勅使河原蔦子の嘘
私、勅使河原蔦子は、彼氏にいくつかの嘘をついている。
その1つが、赤ちゃんができてしまうから、ゴムをつけて欲しいという台詞だ。
これは嘘である。どちらでも良いのだ。
というのも、私は妊娠しない。だから、つけてくれたら気遣いを感じるし、くれなかったらなかったで、
情熱や、被虐的な悦びを感じることができる。
だから、この嘘は私のつく数ある嘘のうちでも、とても便利な嘘と言えるだろう。
ちなみに不妊の理由は、私が組織で言う、デザインドだからである。
デザインドとは、遺伝子を設計された子供、という意味だ。組織の科学力は世界一というか、常に50年は先に進んでいるので、私のような者も生み出されたりする。
そういう訳で、私には子を宿す能力も、生物学上の父母と言える存在もない。あるのは女子力と、愛する彼氏だけだ。しかし、それで十分とも思っている。
しかしこういう思考には、若さが足りないかもしれない。つまり、若者とは無謀で貪欲であるべきなのだ。
……と、私は目の前の若者を眺めながら思った。にきびの跡が散らばった頬。せり出した顎にうっすらと生えた髭。背は私が見上げるくらい。鬼気を宿す瞳が、水のように光っている。正面に両手で構えるのはバッド。
中々微笑ましい佇まいだ。陽は暮れて、建物たちは色彩を喪って久しく、黒い輪郭だけが際だって、若者の背景となっている。
ここは寂れた裏通りだけれど、いつもの分岐ではない。大声で叫んで、大通りに出れば済む話だ。
毎回毎回ど派手なアクションをするほど、私は暇でもない。しかも相手は素人である。
バッドの握りは固すぎる。身体も。
私はため息をついて、とりあえず大声で叫ぼうとした。
「在昌誠一を覚えているか」
ああ。あの男か。……妙に納得した私は、バッドを構え続ける若者の前までスタスタと歩く。
バッドを取り上げ、後ろに捨てる。それから、
「うん、覚えてる」
と言って、彼の鳩尾を軽くつついた。
若者はくぐもった声を漏らし、目を虚ろにして崩れかける。
すかさず私は、彼の右脇に左腕を挟み込み、右手で右腕もとって、肩で支える形を取った。
それから、さて、どうしよう、と考えあぐねる。
在昌誠一は、私が組織にいた頃に関わった人間だ。小柄な男だった。
彼は製薬会社の研究員だった。
この会社は組織とも取引があった。
ヒト遺伝子組み換え児、デザインドに関わる酵素を、組織はここから仕入れていた。
こういう事を書くと、中々感慨深いが、私と関わった理由はもっと違うことだ。
平たく言うと、彼の息子、慎太郎がやらかした事の尻ぬぐいとして、組織に出頭してきたのである。
慎太郎は、思春期特有の病でも煩わせたのか、または、逞しすぎる体躯を持て余したのか、
家庭内暴力に走っていた。高校も2年で中退し、夜はコンビニの前で、悪友とたむろする。
素人同士の喧嘩も強かったため、ちょっとしたチームを作るに至った。
ここまでは、微笑ましい。彼は愚連隊を組んで、会社員、浮浪者、ゲームオタクなどを襲っていた。
仲間で囲み、打ちのめし、文字通り身ぐるみをはがし裸にして、金品を巻き上げる。
舎弟の車のトランクに閉じ込めて、所持品ごとダムに落とす。
浮浪者は無一文でも、反応が楽しいので、特にたくさん落とした。
彼らはこの所業を、滝バンジーと読んでいた。
まあ、悪童の遊びとしては微笑ましい類いだ。
ただ、問題はである。滝バンジーのために襲った相手が悪かった。
彼は浮浪者で、日本に潜伏する外国籍の科学者であり、かつ、次世代デザインドに関わる技術資料の保持者だった。そこまでひ弱でもないはずだが、素人である。体格の良い悪童たちに囲まれたら、勝てない。しかも運が悪いことに、彼はカナヅチだった。
慎一郎たちはいつも通り、暴行し、ダムに落としたが、浮上して来なかった。
これもたまにあることである。浮浪者がダムに沈んだところで、誰も困らないというのが、彼らの認識だった。
被害を受けたのは、組織である。追っていた科学者が消えてしまった。次世代技術は手に入らない。
色々な投資が水の泡だ。そして、被害を受けたら報復するのが、組織なのだ。
いや、報復とも言わない。組織は無駄はしない。損失が出たら補填する。それだけの話だ。
慎一郎の仲間たちは、次々と行方不明になった。それは家族ごと、である。
この家族達を順々に『回収』していたのは、当時の私だった。
家族たちは回収先で、別々にされ、さらに個人個人が、臓器として細かく分けられて、売られる。
さて、在昌家の作業に取り掛かろうとした時、在昌誠一から連絡があった。製薬会社経由である。
どこかから、嗅ぎつけたのだ。
とりあえず、私は彼に会って、話を聴くことにした。
待ち合わせ場所は新宿御苑で、雨上がりの午後だった。
「こんにちは。勅使河原蔦子さんですか?」
目が泳いでいるわりに、声はしっかりしていた。
私は微笑んで、提案する。
「はい。歩きませんか」
彼は同意し、私たちは御苑を歩くこととなった。
彼は息子がしでかした事を、しきりに謝った。その度に立ち止まり、その面持ちは
真摯だったので、私は苦笑する。
「いくら謝られても、あなた方を『回収』するのは変わりません。組織は損得だけで動きます。感情ではありません。ああ、在昌さんの会社、使ったらいかがですか? コア技術を流出させて
命乞いすれば、受け入れられるかもしれません。損得として成り立つかも」
この言葉は、私の善意だったが、彼を酷く傷つけたらしい。在昌は俯く。
「会社に迷惑はかけられません」
その声は重かった。それから、複数の生命保険に入っているから、それで支払えないか、と言われたので、私は首を傾げた。
「死ぬのですか?」
「はい。子供を守るのが、親の務めです」
「……もっと前に、果たしておけば良かったですね」
意味は伝わったはずだ。教育。私たちの組織の、回収先になるような愚行、これは在昌誠一が、教育を怠ってきた結果だ。
在昌は、木々の葉むらに覆われた雨上がりの空を見上げた。
葉先から、雨粒がいくつか落ちてくる。
「私は、あれに、嘘をついてきたんですよ」
「嘘、ですか」
「はい。私はあれの、本当の親ではないのです」
「連れ子、ということですか?」
「もっと複雑な事情です」
在昌誠一は、自嘲気味に笑って、続けた。
「だから、負い目があったんです。ちゃんと怒ってあげるには、負い目が重すぎた」
私は首を傾げる。
「偽の息子のために、命を捨てるんですか?」
「貴女みたいな、可愛らしいお嬢さんには、分かりませんよ」
在昌の静かな物言いに、私は立腹した。
手を掴み、人目の届きにくい木陰まで引っ張っていき、樹の肌に叩きつける。
勢い、葉に溜まっていた雨水がスコールになり、私たちはびしょ濡れになった。
が、構わず、持参していた傘の先を、在昌の耳たぶ1mm下に突き立てる。
傘の先っぽの金属は、すっぽり幹にめり込んだ。
私は薄く笑って、命令する。
「説明しろ。私でも分かるように」
「……子を想う気持ちは、血筋で、は、ありません。共に過ごしてきた時間。目をかけた日々。血筋ではない。家族として、すごした時間が、家族にするんだ。私と慎一郎は、家族、だ……!」
噛み噛みな言葉だった。最後は呻くようだった。
が、だからだろうか。それは真実だったと思う。
私は幹から傘を抜き、その先を撫でながら、言った。
「順番というのは皮肉だな。お前がもう少し早く、『きづいて』いれば、こうはならなかったろうに」
在昌は複雑な面持ちをした。
私は彼の提案に同意した。
生命保険金と引き換えに、彼の馬鹿息子と妻は、見逃すのである。
その晩、彼は私と銀座の寿司屋で晩餐をした。
「最後の食事が銀座なんかでいいんですか? 奥さんの手料理、とかじゃなくて」
この質問に、彼は沈黙をもって答える。その口元は震えながら、微笑んでいた。
なるほど、怖いのか。当たり前だ。死は怖い。そして、手料理でも食べたら、決意が鈍ってしまうのだろう。
11貫の寿司と純米吟醸が、彼の最後の晩餐だった。
私もご馳走になる。いい人だ。
その後、彼と私は赤坂の高級ホテルに赴く。
彼は首をくくる準備をし、私はベッドの端に腰をかけて、その一部始終を眺めていた。
布を縛る。輪を作る。
それだけの作業に、恐ろしい時間をかける。
見えないランプの魔人が、一々静止しているみたいだ。
しまいには泣き出す。
けれど、わっかから離れようとはしない。
無様だが、これが普通なのだろう。
でも、いい加減飽きがきた私は立ち上がった。
「お寿司のお礼です。幇助して差し上げます」
といって、気絶させ、くぐらせ、宙ぶらりんにさせる。
それから、心肺の停止を鼻孔と頚動脈で確認し、ホテルを後にした。
……在昌慎一郎は気絶させて、小山の林に運むことにした。
ここは人目につきにくい。
私は在昌息子に馬乗りになり、両膝で肩をロックして、頬をぺしぺし叩く。
「起きろ」
「……! てめえは……?」
「私の情報の入手先は大方分かる。だが、幾ら払った? 迷惑だな」
「てめえが、親父を殺したんだろうが!」
在昌息子は、目を大きく開いて、そう言った。
目は血走っている。声はそれほど大きくない。
私は彼の頬を一度張ってから、答えた。
「そうだ。私がやった」
在昌息子は暴れようとしたが、私は馬乗りだし、両膝は完全にロックしている。
身体が大きいだけの素人に、自由を許すほど、私は甘くも弱くもない。
そんな私に制圧されている彼は、今度は大きく叫ぼうとする。
その頬を張る。
そう、張るだけだ。
在昌誠一の息子が、声をあげようとするたびに、私はその頬を張る。
グーは使わない。ぱーだ。
ひたすら、ぱーで張り続ける。
在昌慎太郎の声は、勢いは、どんどんと衰えていく。
ま、これは一種の拷問だ。
しつけとも言う。
彼の育ての父が、多分、したくても出来なかったこと、である。
私がするのもなんだけど、銀座の寿司のお礼である。
勅使河原蔦子は、義理堅いのだ。
「やめ……て…く……れ」
「人様に物を頼む言い方ではないな」
途切れ途切れの声に、やはり私は、頬を張る。
もう、慎太郎の顔はトマトみたいになっている。
だが、私はやめない。
「やめ……て……くださ、……い」
私は微笑んだ。
「うん。ちゃんと言えるじゃないか。敬語は人間関係の基本だぞ」
もう一度、頬を張る。
在昌息子の腫れた瞼、その奥の瞳に、絶望が宿り、私は笑った。
「……お前は本当に弱いな。お前の父は、もっと堂々としていたぞ。死ぬときも、潔かった」
これは嘘だ。
だが、必要な嘘である。
つまり、銀座の寿司のお礼である。
在昌慎一郎は、号泣した。
私は、夜の林で男の泣き顔を見る趣味もないので、
「……今晩中に自首しろ。お前が殺した命たちを、償ってこい」
と言って、気絶させ、立ち上がり、踵を返した。
その時、なんとなく思う。
私は嘘をついている。
命を償うことなど、できないのだ。
罪など主観の問題である。
けれど、良いのだ。
罪も、自責も、心の整理のためにあるのだから。
つまりそれは、良い嘘なのだ。
さらに思う。
わたしはこれから、いくつの嘘を、彼氏につくのだろう。
できれば、幸せで、楽しい嘘をつきたいものだ。