるまい。打ち付けていた頭の動きを止め、玲は震えた声で話し始めた。
「だって、だって……私の歌、聞いたんですよね? あの時、散々嫌だって言ったのに、どうしても一曲だけって言われて、拒否し続けるのも空気悪くなると思って、仕方なく歌っただけなのに……私、朔さんに誘われて、楽器の素質があるんだーって、ギターとか楽しそうだなーって思って、それでここに来たのに……」
「いやいや、さすがに見ただけで楽器の才能見抜ける奴なんていないよ……」
「何や、玲ちゃんは歌うのがそんなに嫌いなん?」
「嫌いって言うか……私、変な声だから……」
看過できない言葉だった。
「全然変なんかじゃない!!」
俺はテーブルを両手で叩きつけ、大声を上げた。またしても周囲の注目が一気にこちらのテーブルに注がれる。
玲と京太郎はポカンと口を開けこちらを見ていた。俺自身も、自分からこんな声が出るとは思っていなかった。恥ずかしくなって声のボリュームを落としたが、そのまま一気に話しを進めた。
「全然、変なんかじゃないよ。そんなわけない。俺は玲の歌を聞いて、これしかないって思ったんだ。何てスゴイ歌声なんだろうって、これを逃したら後悔するって思った。俺は今まで音楽やってきて、それなりにたくさんの人の歌を聞いてきたよ。音程が全くぶれない人、心地よいビブラートを響かせる人、声がかっこいい人、いろんな良いボーカリストがいた。だけど、ひと声聞いただけで鳥肌が立つなんて、生まれて初めてだったんだ。俺が感動した、運命を感じた歌声を……変だなんて、とんでもない!」
「朔さん……」
「朔、ちょい落ち着き。いきなり運命なんて言われたら、玲ちゃんも引くやろ」
確かに、言葉が大げさすぎたかもしれない。まだ何の関係性も築けていない玲に言うには、重すぎる言葉だ。でもそれは、俺の偽りの無い本心だった。
「あぁ、すいません……」
「いえ、大丈夫です。こっちこそ、取り乱してすいません」
「そもそも、玲ちゃんは何で自分の声が変だなんて思うん?」
「えっと……昔、小学生の頃に、男子に変な声だって馬鹿にされて……怪獣みたいな声だって……」
あの声が怪獣だと? 小学生男子許すまじ。俺がそう誓ったのと裏腹に、琴さんは吹き出していた。
「あっははは、小学生の頃て! そんなん、男子が照れ隠しでいけずなこと言うたに決まってるやん。多分その子、玲ちゃんのこと好いとったんやろなぁ」
「男子あるあるっすね~」
琴さんと京太郎の笑い声が響く。
「そんな! 私めちゃくちゃ傷ついたのに!」
「まぁまぁ、朔がこんだけ入れ込むんやし、特徴のある声ではあったんやろな。せやかて、特徴的イコール変ってことはないやろ?」
「それは、そうですけど……でも、私今まで歌を褒められたことなんて無いですし……」
先ほどまでの快活な印象はどこへやら。玲は随分弱気になってしまっていた。幼少期に刻まれたトラウマというものは、こうも人を縛るものなのか。
「ウチも京太郎も、玲ちゃんの歌を直接聞いたわけやないから、憶測でしか言えんけど」
「でも、玲は歌が嫌いじゃないんでしょ?」
「歌は……歌は嫌いじゃないです。と言うか好きです。人前で歌うのはあれですけど、ひとりカラオケはよく行きます」
「上々やね。ほんなら、今から証明しに行こか」
「証明?」
「玲ちゃんの歌声が怪獣なんかやないっちゅー証明や。朔も京太郎も、それでええやろ?」
「もちろん、オッケーですよ」
「あの~、どこ行くんですか? 証明って?」
「それは行ってからのお楽しみと言うことで」
「もしかして、カラオケですか……?」
不安そうに尋ねる玲に、俺は笑顔で答えた。
「カラオケより、ずっと良いトコだよ」




