眠れる前夜祭の王子様。
ごめん。
屋上行けなくなった。
凍える廊下をひた走って、弾くような足音が反響する。
浅く荒く繰り返す呼吸に、かすむオレンジ。
沈むのが早いか、たどり着くのが早いか。
あたしの足は、ただひたすら彼に向かって駆けていた。
十二月の後半といえばもう冬休みに入っているのに、なぜ学校に来ていたのか。
その答えは至極明快。
期末考査の結果が散々だったからだ。
よって補習という名の拘束を受けてしまい、冬休みもクリスマスイブもへったくれもなかった。
そんな、落ち込んでうなだれるあたしの耳に。
響いたのは、あのひとの声。
終業式の日。
絡めた小指に、小さな熱。
補習が終わったら屋上でイブを過ごそう、と。
そう彼はささやいた。
いつもの場所でトクベツな放課後。
短い時間だけれども、どうしても彼に会いたくて。
わがままだとはわかっていながらも、反射的に首を縦に振っていた。
放課後、屋上。
彼の眠る、あの場所。
錆びついた扉を開くまで、目を伏せて。
色素の薄い絹糸のような髪を冬の風に遊ばせながら、彼はいつもあたしを待っていた。
だから、今日も。
きっとそうだと思っていた。
耳をつんざくほど高鳴った鼓動が、冷えすぎた足を急かす。
身を切るようなつめたさの中で、繰り返す呼吸だけが温度を持っていた。
かけめぐる不安が、胸を、思考をゆっくりと凍らせていく。
補習の終わりに響いたバイブレーション。
揺らされたのは制服だけじゃなくて、ココロの奥底をも。
ざわめきに後押しされるまま、開いたメール。
たった二行の文が、あたしを停止させた。
「は、っ、はあっ」
乾いた鐘の音と同時に走り出して、向かう先はやっぱり屋上しかなくて。
いないとわかっているのに、なぜか彼がいつものようにあたしを待っているような気がしてならなかった。
一段抜かしで駆け上がる階段。
ふらついて、わずかに壁に触れる。
氷のような感触と、奪われていく熱。
こんなに急いでも、彼はいないのに。
そうメールがきたのに。
でも、どうしても。
彼があそこで待っているような気がする。
うぬぼれかもしれないけれど。
楽しみにしていたのは、あたしだけじゃないと思っていた。
あのとき。
あの約束をかわした放課後の屋上。
絡めた小指の先で嬉しそうに笑った彼の顔が、いまだまぶたに焼き付いて離れない。
最後の段差を一気に駆け上がってしまおうと、踊り場で深呼吸をした。
足を踏み出す、寸前。
白い息の向こう側。
見上げた先に、扉に寄りかかるようにして目を伏せた彼の姿が見えた。
「……べんきょ、終わっ、た?」
ゆっくりと持ち上がるまぶた。
途切れ途切れのかすれた言葉の中に、混ざる咳。
階段下からでもわかった。
うっすらと赤い頬。
荒く繰り返される呼吸と、白く浮かぶ吐息。
熱があるのは、一目瞭然だった。
いてもたってもいられず、残りの段数を駆け上がろうと足をかけた。
踏み出す寸前で、彼の声が耳に入る。
「うつる、から、それ以上こないほうが、いい」
苦しそうに、それでもはっきりとあたしを拒絶する声。
足の力が一瞬抜けて。
けれど、吸い込んで吐き出した音と同時に凍りついた床を蹴った。
「行かないわけないでしょうっ」
残りの力をふりしぼって、駆け上がった先。
うなだれる彼が、あっけにとられたような表情を浮かべてあたしを見ていた。
「ばか」
自分の首に巻きつけていたマフラーを解いて、彼の首に巻きつける。
近づいた拍子にその吐息に触れて、温度の高さに手が止まりそうになった。
つめたい床にしゃがみこんで。
彼と同じ目線になって、繰り返す。
「ばか。なんで無理してくるんですか」
冷えすぎて感覚のないてのひらを彼のひたいにあてた。
一瞬にして消えていくしびれ。
うっすらとあせばんだ皮膚と、繰り返される荒い呼吸が痛々しくて胸を締めつけられる。
「ばかです。ほんとうに。メールくれたなら、家で寝てたら良かったのに」
ひたいにあてたてのひらをすべらせて、上気した頬に触れる。
こんなに彼が弱っている姿を見たのは初めてで、ひどく混乱しているのは自分のほうだと思った。
「……て、気持ちいい」
彼はあたしの問いに答えず、頬にあてたてのひらにすり寄ってきた。
長いまつげと、整った顔。
汗ばんではりついた前髪。
こんな非常事態なのに、子どもみたいに甘えられて跳ね上がる鼓動。
てのひらから伝染してしまったかのように、自分の頬が熱くなっていく。
視線が重なって。
うつろな目に、泣き出しそうなあたしがうつっていて。
ゆっくりと、細められていく。
「こんな状態だし、ほんと、は帰ろうと、思って、た」
消えてしまいそうな、熱に溶けてしまいそうな言葉が耳に響く。
かすかなささやきを聞き逃さまいと、その体に近づいた。
布越しに触れた足すら、熱い。
「でも、」
咳き込んで、掻き消える言葉。
反動で前にかがむ彼の背に手を伸ばして、撫でる。
苦しそうだから、話さなくていいのに。
でも、その目が何かを訴えているからどうしても止めることができない。
「どうしても、きみに、あいたかった」
頬にあてたてのひらに、触れた熱いくちびる。
次の瞬間、腰に手が回されて、そのまま体を引き寄せられた。
傾いたあたしの体は、彼の胸の中へ逆らうことなく落ちていく。
肩に乗せられたあご。
首筋に寄せられた彼の温度。
伝えようとしてくれた言葉にめまいがするほど嬉しくて、泣きだしそうになった。
「もし、あたしが帰ったら、どうするつもりだったんですか」
涙をごまかしたくて、その胸に顔をうずめた。
熱すぎる体と、制服越しに伝わる鼓動。
慣れた彼のにおいに、目を伏せる。
「なんとなく、くると思った、よ」
「そんなの、わかんないじゃないですか」
ぎゅっと、締め付けられる体。
髪に寄せられたくちびる。
かすれた声が、耳に近づいて。
背筋をふるわせる。
「だって、きみも、俺にあいたかった、でしょ」
耳に熱すぎる吐息とやわらかい感触。
うなずく以外のすべを、あたしは持たない。
「ばか……」
熱に浮かされた彼の言葉に、素直にうなずくのが悔しくて。
同じ言葉ばかりを繰り返す。
熱の含んだくちびるが、また耳に近づいて。
メリークリスマスとささやいた声は、冷えたあたしを溶かしていった。
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最後まで読んでくださってありがとうございました!
サイトのHIT記念としてリクエストのあった作品を書き下ろしました。
すこし早いクリスマスのお話でしたが、楽しんでいただければ幸いです。
ありがとうございました!
2007.11.22 梶原ちな
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