9話
『…な、かな、起きなさい』
どこか懐かしい優しい声がする。
私はお母さんに抱かれているような、絶対的な安心感を感じながら目を開けた。
「…ん〜?」
だけど目の前に広がるのは肌色一色で、どういうことだろうと首をかしげる。
起き上がろうと思って頭を動かすと、んんっと小さな声が頭上から聞こえてきた。
「ふふ、くすぐったいわよ香菜」
「せんぱい…?」
よいしょと身体を起こすと、部長と目があった。
「貴女私の胸を枕に寝てたのよ」
そう言って呆れたように笑う部長。
その言葉に視線を下げると、豊満な2つの膨らみが目の前にあった。
「えっ、え!?ごごごめんなさい!」
道理で寝心地がいいと思った。
こんなマシュマロみたいな心地よい弾力の枕があったら誰でも熟睡しちゃうと思う。
というか部長のお胸を枕にするとかどれだけ恐れ多いことをしてしまったんだろう。
「赤ちゃんみたいで可愛かったから良いわよ。香菜の寝顔って母性本能がくすぐられるのよね」
「どういう意味ですかそれ…」
項垂れていると、不意に頭を撫でられた。
「昨日はごめんなさい。香菜にあんなことさせちゃって」
「…いえ」
申し訳なさそうに謝る部長はシーツを身体に纏っているだけで服は着ていない。緩いウェーブがかかった髪も今は乱れて一種の色っぽさを醸し出している。
その様子が昨日のことをよく物語っていた。
「貴女のことあの人の代用品にしたのよ」
「…杏奈さん、ですか?」
私の言葉に先輩は自嘲気味に微笑んで頷いた。
「私の恋人…だった人」
そこから先輩はポツリポツリと杏奈さんについて語り始めた。
部長より1つ年上だということ。
大学の先輩だったこと。
中性的な顔立ちをしていて女の子にモテたこと。
ぶっきらぼうだけど優しいところ。
好意的な情報が多ければ多いほど、私は杏奈さんが好きになれなかった。
だっていくら良い人だろうが、結局彼女は部長を捨てたんだから。
「…こんな語ったところで戻ってくるわけでもないのにね」
未練がましい女だわ、私。
部長は思考を断ち切るように頭を振って顔を上げた。
ばっちりと目が合う。
その瞳は昨夜の弱々しいものではなく、どこか吹っ切れたものだった。
「香菜に慰めてもらったおかげで楽になったわ。ありがとう」
そして部長は私の顔に手を伸ばして優しく頬を撫でる。
その手に甘えていると、部長が私の胸元を見て急に戸惑った声を上げた。
ちなみに現在私は上下ともに下着のみである。
「これ…私が付けたやつかしら?」
そう言って部長は手を下ろし、鎖骨より少し下の部分に指を這わせた。
私も視線を下げて部長の人差し指が指す箇所に注目すると、なにやら虫刺されのような赤い跡がぽつりと付いている。
なんだこれ?と悩んだのは数秒だった。
原因がわかった直後、かあっと顔が熱くなる。
「…もしかして」
私のそんな反応を見ていた部長がハッとして口に手をやる。
「香菜、恋人いたの?だとしたら私本当に失礼なことしちゃったわ…」
「ち、違います恋人とかじゃないんです!!」
「じゃあ何よそれ」
「っ、これは…その…」
「…純情そうな見た目に反して意外とやってるのね貴女…」
「いやだから違くないけど!違うんです…!」
なにやら誤解をされてしまったらしい。
まあ大方事実なのだから変に言い訳ができないのが辛い。
気づいたら重苦しい空気はいつのまにかどこかへ行っていた。
部長はいつものように意地悪げな笑みを浮かべて私を見つめる。
ちなみに今日の出社は遅刻ギリギリだった。