第29話
「――おーい、高木さん?」
「はいっ! 何ですか?」
少しボケッとしていたらしく、先輩が机に片手をついて私の目の前へ伸ばした手を振るまで、話しかけられていたのに気がつかなかった。
「福嶋さんのOK出たから、バリバリ刷ってきちゃって」
ちょっと心配そうな目をしつつ、先輩はポスターを差し出しながらそう指示を出した。
「わかりました」
それを受け取ってそう返事した私は、もう一度印刷室へと向かう。
「ちょっとお花摘みー」
「はいはい」
私が部屋から出る間際に、福嶋先輩がそう言って私の後に続いた。
ガラリ、と部屋のドアを閉めた彼女は、トイレとは逆方向に向かう私に、横並びに付いてくる。
階段を1階分下りて、管理棟へ繋がる廊下に出たところで、福嶋先輩が口を開いた。
「高木ちゃん、私と響の関係性知りたいでしょ?」
「はい?」
ついとぼけてしまったけど、なんかイタズラじみた顔をする福嶋先輩の言葉は、図星も良い所だった。
「あ、いや。高木ちゃんがやきもち焼いてる顔だったからさ」
「や、やきもち……?」
「あくまで所感なんだけど、違ったかな?」
言われてみれば、確かにあれはそう表現するとしっくり来る。
でも、やきもち焼くなんて、親子とか、そういう関係性の間柄でする事だよね……。
「ど、どうなんでしょうかね……」
結局、理由がよく分からないのはそのままだから、私はそうあやふやな事を言った。
「まあ、結論から言うと、私と響は、家が近所同士で幼稚園の頃から幼なじみ、ってだけだから、特別な関係とかじゃないし、安心してって話」
管理棟に差し掛かったところで、そんじゃね、と言って、ウィンクした福嶋先輩は廊下を引き返していった。
そこまで気心の知れた関係なら、あれだけ先輩が心を許してる、ってのは納得だ。
――そういうことなら、福嶋先輩は、先輩の家の事情についてなんか知ってて、訊いたら教えてくれるかもしれない。
つい、そんな事を考えてしまったけど、それはどう考えても私のポシリーに反する事だ。
これ以上考えると、実際にやってしまいそうな気がするから、さっさと忘れることにした。
「これでよし、と」
全部の教室と、男女学生寮の各階に1枚ずつ貼るため、A4のポスターを全部で32枚刷ってその端を机にトントン、として整えた。
今度はぶつかるまい、と頭を出して、誰も来ていない事を確認してから廊下に出たんだけど、
「――えっ」
なぜか足が急にずるりと前に滑って、1人バックドロップ状態で転んだ。
「いてて……。なんなのもう……」
なんとか頭は守ったけど、その代わりに、また派手にポスターをまき散らしてしまった。
今度は1人しか居ないし量も多かったから、散らばったそれを集めるのに手間取った。
それにしても、なんであんな、凍った水たまりを踏んだときみたいに……?
やっとこさ全部集め終えた私は、謎の現象の理由が気になったけど、
……あ、このビニールか。
その答えは、印刷室のドアの脇に落ちていた、はがき用っぽいビニール袋のゴミだった。
印刷室のプリンターは、生徒が自由に使って良い事になってるから、誰かがはがきを印刷して、それを包んでいたこれを落としたんだろう。
やれやれ、今日はツイてないなあ……。
ため息交じりに印刷室のゴミ箱に捨てて、私は先輩達の元へ向かった。
「お帰り楓さん」
部屋の中には窓際に佇む先輩だけが居て、入ってきたのが私だと分かると、ふにゃ、みたいな感じで嬉しそうな顔になった。
ちなみに、パソコンとかも無くなっていたけど、先輩に訊いたら、全部福嶋先輩が持って行ってくれたそうだ。
「原稿、もう良いんですか?」
「もっちろーん。完璧に出来上がってるよー」
ドアを閉めて、長机上にある自分の筆箱を鞄にしまっていると、
「楓さーん……。うへへ……」
先輩が後ろからくっついてきて、いかにもご満悦、といった様子で腕をお腹の辺りに回してきた。
「何度も言ってますけど、今誰か入ってきたらどうするんですかー」
「あぁー……」
その腕を引っぺがして、鞄のヒモを肩にかけると、もの凄く哀しげな声を出された。
「帰ってから、いくらでも抱きついたら良いじゃないですか」
「じゃあそうする……。5時間ぐらいでいい?」
「それは邪魔なので勘弁して下さい」
「じゃあ4時間50分で!」
「刻んでくるの早すぎません?」
そんな力の抜けた会話をしながら、2人とも部屋から出てドアに鍵をかけた。
「ショウガって、食べても結局なんか寒くなる気がしない?」
「ああ。あれ乾燥させないとダメらしいですよ」
「そうなんだ……」
ダラダラと雑談しながら、寮へ繋がる渡り廊下に出たタイミングで、
「ひゃっ」
「寒いっ」
ちょうど、もの凄く強い風が吹いて、前を閉めてなかったコートの中に、容赦なく冷気が入ってきた。
「高木さん、なんか暖まるもの作って欲しいんだけど……」
「はい。ちょうど実家から酒かす貰いましたし、豚汁でも作りますね」
「とんじる? ……もしかして豚汁のこと?」
「ぶたじる?」
数秒間顔を見合わせたところで、何か気付いた様な反応をした先輩が、
「……あのほら、大根とかニンジンとか、いっぱい入れるみそ汁」
「それです」
「ああ、やっぱり。私のお母さん、北海道の人なんだよね」
そう説明して、微妙なすれ違いを解消してくれた。
「なるほど。まあ、呼び方はともかく、それ作りますね」
「いいねえー。あれ、ついいっぱい食べちゃわない?」
「あー、分かります」
そう言った先輩の表情が、一瞬だけ「あの子」の空っぽのそれと被って見えて、1歩たりとも踏み込まない様に、なるべく自然な感じで顔を反らしながらそう言った。




