ハードボイルド一家
新米エージェントのナルシマ・アツシは、ついたての影から現場をうかがっていた。
初の重大任務だった。
このバーで大きな取引があるとの密告情報は間違いなかったようだ。
指令に従い、わざわざ慣れない女装までして、恥を忍んでホステスの姿で張りこんでいたかいがあった。
某国のスパイが、取引相手からダイヤの詰まった革袋を受け取った瞬間を、その目で確認できたのだ。
動く時が来た。
アツシはホステスの扮装のまま、滑るようにその現場に入っていった。
すでに羞恥心はない。
「エリー、三番テーブルさんでお呼びよ」
元々彼らについて来ていたエリーと呼ばれている若いホステスにそう声をかけて、彼らの輪にむりやり割り込む。
もう後には引けない。
「すみませんお客様、エリーちゃんご指名の方がいらっしゃいまして……」
エリーと呼ばれたホステスはその言葉で反射的に立ち上がりかけたが、なぜか中腰になったまま、けげんそうな表情でアツシに目をやる。
そして、次の瞬間こう叫んだ。
「…………おにいちゃん?」
アツシも凍りつく。
そう呼びかけられるまで、化粧が濃くて全く気付かなかったのだが、確かに、それは
「カナコ……?」
実の妹、カナコだった。
「オマエ……」
つい素の声に戻る。
「な、なんで高校生がこんな深夜のバイトしてんだよ、たしか、友だちンちで勉強会だから……って」
「お兄ちゃんこそ、何て格好してんの」
カナコの声も震えている。
「し、知らなかったよ……そ、そ、そんな趣味があるなんて!」
「ばかこれは、あの」
スパイと取引相手とは、予想外の成り行きにただ呆然とふたりを見比べている。
と、そこへ
「お~いねーちゃんや~い」
べろんべろんに酔った中年男がテーブル席へ飛び込んできた。どこか遠くで「課長、違う違う、テーブルちがうよー」の声。
席を間違えたらしい男は、だらしなく着崩したシャツはボタンがほとんど外れ、でっぷりした腹がむき出しになっている。
広く脂じみた額にネクタイを鉢巻き状に巻いて、黒ぶち眼鏡の奥の目はすでに、焦点があっていない。
「おっ待たせ~、今夜もミツオおじたんが、ブイブイ言わせちゃうぜ~い、いぇー!」
中年男を目にしたとたん、アツシとカナコの叫びがユニゾンで響いた。
「父さん!!! 福井に出張だったんじゃ??」
固まる現場。と、なんとそこに
「おーっほっほっほっほっほっほっほーーー」
つややかな高笑いが店内に響き渡り、何かが暗がりからこちらに向け、大きく弧を描いて迫る。
いつの間にやら天井から吊り下げられたロープにつかまり飛んできたのは、かなり恰幅のよいマダム。
なぜか黒いハーフマスクにボンデージスーツ、そして網タイツがむっちりと太ももに食いこんで目に眩しい。
アヤシイ闖入者が小脇に抱えているのは、同じようなハーフマスクをつけた中型の雑種犬。
「そのダイヤ、怪盗マリアンヌ様とジャックが頂いてゆくわっっ」
「わんわん、わんわんわんわん!」
中年オヤジとアツシとカナコの声が揃う。
「母さん!!! ポチ!!!」
怪盗マリアンヌは呆然と立ち尽くしたスパイの手から革袋をもぎ取ると、ロープにつかまったままぶぅん、とそのまま舞い上がり、高い天井のどこか彼方へと消えていった。
鮮やかな、あまりにも鮮やかな手口に、そこにいた者すべてはしばらく、身動き、いや息をするのも忘れて立ち呆けていた。
翌朝。
ナルシマ家の朝食時、家族は全員揃っていた。しかし、誰も目と目を合わせようとしない。犬のポチすらも。
「おはよう!」
母さんの声だけ、妙に明るくダイニングに響き渡る。
「今朝は、朝から豪勢にかつ丼よ~、ちょっと、臨時収入があったのよ~」
「うん……判る気がする」
アツシのつぶやきに、父とカナコも、弱々しくうなずいたのであった。
了
どこかに応募した気がしたのですが、記憶になくすみません。少し直してこちらに。軽く読み流して乾いた笑いで送っていただければ、ネハンに。