チャプター10 再現VTR 人志と秀明
「人志ってそんなに足速かった?」
麗らかな五月のある日、中学二年生になったばかりの秀明と坂本人志は、二人並んで下校していた。
「何でだろうね?最近背が伸びたからかな?」
人志は中学に入り、急に身長が伸びていた。ズボンの裾が足りなくて少しかっこ悪い。その上、人志の通う学校は学ランを採用している。黒い肌でピチピチの学ランを着て、裾が足りないズボンを穿いて・・・鏡を見て嫌になる。
人志は丈の足りないズボンを気にしているが、急激な成長ばかりが原因ではない。明らかに体系が日本人のそれとは違っているからだ。足の長さは周囲の同級生とは比べ物にならない。顔も小さい。
容姿に関して、人志にとってはコンプレックスでしかないが、昔を知る人ならばジャクソン・ファイブ時代のマイケル・ジャクソンにそっくりと評すほど、かわいらしい顔立ちをしている。恐らく六本木辺りではモテモテだろうが、本人がそれを自覚する事は無かった。
翌週には体育祭が控えている。体育の授業で100メートル走のタイム測定をした結果、人志はクラスでトップを叩き出し、リレーの選手に指名されていた。
人志の運動神経は悪くは無い。それでも秀明ほどではない。人志がクラスで一番速かったのは、スタートからフィニッシュに至るまでの姿勢、腕の振り方等、速く走る方法を自分で考えて実践した結果だ。
誰もが人志のタイムを人種や体型のなせる業と思うかもしれないが、そうではなかった。合理的に考え、試し、修正していく。
そうした積み重ねと影の努力が人志のすごいところだが、謙虚な性格からか本人が周囲に語る事は無い。
「俺が一番だと思ってたんだけどな~。悔しいぜ」
特に競い合っている訳でもないが、秀明は勝負に負けると面白いぐらいに悔しがる。じゃんけんに負けただけでもひどく悔しがるし、先日は対戦ゲームで負けてゲーム機を叩き割った。
悔しがってはみるもののその言葉に他意は無く、人志の努力を薄々感じ取っている秀明だった
「体育祭、人志の母ちゃんは来るの?」
「来ないと思うよ」
「そっか。じゃあ、体育祭の日の昼飯は一緒に食おうぜ!」
「うん。いいよ」
体育祭の時の昼食が人志は嫌いだった。弁当を囲んでの家族団らんになるのだが、小学校の頃から運動会では一人で食べた記憶しかない。だから、体育祭の昼食を秀明に誘われて、人志は内心とても喜んでいた。
「なんかリクエストある?親父に伝えておくよ」
「そんなぁ。おじさんに悪いよ」
「そんなの気にすんなよ。ストレートに注文された方が、悩まなくていいって親父も言ってたよ」
「そうなんだ!じゃあ・・・唐揚げ。おじさんが作るのおいしいもんねぇ」
「唐揚げか!いいね!伝えておくよ」
「ありがとう!おじさんによろしく」
「じゃあな。また明日!」
人志と秀明は同じ公営団地の別の棟に住んでいる。短く別れの挨拶を交わし、二人は団地の階段を上っていった。
◇◇◇◇◇
体育祭の当日は晴天に恵まれた。運動するには最高のコンディションだ。プログラムは順調に消化して、午前中最後の種目であるリレー競走が始まろうとしている。
「人志~!リレーの選手なんだって?頑張れよ!」
秀明の父である明雄が人志に声をかけてきた。手には発泡スチロールの箱を三段に重ねて抱えている。
「これ終わったら昼飯だろ?いっぱい作ったからたくさん食べろよ!」
「はい!頑張ります!」明雄は満面の笑顔で送り出してくれた。
八つのチームで競い合うリレーはとても盛り上がった。人志はアンカーのひとつ前の走者だったが、人志がバトンを受けた時点で順位は六位だった。人志は快足を飛ばし、次々に走者を抜いていく。
人志が走っている際に、会場の一部がざわついた。さらに、視界の隅を高速の何かが横切ったような気がしたが、集中していたために気に留める事は無かった。人志は四人をごぼう抜きにして、バトンをアンカーに渡した。
結局順位は変わらず、チームは惜しくも二位だったが、誰の目から見ても功労者は人志だった。
リレーが終わり昼食休憩になった。人志は秀明を探したが見当たらない。
そうこうするうちに、明雄が人志を見つけて手招きをしている。会場の一角に特大のブルーシートをいくつも広げ、ものすごい量の食事が並べられていた。
「おじさん。シュウちゃん見かけませんでした?」
「シュウはあっちに連れてかれてるよ」
明雄は校舎を指さして苦笑している。何があったのだろう。
「人志はここで待ってな。そのうち帰ってくるだろう」
そう言い残して、明雄もその場を離れていった。手持ち無沙汰の人志は、明雄を目で追う。
明雄は他の生徒と何やら会話をしている。一言二言話しては、次々と生徒に声をかけている。すると、声をかけられた生徒の何人かが、人志のいるブルーシートに集まってきた。
「お前も誘われたの?」
明雄に声をかけられた生徒が人志に聞いてきた。
「ん?なんの事?」
「あの人、今井のお父さんだろ?昼飯一緒に食べようって誘われたぜ」
明雄はそうして次々に生徒を連れて来た。学年も性別もお構いなしだ。どうやら、人志と同じく家族が来場していない生徒に一人ずつ声をかけ、昼食に誘っているらしい。
先ほど明雄が抱えていた発泡スチロールは、全体の一部だったようだ。集まった生徒は二十人もいたが、それでも食べきれないほどの量がブルーシートに広げられた。
声をかけられた生徒達が持っているのは、コンビニ弁当や出来合いの総菜パンだ。明雄の手料理に勝る訳がない。
「よーし。こんなもんだろ。待たせてごめんな。みんなお腹空いてるだろう?残してももったいないからどんどん食べてくれ」
明雄の持って来てくれた弁当は、どれも暖かかった。人志がリクエストした唐揚げも十分な量がある。これだけの料理を暖かいまま持って来たのだ。先ほどリレーの前に料理を運んでいたので、きっと直前まで作っていたのだろう。材料費や手間も大変だったろうが、秀明が出た種目を見逃しているに違いない。
秀明の分だけの料理だったら、時間は十分にあっただろう。明雄らしいやり方だ。
品目数も多かったが、特にタコライスが人気だった。育ちざかりの生徒達にとって、腹もちのいい炭水化物はありがたい。
「シュウちゃんどうしたんですか?」
人志はもう一度明雄に聞いてみた。
「そういえば忘れてた。連れてくるよ」
明雄は少しだけ人志の質問をはぐらかして、校舎の方に走っていった。
「お前、聞いてなかった?」顔見知りの生徒が人志に聞いてきた。
「シュウちゃんの事?」
「そう。あいつ、お前がリレーで走ってる間に、どっかのオヤジをぶん殴ったんだぜ」
秀明が暴挙に及んだ顛末はこうだ。人志がリレーで四人をごぼう抜きにしたその時、客席から心無いヤジが飛んだ。
「ズルいぞ!黒人なんて速くて当たり前じゃないか!でしゃばんな!ここは日本の学校なんだよ!」
それをたまたま聞いていた秀明がキレた。ヤジを発した中年男性に脱兎のごとく突進すると、走る勢いもそのままに、渾身の右ストレートを下卑た笑みの浮かぶ顔面に叩き込んだのだ。
それを見ていたギャラリー達は、リレー選手の誰よりも秀明が速かったと口を揃えて語った。
余りにも鮮やかなストレートだったことから、人志達の中学では後に伝説となるのだが、この時は誰も知る由もない。
明雄に連れられて秀明が帰って来た。教師達にさんざん説教されて戻ってきたが、それでも全く悪びれる様子が無かった。
「よう!今井!かっこよかったぜ!」やんちゃそうな男子生徒が秀明を持ち上げた。
「おかえり秀明君!あれはやりすぎぃ」
女子生徒達は殴った行為はダメとしつつも、秀明を咎めなかった。
明雄も一応は秀明に苦言を呈したものの、心無いヤジを飛ばした男性に対して秀明と同じような気持ちを抱いているようだった。
体育祭というハレの日に、縁者が来れない生徒達。それぞれに事情があるのだろう。学校という中でマイノリティである事は辛い。彼らは誰も異端である秀明を責めず、むしろヒーローとして扱った。
そんな秀明が、自分のために怒ってくれた。人志にはとても誇らしく思えた。
◇◇◇◇◇
たった五年前なのに、遠い昔のように思える。独りの部屋で音楽を聴きながら、感傷に浸ってしまった。
人志は傍らに置いたスマートフォンの通知ランプが光っているのに気が付いた。
『今から行ってもいい?』
『いいけど、今は母ちゃんがいる』人志は慣れた手つきで返信する。
『了解。3時過ぎでOK?』秀明からのレスもすぐに来た。
『いいよ』手短に返すとスマホをベッドに投げ、人志は再び音楽の世界に入り込んだ。
◇◇◇◇◇
「で、面接の担当者が会ったその日におごってくれたの?すげぇいい人だね?」
秀明から語られたエピソードを聞き終え、人志は感想を伝えた。
「そうそう。マジでいい人。なんか、人生の教訓的なのも聞かせてくれた」
人見知りの傾向がある人志に比べて、秀明は社交的だ。だからこそ、ひきこもりがちな自分とも、こうして付き合ってくれているのだろう。
「でも、採用はダメだったんだよね?この後どうするの?」
せめて、秀明にはまともな道を歩んでほしいと、人志は日頃から願っている。
「ノープラン」秀明はどこか投げやりな調子でスマホをいじっている。
「なるべく早く見つけなきゃね、仕事」
秀明の懐事情はよく知っている。こういう時に、やんわりと諭すのが人志の役割だ。
「何とかなるっしょ」
少々悪ぶって秀明が応じた。見通しが甘くない時には、いつもこうして強がる。
「それよりさ、今晩ザイオンいかねぇ?」
「お金ないよ」
人志の手持ちといえば、母が出勤前に残していく夕飯代だけだ。
「今日は通常営業だから、入場料は取られないよ。ソフトドリンクだったら、マイクさんがタダにしてく
れるし」
マイクは人志にとって憧れだ。人志と同じく黒人の父を持つハーフでありながら、老舗のクラブの店長まで務めている。
「じゃあ行こうか。車で行くならシュウちゃんもお酒飲まずに安心だしね」人志は提案を受け入れることにした。
秀明は人志を事あるごとに外に連れ出そうとする。人志が引きこもってからずっとだ。ただし、秀明が説教めいたことを口にしたことは一度も無い。
秀明の優しさには気づいていながら、何もできない自分がもどかしかった。
◇◇◇◇◇
日が落ちるとともに、空から弱い雨が降り始めてきた。人志はホンダアクティバンの狭い助手席に乗り込んだ。元々は秀明の父の車で、今は息子の自宅だ。
「シュウちゃん、寝る時ってどうしてるの?」
アクティは四人乗りだが、内部を見渡しても人が寝られるようなスペースは無い。
「二列目が折りたためるようになってるだろ?それを倒して、布団を敷いて寝てる」
車内の貨物スペースを見ると、確かに布団が積まれていた。
「朝はもろに直射日光だよね?」窓ガラスは遮光されていない。
「最近日焼けしてきた。しかも、かなり変な目で見られるぞ。この前、寝起きに知らないオッサンが俺のこと覗き込んでて、目が合った時はメッチャ気まずかった」
「プライバシー皆無だね!僕には絶対無理!やっぱシュウちゃんはたくましいね~」
「お!プレジデントだ」
この友人はデカくてゴツイものにすぐに興味を惹かれる。
秀明の言うとおり、ザイオンの近くにある駐車スペースに、日産プレジデントが停まっていた。駐車禁止ではない区域なので、ザイオンに来る客は大抵この辺りに駐車する。
「珍しいね」
人志はどんな客が来ているのか想像を巡らせた。背伸びして中古の高級車に乗る輩もいるが、このプレジデントは見るからに新車だった。一千万円はする車を買える層は限られている。
「くぅぅぅ!俺もプレジデント乗りてぇ~~!」
秀明は無邪気に羨ましがっている。単にデカいからだろう。
「いっとく?」
耳を塞ぐような動作をして、秀明が目配せを送ってきた。『音楽を聴くか?』という合図だ。
「うん。聴く」
一組のイヤホンを左右に分けて。二人でジェイジーとカニエ・ウエストの『Niggas In Paris』を聞いた。聞いた事の無い曲だったが、テンションが上がった。
「効くねぇ」ぼんやりとした表情を浮かべ、人志は独りごちた。
「効くなぁ」同じような表情で、秀明が同調する。
「ていうか、シュウちゃん!金無いんじゃないの?どこで手に入れたのよ?」
人志は持っていない曲だった。ということは、闇ルートで手に入れた曲の筈だ。
「この前知り合った奴にもらった。やたらと陽気なアメリカ人」
また秀明はリスキーな交友関係を築いているようだ。ちゃっかりとその恩恵に与りながらも、人志は心の中の『シュウちゃん更生リスト』の1ページに追記した。
「そういえば、この前ザイオンに行ったとき、エントランスでボディチェック受けたよ」
プレイヤーをダッシュボードに隠しながら、秀明が報告してきた。
「チャックって奴なんだけど、これがまた、強そうなの強くなさそうなのって」
「強そうだったんでしょ?」
人志は被せ気味にツッコミを入れた。
「強くなかったら仕事にならないよ」
こうした些細なやり取りが、人志にとってかけがえのない時間だ。
「つうかさ、なんで俺と人志ってこんなに仲良くなったんだっけ?」
自然なノリで秀明が問いかけてきた。
「僕って中一の頃から学校行かなくなったよね。その時シュウちゃんが、プリント届けてくれてからだよ」
秀明がホームレスになる前は、人志と同じ団地に暮らしていた。同じクラスだったこともあり、担任の教師が秀明に手渡すよう命じたのだ。
「それは憶えてるけどさ、そうじゃなくて・・・プリント届けるのと、ここまで仲良くなるまでには、結構ステップがあるだろ?」
その通りだ。人志は秀明が何を言いたいのかを察した。
「中二の体育祭とか?」
「ああ。あれね。あの時はすっげー怒られた」
「他にはね・・・僕ってさ、見た目は黒人でしょ?」
深く倒した座席に体をあずけ、秀明は黙って前を向いている。
「だから、子供同士では仲良くなっても、その親が許さないんだ『あの子とは遊んじゃダメ』って」
「くっだらねぇ」
汚物を吐き出すように秀明は悪態をついた。
「シュウちゃんは絶対そんなふうに僕のこと見ないでしょ」
秀明と父の明雄はいつも温かかった。
「僕が軽い反抗期だった時も・・・・・・」
人志が高校進学をしないと言い出したとき、母親が猛烈に反対した。一ヶ月ほど母親と口を利かなかった時期がある。
「シュウちゃんは『人志が自分で決めたんなら、それでいいんじゃね』って言ってくれた」
人志の胸の奥で、恥ずかしい痛みが微かに疼く。
「逆に、シュウちゃんのお父さんはすごい叱ってくれて『将来はお前がおふくろさんの面倒を見るんだぞ、しっかりしないでどうするんだ』って」
人志が母親以外の大人に叱られたのは、後にも先にもこの時だけだ。
「ああいうのってなんか・・・心に響く」
結局、人志は高校には進学しなかった。中三の初めに心無い同級生からの虐めに遭い、人志は心身を壊してしまった。
「あの時、シュウちゃんもお父さんも、僕の味方してくれたでしょ?」
揃って怒る父子の顔を思い出した。
「あったね~そんな事。今でもムカつくわ」
秀明は忘れてしまっていたようだ。人志にとってはかけがえのない一場面でも、秀明にとっては多くの理不尽の中の一つなのだろうか。
「何があったって、人志は人志だろ。お前が『いい奴』だから、おれは付き合う。それだけ」
秀明が言う『いい奴』には、特別なニュアンスが含まれている。この事に気付いているのは、世界中で自分だけ。人志はそれがとても大切な事のように思えた。
「いきますか」
「いきますか」
二人は同時に呟いた。会話がハモると、なぜか人志の心が温まる。
「ボディチェック」
エントランスに立ちふさがる大男に全身を触られた。秀明が言っていたチャックで間違いない。想像以上の巨漢だ。
「オーケイ」
チャックが背後の扉を親指で示し、入店を促した。
「な!すげぇだろ?」
「確かに大きいけど、いい加減シュウちゃんしつこい。そこまでこだわる人はシュウちゃんだけだよ」
人志は『シュウちゃん更生リスト』に記載されている項目に従って注意した。
「もしかしてあいつ『ボディチェック』と『オーケイ』だけプログラムされてるNPCなんじゃね?」
NPCとは、ノン・プレイヤー・キャラクターを略したゲーム用語だ。何度話しかけても「ここは○○の村です」などと、決まったセリフを言い続けるあれだ。
「ボディチェック、オーケイ、ボディチェック、オーケイ」
身振りも交えながら、秀明はチャックの物まねに興じている。人志の苦言を意に介す様子もない。
「マイクさん。お疲れっす!」
秀明はバーカウンターから身を乗り出して、マイクに挨拶した。
「おお。シュウ。今日は相棒も一緒か」
マイクの表情はいつも優しい。
「ごめん。マイクさん。今日は金無いんだ。サービスでお願いできない?」
秀明は天性の愛嬌でマイクにねだっている。
「今日”も”金がないの間違いだろう。出世払いだぞ」
マイクがウインクした。こうした動作が自然にできるのがすごい。
「すんませ~ん」
「すんませ~ん」
またハモった。今日はシンクロ率が高い。
マイクからウーロン茶を受け取ると、人志はDJブースに吸い寄せられた。純粋に音楽が好きな人志だが、どのようにして楽曲が再生されているのか、機材も含めて興味がある。
「興味津々って感じだな」
背後からマイクが人志に声をかける。
「はい。ずっと見てても飽きないです」
DJはリンゴのロゴが入ったノートPCを操っている。その画面を横から覗き込むと、左右に二分割された表示が目まぐるしく動いていた。
「俺はデジタルの事は分からないけど、アナログでやっても基本は同じだよ。曲が繋がる時にピッチが変わらないように気を付けるんだ。ピッチが変わると踊ってるお客さんのノリが壊れるからね」
マイクからこうして話を聞けるだけでも嬉しい。
「人間が一番盛り上がるピッチっていうのがある。BPM・・・一分間に何回ビートを刻むかっていう数字があるんだけど、人志は何回だと思う?」
「100回くらいですか?」
外れてもいいという思いで、マイクのクイズに即答した。
「もう少し早い。120台の後半くらいがいいらしい」
「すげ~!何でマイクさんはそんな事まで知ってるんですか!?」
「なんだ。早速ネタバレか。実はこの前観た映画でやってたんだ」
子供みたいにマイクは笑っている。
「BPMって、あそこに書いてある数字ですか?」
人志はノートPCを指差して聞いてみた。今は123と表示されている。
「悪りぃ。最近目が悪くて、ここからじゃ見えない」
おどけて見せる仕草の一つ一つがセクシーなマイクだった。
「BPM合わせて繋ぐのって、レコードではどうやるんですか?」
アナログレコードでは、もちろんパソコンの画面表示など無い。
「感覚でやるしかないな。片方の耳でフロアの曲を聞いて、もう片方でヘッドフォンの音を聞く」
「それって難しくないですか?」
右手で三角を書いて、左手で四角を書くのに似ている。やってみたが全然ダメだった経験を思い出した。
「まぁ慣れだな。四〇年もやってれば、誰でもできるようになる」
「やっぱりマイクさんはすごいっす。何でも知ってるし、説明も超分かり易い」
技術だけでなく、頭も良くなければ一流にはなれない。
「おだてたってウーロン茶くらいしか出ないぞ」
お世辞ではない。マイクは人志の理想だ。
「ウーロン茶飲んだらトイレに行きたくなっちゃいました。ちょっと行ってきます」
人志は急ぎ足でバーカウンター横のトイレに向かった。
人志がトイレで用を足していると、突然後ろから声をかけられた。
「よう、お前だろ。うちのシマで悪さしてるのは」
ドスを利かせて凄まれているが、声に心当たりが無い。
「はい?何のことですか?」
人志は訳が分からない。
「すっとぼけんな!こっちにはバレてんだよ!」
振り返ると、見るからにヤバそうなスーツ姿の男に、すごい形相で睨まれている。胸元を大きく開けたシャツからは、和彫りの刺青が見えている。100%本職のヤクザだ。
ジッパーを上げながら人志が振り返った瞬間、肝臓の辺りにショートアッパーを叩き込まれた。一瞬のうちに呼吸ができなくなり、くの字になった人志がひざまずく。
「てめぇがサバいてるプレイヤーの事を聞いてんだよ!バックれてんじゃねえぞ!」
襟首を掴んで持ち上げられ、人志は強制的に立たされた。
「ほ、本当に知りません・・・勘弁してください」
人志は気力を振り絞り懇願した。
まだうまく呼吸ができないが、誤解を解かなければ更なる一撃が見舞われてしまう。
「日本語を話す黒人つったらお前だろうが!?」
ヤクザの拳が容赦なく人志の顔面にめり込んだ。
「はんべんひてください」
口の端から血を流して情けを請うが、ヤクザは一歩も引く素振りを見せなかった。
「何やってんだ!!」
トイレの入り口にできた人だかりを掻き分けて、マイクが駆けつけた。その背後には秀明の姿も見える。
「人志!大丈夫か!?」
秀明が叫んでいる。
「増田さん、やめてください」
マイクが増田と呼ばれたヤクザから人志を引き剥がす。
「どういうことなんですか!?」
マイクは素早く増田と人志の間に体を入れて問い質した。
後ろの秀明が傷ついた人志を抱きかかえる。
「マイクさん、余計なことは止めてもらえますか?」
人ごみの中から、上等なスーツを着た小柄な男が近づいてきた。
「谷田部・・・さん」
マイクの声に緊張が走る。
「うちのシマで悪さをしている人がいるらしくてね。どうもその子と特徴が一致するんですよ」
「本当なのか?」
マイクは人志と秀明に視線を向けた。
「それは絶対にない。元々こいつは引きこもりで、外に出るときはいつも俺と一緒だ」
人志に代わって秀明が答えた。
「こいつが言っているのは本当の事です。これは人違いです」
マイクが断言する。
「よぉマイク・・・違うかどうかは俺が決めんだよ!」
矢田部の口調が突然変わった。
「それともなにか?お前はうちの増田が吹いてるって言うのか?」
矢田部の言葉を受け、増田がマイクを睨み付けた。
「いえ・・・」
「お前なのか?え?ちゃんと答えろ!」
矢田部は弱った人志を殴りつけ、髪をつかんで顔を上げさせた。
「・・・僕じゃありまへん・・・」
人志の声はほとんど聞き取れなかった。
「お前、顔だけ出して土に埋まったことあるか?」
唐突過ぎて、矢田部が何を言いたいのか分からない。
「あ、ありまへん」
「飯だけ食えるように、顔だけ出すんだ。クソもションベンも垂れ流し。これを三日もやるとな、誰も隠し事なんて出来なくなる。タレ込む気も無くなるな。なんならこれから一緒に山に登るか?この季節だ、顔中を蚊に刺されるぞ~」
「マジで勘弁してください!」
マイクが叫んだ。これ以上は我慢しないという、覚悟を含んでいる。
「・・・そうですか。すみませんね。人違いだったかな?」
口調は改まっているが、谷田部は薄ら笑いを浮かべていた。
「ったく。黒人なんてどいつも同じに見えるっつうの」
矢田部に合わせるように、増田も臨戦態勢を解除した。
顔をうつむけたマイクは奥歯を噛みしめていた。
「こっちも何か分かったらご報告しますんで、今日のところは勘弁してやってください」
マイクが丁重に頭を下げる。
「はいはい。じゃあ、その時はお願いしますね」
興味がなさそうに言い残すと、もう谷田部は立ち去るところだった。
大勢いたギャラリーは、蜘蛛の子を散らすように消えていた。
秀明に肩を借りて、人志はアクティまで這うようにして歩いた。マイクも心配そうな顔で追って来た。
急に強くなった雨が、追い打ちをかけるように三人を濡らす。
人志が顔を拭うと手が真っ赤に染まった。血だらけだ。布団を敷いた車内に人志は寝かされた。
「なんなんだよ!あいつら!」
強烈な怒気を含んだ声で、秀明がマイクに詰め寄った。
「小さい男はうちの店のオーナーの息子だ。親父はヤクザの組長。増田はただのチンピラだ」
マイクが近隣で有名な組の名前を出した。
「ぶっ殺してやる!」
秀明が工具箱からバールを取り出す。今にも飛び出していく勢いだ。
「やめろ!そんなもんもって行ったら、取り上げて返り討ちにあうだけだ。こんなもんじゃすまないぞ」
傷ついた人志を目で示してマイクが秀明を止める。
「相手はヤクザ者だ。一人に仕返ししたところで絶対に報復される。人志だって無事じゃ済まない。人志のおふくろさんだって追い込まれるかもしれない」
マイクはそんな場面を幾度となく目にしてきたという。
マイクに詰め寄っても仕方がないと分かっていたが、秀明は叫ばずにはいられなかった。
「じゃあどうすればいいんだよ・・・俺らはやられっぱなしかよ!」
「我慢しろ」
「いつまでだよ!?死ぬまでかよ!?」
「・・・・・・」
「ガキの頃から我慢ばっかりじゃねぇか!」
「生きてりゃ、いつか良いことだってある」
「いつだよ?いつんなったら・・・俺たちは・・・何しに生まれて来たんだよ・・・」
その後も諦めきれない様子の秀明が何事かを呟いていた。
次第に強くなる雨音に、嘆きの声はかき消された。




