昔話Ⅰ
先生に思いもよらず会えて嬉しかったのに、心は激しい戸惑いの中にあった。
彼は、もしかして母のことを特別に思っているんじゃないか。中学生の頃に、母に対して憧れ以上の感情を持っていても不思議はない。だって、私も先生に惹かれている。今夜先生と母の様子を見て、何か温かいものが通っているように思った。そして嫉妬と不安にかられて、情けなくも自分の部屋に逃げてしまった。
今頃、彼と母は何を話しているんだろう。考えていると涙が出てきた。相手のことを、ほとんど知らないのに恋愛感情を持っているのがそもそも間違いなのだろうか? 先生を好きになって灯った光が弱くなっていく。
ベッドで突っ伏して、声を殺して泣いていた。枕が湿めり鼻水まで出てティッシュペーパーを探そうとしていた時、ノックがあった。母だろう、きっと先生は帰ってしまったんだろうな。
「美夏さん、大丈夫かい。ドアを開けてくれるかな?」
先生だ。いつになく心配そうな声を聞いたら涙と鼻水が余計出てきてしまった。
「駄目です。私ひどい顔をしているから。先生にだけは見られたくない」
私は慌ててそう言った。
「だったら、なおさらあなたの顔が見たいよ。美夏さんのことを僕は心配だし、知りたいんだ」
その言葉が心を惑わせる。
「私が、好きな人の娘だからですか?」
意地悪な言葉が口をついて出た。
「大人をからかう悪い子にはお仕置きが必要だね」
先生はドア越しに皮肉っぽい口調で言った。
「絶対開けませんから」
枕をしっかり抱いて意地になり言い返した。
「美夏さんにプレゼント用意してきたのにな。なんてことだろう、扉も心も開いてくれない。ああ困った」
先生が芝居がかった様子で言う。
「プレゼント?」
警戒心を少しとき聞き返す。狡い私は彼の贈り物にかこつけ、ドアを開けるきっかけにした。この機会を逃したら、また家庭教師と生徒の関係から進展することは難しい気がする。後悔はしたくない。
「わかりました。開けます」
私は涙を拭き、鍵を開けて先生を向かい入れた。
「ありがとう美夏さん。目が腫れてるね、僕のために泣いてくれたの?」
彼は私の頭に手を置いた。
「懐柔しても無駄です」
私は強がった。
「そうか。いつか、あなたには話すことになると思っていたんだ。美春先生の娘だったし」
胸がチクっとしたけれど、私は先生の話に耳を傾けた。先生はいつも真剣に向き合ってくれた。それは事実だったから。
「昔話をしようか。僕は好きなものには関心が持てるんだけど、それ以外のことには興味を持てない子供だったんだ。それは他人に対してもね。そんな風だったから、親しい友だちもいなくて家族とも折り合いが悪かったんだ。ただ淋しさから人の温もりに飢えていた。当時はなんで淋しいかもわからなくて、自宅の庭から見られる星空が心を慰めてくれたんだ。それがきっと今も星を追いかけている、エネルギー源なんだと思う。そんな中、学校で出会ったのが美春先生だったんだ。先生は理科の担当で、僕が無理な質問をしても必ず解答を用意してくれた。その姿に僕は尊敬の念を抱いたんだ。やがて特別に意識するようになった。でも、先生には本当に愛している旦那さんがいた。それも含めて僕はきっと美春先生を好きになったんだと思うよ。実際彼女は素晴らしい教師だった。僕の偏屈とも言える性格を否定せず、他人に興味をもつことも面白いと教えてくれた」
先生と母の関係、私と同じ年頃の先生が孤独を抱えていたことを聞かされて、自分がちっぽけな存在だと実感する。今度は胸にガラスが刺さったみたいに痛かった。
「芳原先生にとって母は憧れだったんですか? 母の紅茶を何処で飲んだんですか?」
私は以前からの疑問を口にした。
「憧れだよ。美春先生はどの生徒にも平等に接していて僕は大勢の生徒の中の一人でしかなかった。それで十分だったんだ。彼女にとってどの生徒も大切だったんだから」
母ならそうしていただろう。誰よりも側にいるからわかる。
「紅茶は、理科準備室でよく飲ませてもらっていたなぁ」
先生は懐かしげに言った。当時の二人の様子が頭に浮かぶ。
いつか母より美味しい紅茶を入れられるようになりたい。負けたくないと思った。




