第16話
結局、先輩は私のシフト時間には間に合わず、戻ってきたのは私がトイレで制服に着替えた後だった。
「そんなぁ……」
トイレから出てきたところで、ちょうど走ってきた先輩と鉢合わせになった。
「どんだけ楽しみにしてたんですか……」
めちゃくちゃ落ち込んでいる先輩に、また明日やりますから、と言って励ました。
「あっ、そっか」
それでまた元気になった先輩だったけど、
「明日は何時ぐらい?」
「11時半から30分ですね」
「うそーん……、丸被りじゃん……」
今度は先輩のシフトが私と同じ時間で、またぐんにゃりとしてしまった。
1日目が終わった後、照明とセットを使った練習があって、先輩はいかにも主役といった感じの、もの凄く気合いが入った演技をしていた。
側から見たら、成功させようと張り切ってるように見えるだろうけど、多分、楽しみが全部パーになってヤケクソになっているんだと思う。
「さっすが吉野会長……」
「何か乗り移ってるみたいだね」
それを知るよしも無い、私と同じ端役担当の庶務の2人は、そんな先輩の演技に夢中になっていた。
練習が終わって部屋に帰ると、先輩は燃え尽きたみたいにぐでぐでし始めた。
「先輩。どいてください。重いです」
「あー……」
……ベッドの上に寝転がってテレビを見ている、私のお腹の上で。
「痛い……」
のしかかってくる先輩を横にどかすと、そこまで勢いを付けてないのに、そのまま転がっていって床にべちゃっ、と落っこちた。
「何やってるんですか……」
「うわあぁぁぁぁん! 楓さんの男装みーたーいー!」
落っこちた体勢のまま、先輩はじたばたしてだだをこねる。
「そのくらいで騒がないでくださいよ……」
「だってー……」
写真あげますから、と言って、私は先輩の携帯に写真を送ると、立ち上がって大喜びした。
だけど、すぐに崩れ落ちて、やっぱり実際に見たい……、とうだうだ返してくる。
しょうが無いなあ……。
そのまま放置した方が面倒くさそうなので、私は衣装の入った袋を持って、脱衣所に向かった。
「どこ行ったのぉー……、楓さーん……」
「これで満足ですか。先輩」
スーツ姿に着替えた私が、そう言いながら居間に戻ると、
「ふぉあーーーーっ! 良い……」
亀みたいにひっくり返っていた先輩は、高速で左右に転がってからうつ伏せになって、ありがたや……、とか、神様……、とかなんとか言う。
手足をぴんと伸ばしているので、見た感じ五体投地みたいになっていた。
「あの、先輩……?」
「ありがとうね楓さん……。嬉しすぎて爆発しそう……」
腕立ての要領で起き上がった先輩は、ぺたんと座って、困惑している私へこれ以上に無い程嬉しそうにそう言った。
「……それは良かったです」
しばらくその格好のまま、先輩に何枚か写真を撮らせてから、私は部屋着に着替えて居間に戻った。
「いやー、これで明日頑張れるよー」
「そうですか」
ベッドに背中を預ける先輩の隣に座ると、先輩は私の肩に寄りかかってきた。
「じゃあ、ご飯の前にもう1回併せて練習しよう。楓さん」
「いいですよ」
「ほんじゃ、私の台詞以外読んで貰って良い?」
「はい」
その体勢のまま、私と先輩は通しで練習を始めた。
声は抑えめで読む先輩だけど、役に入り込んでやっているからか、私には先輩がまるで別人になったみたいに思えた。
文芸部の人に直して貰って完成した、劇の脚本の内容は、置かれた環境次第で、どんな人にでもなれる主人公が、親から「誰からも好かれるような人になりなさい」、という教えを守ろうとする話だ。
そのために、その主人公は登場人物に合わせて、情熱的な赤、朗らかな黄色、クールな青、同情の緑‥、といった具合に、いろんな性格という『色』を変化させていく。
そしてそのうち、全部の色ががごちゃ混ぜになって行き、最後の方には、誰にでもいい顔をするせいで、結果的に誰からも嫌われる様になってしまう。
けれど、そんな彼女の事情を理解していた、1番最初に登場した女の子が最後に出てくる。
その子は主人公に、誰からも好かれようとまでしなくても、別にいいんじゃないか、ということを気付かせる、という所で終わる。
それを最初に読んで、私はこの主人公が先輩みたい、と思ったけど、すぐに先輩はこの子ほど器用貧乏な性格でもないよなあ、と思い直した。
先輩は精々2色だし、この主人公みたいに溺れる所までは行かないだろう。
なんて考えていたら、うっかり自分の台詞を言い忘れそうになって慌てたせいで、思い切り舌を噛んでしまった。
「大丈夫? 楓さん」
「はい……。すいません……」
血が出てしまっているらしく、口の中にちょっとだけ鉄の味が広がった。




