チャプター5 再現VTR マイクの生い立ち
実在の曲名が登場する箇所がございます。ご一緒に曲も聞いていただくと、右脳でも楽しめるのでお勧めです。
よろしければソウルトレインの動画もご覧ください。
なかなかいいもんですよ(マイク)
汐入駅の裏にある公園。幼いマイクは母に連れられてハトに餌をあげて遊んでいた。公園で豆を売るおじさんとマイクは顔なじみだ。一袋五円の豆を買い半分はハトに、半分は自分のおやつにする。
「マイクは大きくなったら何になりたい?」
ベンチの隣に座る母がニコニコと笑いながら聞いてきた。
「兵隊さん!お父さんみたいに強くなって、悪いベトコンをやっつけるの!」
マイクは元気よく答えたが、母は少し悲しそうな顔をしていた。
「そうなの・・・でもお母さんはマイクに危ない事をしてほしくないな。他はある?」
「ジェームス・ブラウン!」
「あはは。マイクはジェームス・ブラウンになりたいのか~。たくさんお歌の練習しなきゃね?来年小学生になったら、聖歌隊に入ろうか?」
歌手ならば命の心配はしなくていい。悲しそうだった母の顔がパッと明るくなった。
マイクの父は横須賀に駐留する海兵隊に所属している。兵隊の子供は基地の中の小学校に入れて、学校には聖歌隊もある。
「うん。お歌の練習する!おうちに帰ったら、ジェームスのレコード聴かせて」
「オーケイ、マイク。お買い物して帰ったら、レコード聴こうね」
マイクの父は音楽が好きで、レコードを沢山持っている。「すごい新人が出てきた」と、ジェームス・ブラウンのレコードを持ち帰ったのが先週で、それ以来マイケルもジェームスの大ファンだ。
その後、マイクと母は汐入の駅前で買い物をした。八百屋と肉屋に立ち寄り、最後に豆腐屋で買い物をしていた時だった。
「豆腐二丁だね。まいど!お、珍しいな。黒んぼのボウズも豆腐が好きか?」
豆腐屋の親父の愛想は良いが口が悪かった。
「そうなんですよ。うちの子はお豆腐が大好きで」
「そうかい。奥さんの子か。するってぇと、この子はあいの子か?」
「ええ。父親がアメリカ人です」
「じゃあ、旦那の分もおまけしてやるよ。豆腐三丁な!」
マイクと母は汐入を背に進み、長い坂を上って家まで帰る。谷戸と呼ばれる地域だ。近年になって急激な人口減少を記録するが、それは四十年以上後の話。この頃には大勢の若者が暮らす町だった。
坂道や階段を上った事で、幼いマイクに疲れが見えた。神社の境内で一休みする。
「ねえ、ママ」
「なあに?マイク」
「『黒んぼ』って何?」
「肌が黒い人の事よ」
「ふーん。じゃあ『あいの子』は?」
「お父さんとお母さんの、生まれた国が違う子の事よ」
「珍しいの?」
「そうね。ここは日本っていう国で、お父さんはアメリカの人、お母さんは朝鮮の人だから、お豆腐屋さんには珍しかったのかもね」
『黒んぼ』も『あいの子』も、現在の日本ではNGワードではあるが、1960年代にはそんなものは無く、よく言えば自由、悪く言えば無神経といったところ。
「そろそろ帰りましょうか?」
「うん」
母子が神社の境内を出るとき、入れ替わるように杖を突いた老人とすれ違った。老人は嫌悪感を隠そうともせず、大声で怒鳴ってきた。
「毛唐が、神聖な神社に入るんじゃない!!」
老人が見せたあまりの剣幕に、マイクは足が動かなくなってしまった。
「マイク。早く行きましょう」
「あのおじいさん、なんで怒ってるの?」
「いいから、早く来なさい!」
家に着いた後も、老人がなぜ怒鳴っていたのかを問い質したマイクだったが「仕方ない事だから、あまり気するな」と言うばかりで、母は取り合ってくれなかった。
◇◇◇◇◇
横須賀基地内の学校に通うマイクは中学生になった。そろそろ父親の身長を超えようかというクリスマスの日、マイクの父が上機嫌で帰ってきた。
「マイク。クリスマスプレゼントだ!タコスをいつもの店で沢山買ってきたから、みんなで食べよう」
「う、うん。パパありがとう」
いつもの店という事は、横須賀ベース前のハニービーだ。あの店のタコスは他とは別格で、父とマイクの大好物だ。だが、マイクも中学生で、クリスマスプレゼントにタコスでは少々さみしい。
「どうしたマイク。タコスは嫌いになったか?」
「そんなことないよパパ。タコス大好きだよ」
「ははは。悪かった。ちゃんとメインのプレゼントがあるよ。向こうの部屋に置いてあるから見てみなさい」
父はいたずらっ子のような表情を作ると、マイクにウィンクをして隣の部屋を指さした。
期待に胸を膨らませたマイクが隣室のドアを開けると、そこにはオープンリールのビデオデッキがあった。
「すごい!ビデオデッキだ!」
「隊の士官が買い替えるっていうから、安く譲ってもらえたんだ。マイクは気に入ったかい?」
「うん!すごく嬉しい。だけど、これで何を観るの?」
「それもちゃんと考えてるよ。タコスを食べたら一緒に観よう」父の手には数本のテープがあった。
父がプレゼントしてくれたテープには、アメリカのテレビ番組が録画されていた。番組のタイトルは『ソウルトレイン』。週替わりのゲストがステージで歌い、その周りでダンサー達が一流のダンスを披露する。一本のテープには一回分の放送が録画されていた。
父がくれたテープは三本あったが、その中にジェームス・ブラウンがゲストの回が録画されていた。マイクは大層喜んだが、父も嬉しそうだった。プレゼントした父も、録画されているゲストが誰か知らなかったようだ。
その日は近所から苦情が来るまで、ソウルトレインを見ながら父と一緒に踊った。バンプと呼ばれる、お互いの体をリズムに合わせてぶつけるダンスがある。ソウルトレインでバンプする父子を見て母も微笑む。マイクにとって人生で最高のクリスマスだった。
◇◇◇◇◇
「来週、合衆国に帰国するけど、お土産は何が欲しい?」
ビデオデッキをプレゼントされた翌年の春、父はそんな事を聞いてきた。
帰国の理由は特に聞かなかった。海兵隊に所属していた父は、しばしば母艦に搭乗して海外に遠征したし、親戚の付き合いで帰国することもあった。
ベトナム戦争は末期に差し掛かる頃。厭戦ムードは高まっており、戦争の大義に疑問を持つ者も多かった。軍についてだけは多くを語らない父だった。
「ソウルトレインのテープがいいな」その時も特に気にせずに父を送り出した。帰国した父と、ソウルトレインのビデオを楽しみたいと思った。
しかし、父はなかなか家に帰ってこなかった。理由は分からない。母にも心当たりが無いようだった。インターネットの無い時代、マイクは父の消息を知りたい一心で、アメリカの親戚に宛ててエアメールを送った。
手紙を書いて一ヶ月が経っても返信は無く。落胆しては手紙をまた書く日々が続いた。
業を煮やしたマイクは父が所属している横須賀基地を訪ねた。
「モーガンは既に軍籍を離れている。それ以上は軍機に属すので答えられない」
けんもほろろに追い返された。何が起こっているのか皆目見当もつかない。基地を出て正面にある店でタコスを買った。EMクラブの階段に腰かけて食べたが、どこか味気なかった。クラブの入り口を守るMPが、そんなマイクを心配そうに見つめていた。
感情を露わにする国民性からか、母の塞ぎようは見ていて痛々しいほどだった。
生活はすぐに困窮した。母を助けようと高校へは進学せず、働く先を探したが、黒い肌の少年に世間は冷たかった。横須賀基地の学校で育ったマイクは差別されることに慣れていなかった。やっと見つけた肉体労働の仕事ですら、すぐに別の作業員に取って代わられた。
そんなマイクに今の職を与えたのが、ザイオンのオーナーである矢田部だ。矢田部は決して善人ではなかったが、能力のあるものを区別しなかった。
少ないながらも給料がもらえ、酒は飲み放題、好きな音楽をネタに生きていけるザイオンは、その名の通り楽園のような場所だった。
◇◇◇◇◇
1975年、店のオープンと同時にマイクはDJとしてのキャリアをスタートさせた。ヴァン・マッコイのハッスルが大ヒットした年だ。
振り返ってみれば、時代は輝いていた。毎週のようにヒット曲が生まれ、誰もがダンスと娯楽に飢えていた。
客の半分以上は父と同じ黒人の兵隊だった。悲惨な戦争と、軍隊での差別に疲れた彼らは、暗い日常を覆い隠すように、ことさら陽気に振る舞っているように見えた。
お祭り騒ぎの客が投げるチップで、ビア樽が毎週のように一杯になったのはもはや伝説だ。
秀明の父である明雄と出会ったのもこの店だ。店のオープンから二十年以上経ち、流行りの曲はヒップホップやR&Bに移っていた。
2PACが死に、ノートリアスBIGも死んだが、アメリカのクラブシーンに失速感は無かった。クーリオの『Gangsta‘S Paradise』が大ヒットしたと思えば、TLCも流行った。フージーズはボブマリーに特大の再評価を与えたし、そこから飛び出したローリン・ヒルはグラミー賞を総なめにした。
そういえば2PACが死んだ直後、彼の生存説を力説している奴がいた。つい最近の事に思えるから不思議だ。
当初、明雄は数人のグループでザイオンに来ていたが、次第に一人で来店するようになっていた。
フロアで踊る訳でもなく、バーカウンター――ちょうど先ほど秀明が腰かけていた辺りの席――で、音楽に聞き入っていたのが印象的だ。
「何か飲む?」
空になったグラスを指し、マイクが明雄に問いかける。
「ジントニックをください」
一見して外国人の風貌を持つマイクが、流暢な日本語で問いかけたのに驚いている様子だ。こうした反応には慣れている。
明雄の言葉には、東北の訛りが微かに感じられた。
「俺はマイク。よろしくね」
右手を差し出して自己紹介する。
「明雄です」
握手をした明雄の手は汗ばんでいた。少し緊張しているのかもしれない。
「一人で来てるの?」
いつも一人で来る客は珍しい。明雄の気分を害さないよう、自然な調子でマイクは尋ねた。
「はい。大きな音で曲を聴くのが好きなので・・・」
女漁りだけを目的にクラブを訪れる手合いかと思っていたマイクに、明雄の言葉は好意的な印象を与えた。
ドリンクグラスを手に取ろうとしたところで、マイクは店の入口が騒がしくなっているのに気づいた。その一団を確認し、マイクは暗い気分になる。谷田部だ。
この店のオーナーにして、この一帯を仕切るヤクザの組長は、飲食店や風俗の経営も行っているが、一般の店舗からのみかじめ料でも潤っている。薬物や武器の密売にも関わっているという噂もある。
『こっちに来るな』マイクの願いも虚しく、谷田部は取り巻きと共にこちらに近づいてきた。
「おぅ、マイク。儲かってるか?」
下品な笑みを浮かべながら、谷田部が話しかけてくる。今夜は機嫌が良いようだ。
「おかげさまで。何かお飲みになりますか?」
「シャンパンを三本くらい寄こせ」
二階のVIPルームを顎で指して、谷田部が命令してくる。
「承知しました。少々お待ちください」
早く谷田部との会話を終わらせたいマイクは、いそいそと準備に取り掛かかる。
「よろしく頼むわ。それよりよ、この女なかなかのもんだろう」
一緒に入ってきた女を一人捕まえて、谷田部はさらに会話を継いだ。
女はお世辞抜きで美しかった。フランス人形のように整った顔に、サラサラとしたロングヘアがよく似合う。身長は百五十センチ台の半ばだろうが、小さな顔と長い手足が十センチは高く見せている。細く整えられた眉の下にある大きな瞳からは感情が読み取れず、いっそう人間離れした印象をマイクに抱かせた。
「しのぶです。よろしくお願いします」
フランス人形はアニメのキャラクターのような声で名乗った。容姿と声に大きなギャップがある。
「こちらこそよろしく。マイクです」
店内の喧騒がありがたかった。さもなければ、マイクの声に含んだ緊張がバレていただろう。
父娘ほども年齢の離れた女に、ここまで緊張したのは初めてだ。
「最近うちの店に入った子だ。店じゃ源氏名だけどな」
経営する風俗店の一つの名前を挙げて、谷田部が説明する。
「こいつはマイク。この店を始めた時からやってもらっている。あだ名はキムチバーガー。おやじがアメリカ人で、おふくろが朝鮮人だから。おもしれーだろ」
マイクの事を誰もそんなあだ名では呼ばない。谷田部が勝手に言っているだけだ。
マイクはシャンパンを取り巻きの一人に手渡したが、当然のように谷田部は料金を払わなかった。下卑た笑いを残して谷田部がVIPルームに上がっていったのを確認し、マイクは胸をなでおろした。
『大丈夫。いつものことだ』
「感じの悪い人ですね」
やり取りを横で見ていた明雄がつぶやいた。
「ああ。慣れてるから大丈夫だよ。ジントニック、待たせてごめんね」
後回しになってしまった酒を出して、マイクが返答する。
「それにしても、かわいい子でしたね」
明雄は率直に感想を述べてきた。しのぶを見て好意を持たない男はいないだろう。それくらい、しのぶの容姿は完ぺきだった。
◇◇◇◇◇
翌週、マイクは明雄としのぶが連れ立って店に来ているのを発見した。妙な組み合わせだ。
「よお、今日は二人で来たのかい?」
からかうようなニュアンスを含まないよう、努めて自然な調子でマイクは二人に声をかけた。
「ええ。ザイオンに来る途中、しのぶちゃんとたまたま会ったんですよ。ザイオンに行くところだって言うから、一緒に来ました」
明雄がしのぶに好意を持っているのは一目で分かった。
「マイクさん、聞いてくださいよ。しのぶちゃんとは、橋の上で会ったんですけど」
店の近くに流れる運河に橋が架かっている。明雄はその辺りの事を言っているのだろう。
「この子、すっごい泣いてて、理由を聞いたら・・・」
「橋の下に鴨の赤ちゃんが泳いでるでしょ?すっごい可愛くて、わたし感動しちゃったんですぅ」
明雄の説明に割って入り、しのぶが引き継いだ。
「そこにアッキーが来てぇ、スーパーでパン買ってあげたりしてね~?」
「カモ肉を買おうとした時には必死で止めましたよ!」
それでは共食いだ。
しのぶは何で止められたのか、未だにわかっていないらしい。きょとんとした表情で明雄の話を聞いている。いわゆる天然の分類に入るのかもしれない。
それからというもの、明雄としのぶは必ず二人で来店するようになった。付き合い始めてすぐに、しのぶは風俗店を辞め、近くのパン屋で働き始めた。子供の頃に憧れた職業だったのだという。
◇◇◇◇◇
翌年の春に二人が結婚した際には、マイクが自腹を切ってザイオンを貸し切り、ささやかな結婚パーティーを開いた。さほど多くの参加者は来なかったが、心が温まるようなパーティーだった。
マイクは心から二人を祝福した。両親の愛に恵まれなかったマイクにとって、明雄としのぶは子供のような存在だったからだ。
生活は決して楽では無かったが、二人はとても幸せそうだった。
そして、秋には秀明が産まれた。
◇◇◇◇◇
マイクは明雄としのぶの家に度々訪れている。理由は単純。秀明がかわいいからだ。事実、子供用品のCMに出ても遜色ないほどに、秀明は整った顔立ちをしていた。
クリスマスを間近に控えた時期だったので、赤い長靴に入ったおしゃぶりやガラガラを携え、マイクは二人の家に立ち寄った。
おしゃぶりを咥えて笑う秀明と、同じ顔で微笑むしのぶ、それを暖かく見守る明雄、マイクの考える理想の家庭がそこにあった。
いつも明るいしのぶだったが、明雄が席を立った隙に、深刻な顔でマイクに呟いた事がある。
「マイクさん。私、ちょっと不安になるんです」
「何が?」
「この先、ちゃんとシュウを育てていけるかなって」
「金の事か?それなら明雄が」
「ううん。お金の事じゃないんです。それは全然心配してません」
マイクは沈黙をもって次の言葉を促した。
「私、あんまりいい子じゃなかったから、お母さんに嫌われてたんです。今度は私がシュウに酷い事しちゃわないか心配で・・・」
「シュウが可愛くないのか?」
「すっごく可愛いです」
慌ててしのぶは否定した。もうすっかり母の顔になっている。
父に捨てられた経験を持つマイクは、しのぶの言葉を即座に否定する事が出来なかった。だが、不安を抱えるしのぶには、何か一つでも自分の思いを伝えたい。
「それは俺にもわからない。人の心なんて、いきなり変わったりするからな」
「やっぱり・・・」
「だけどな、世間はそんなに捨てたもんじゃないぞ」
「・・・・・・?」
「お前らは苦労して育った。これからは、もっと周りを頼っていい」
「そう・・・なのかな?」
「子供の頃のお年玉はクラスで一番貯まった。なんでだと思う?周りが金持ちだったからじゃねぇよ。うちの親父がいなくなったのを知った途端、近所のおじさんやおばさん達が急に優しくなってよ。うちがすげぇ貧乏だってのも知ってた。優しい人達だったな」
しのぶにもマイクと似た経験があるのかもしれない。時折頷きながら聞いている。中学を卒業してから辛い思いも多かったが、それはこの場では言わなかった。
「しのぶちゃんがシュウを愛せなくなったら、それはもう・・・しょうがねぇ。だけどな、その時は周りが助けてくれるさ。だから心配するな。シュウは人の気持ちの分かる男に育ててやってくれ」
「うん。ありがとう。マイクさん」
「ま、お前らなら大丈夫だ。気ぃ張らずにやっていこうや」
◇◇◇◇◇
だが、幸せは長くは続かなかった。
春から秀明の保育園への入園が決まり、これからというときに事件は起こった。
その日のことをマイクは今でも鮮明に覚えている。土曜の夜、開店準備が終わり一息ついていた時のことだ。
店の電話が鳴り、マイクが呼び出された。相手は明雄だった。
「マイクさん。しのぶが。しのぶが!」
明雄の取り乱した様が、事態の重大さを予感させた。
「しのぶちゃんがどうした?」
「帰ったら、すごい血で、シュウも血まみれで」
「落ち着け!今は家なんだな?救急車は呼んだか?バカ野郎!!すぐに呼べ!今すぐそっちへ行くからちょっと待ってろ!」
ザイオンのロゴが入った社用車を飛ばし、マイクは明雄としのぶの家に急行した。週末の渋滞がもどかしかった。
マイクが到着した時には既に救急車が来ていた。明雄は血まみれの秀明を抱えて取り乱していた。
しのぶはその場で死亡が確認された。死因は刺殺だった。
犯人はすぐに逮捕された。しのぶが夜の店で働いていた時の客だった。憎むべきその男は秀明のすぐ横で、しのぶを強姦した後に殺したという。
明雄が帰宅した時、秀明は血だまりの中で泣きじゃくっていたらしい。
明雄に妻の死を悲しむゆとりは無かった。葬儀の手配から始まり、関係者への連絡、警察の事情聴取に忙殺された。
周囲は止めたが、明雄は欠かさず裁判を傍聴していた。犯人は貧しい家庭で育った青年だった。検察は死刑を求刑したが、酷い虐待を受けていた事実が考慮され、懲役三十年の判決が下された。
赤ん坊だった秀明には、そうした事情は知らせていない。周囲の大人たちは、母は病気で亡くなったと信じ込ませている。
明雄が家を空けるときには、必ずマイクが秀明を預かった。おむつ交換の苦労話をすると、秀明は苦り切った顔をして面白い。
明雄が最初に子育てで苦労したのは料理だった。当時の秀明は普通食を始めたばかりで、料理をしたことのない明雄は懸命に努力していた。
タコライスの作り方をマイクが教えると、乳児にも食べられるように工夫していたのが印象的だ。本当はトルティーヤを使ったタコスを勧めたかったが、手に入りやすい米で作るタコライスの方が良いとマイクは考えた。
その明雄も、この春にすい臓癌で亡くなった。分かった時には手の施しようが無いところまで進行していた。
この店で芽生えた恋は花を咲かせ、種を残し、そして散っていった。今は秀明という苗がここで育っている。
◇◇◇◇◇
「マイクさん、次で交代します」
DJブースから声をかけられ、マイクは思い出の淵から引き揚げられた。
「はいよ。この後よろしくね」
短く応じて交代の準備にかかる。フロアの盛り上がりは最高潮だ。どんな曲を回したかよく憶えていないが、それでもしっかりと客を引き付けるのがプロの技だ。
マイクはDJブースを譲り、ビールを飲もうとカウンターに向かった。秀明は先ほどと同じ席に戻っていた。
「マイクさん、お疲れ。なんか今日はイマイチだった。マイクさんのスクラッチが好きなのに、今日はあんまりやってくれなかったし」
秀明はマイクに容赦がない。それでいて的確な指摘をしてくる。
スクラッチとは、レコードを自動的な回転に逆らって手で動かす技だ。『キュキュ』と独特の音がする。
「で、家は見つかったのか?」
スクラッチへの指摘は聞き流して、マイクは話題を転じた。
「探してるけど、なかなかいいのが無んだ。仕事を見つけないと家賃を払っていくのも難しいし・・・」 秀明は暗い表情でうつむいた。顔はしのぶに似ているのだが、ちょっとした仕草が旧友とそっくりだ。
「保証人とか、そういうの必要だったら遠慮なく言えよ」
住まいの契約も、就職も、必ずと言っていいほど保証人が要る。身寄りの無い者は、どこへ行っても生き辛い。
「ありがとう。明日は面接。ま、何とかなるっしょ」
空元気が痛々しかった。
秀明を諭したり、厳しい言葉を投げかけたりしていると、唐突にフロアの照明が明るくなった。
「マズい。手入れだ」
小さく叫んでマイクは立ち上がる。
「何?警察?」
秀明は何が起こったか分からないらしい。
「そうだ。入り口でチャックが時間を稼いでる」
マイクはDJブースに走り込んだ。レコードの詰まった段ボール箱を抱え込む。
「マイクさん。こっち。早く!」
裏口でマサが手招きをしたのと、フロアの入り口に警察が雪崩れ込んだのは同時の出来事だった。
ギリギリでフロアの曲がロックに切り替わった。マイクの後を継いだDJのファインプレーだ。こういう時のため、彼らはダミーのハードディスクを用意して、すぐにディスクを繋ぎ替える。違法な音楽を流した証拠を残さない工夫だ。
抱えた段ボールの重みに腰が痛くなってきた。這うようにして従業員控室の横を通り抜け、ようやく店の裏口に到達する。幸いにもこちらに警察はいないようだ。
薄く開けたドアから外を覗いてマイクは安堵した。
そこには軽自動車に乗った秀明が待ち構えていた。




