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人狼と魔王の喫茶店シリーズ

人狼と聖女と喫茶店

作者: ジゼル

「むぅ。やはり私には、こうした洒落た物は似合わないと思うのだが」

「何を言うか聖女よ。わしには勝らずともよく似合っとるではないか」


青い空が続く晴天の空の下、一件の喫茶店の中から賑やかな声が街路へと流れ出していた。


 後ろで纏めたポニーテールの赤髪を揺らし、皺のない黒シャツに身を包んだ少女、魔界を統治する絶対王女の魔王。

 一目見た者を虜にしてしまいそうなほどの艶やかな金髪を腰まで伸ばし、身動きの取り安い簡素な服で身を包んだ女性。人界を魔から守り、魔を滅することを使命とされた魔の絶対敵対者の聖女。


 一度でも目が合えば最後。互いのどちらかの命がかき消えるまで戦い続け、決して相容れることはないとされてきた二つの定められた命を持った二人は、まるで本当の姉妹のように仲睦まじく、頑丈な木で作られた足長の椅子に腰を落としていた。


「しかし魔王よ。私はこのエプロンなるものを着たことがなくてだな、似合っているかどうかは自分でもわからぬのだ」

「なんとも面倒な性分じゃのぉ。人界でもエプロンくらい作られておるじゃろうに」

「勿論あるさ。しかし私は見るだけだったし、それに人界のエプロンはただ汚れを弾くだけの物で小汚い布を使っていた筈だ。このように綺麗で丈夫な布では作られていないのだよ」

「ふむ、未だ人界では衛生という面で難儀しておるようじゃな。そんなに気になるならほれ、そこにおる主様に感想をもらってみてはどうじゃ?」

「あ"っ? なんだ給料泥棒」


 戸惑いを隠せないでいる聖女にくつくつと笑みをこぼし、細く長い指を差し向ける先には一人の男、否、一匹の狼が忙しそうに机を拭いている。黒い獣毛に身を包み、逞しい腕で湿らされた冷たい布巾で机を磨くその様子からは、従業員である筈にもかかわらず一向に仕事をしようとしない不良魔王に対して怒りを含ませているようにも見て取れる。


「のぅ主様。主様から見ても実によく似合っておるとは思わぬか?」

「知らねぇよ。つうか仕事しろよてめぇは」

「しておるではないか。常連客である聖女に対しての接客を」

「言っておくがな、この店ではカウンターに座る常連を客とは言わねぇんだよ」

「接客業を営む者とは思えぬ発言じゃな……。まぁ少しくらい良いではないか。ほれほれ、男としての主様から見てどう思うかの?」

「……ふむ」


 机を拭く手を止め、腕を組んで人狼の主人は魔王が着けていた黄色のエプロンを着けられた聖女をまじまじと見る。


 確かに綺麗だ。絶世の美女だと噂されることだけはある。聖騎士団のトップとして訓練も常人以上に身につけているのであろうその細く整った身体は実に素晴らしい。そんな聖女が魔族の中では一般的なエプロンを身につけ、恥じらいに頬を染めているその姿は、普通の感性をした男性ならば一発で惚れ込んでしまうことだろう。

 そう、普通の感性をした男性であれば。


「ははっ、どうした聖女。そんな女みたいな仕草をしてからに」

「店主のそういうところが私は大っ嫌いだッッ!!!!」

「ゴッハァィ!? 聖女の鉄拳とかマジ勘弁!?」


 先ほどまでの恥じらいの顔から怒りの形相へと変化させた聖女の拳が人狼主人の腹部へと深々と突き刺さる。

 ズドンという重い音を奏でたその拳を受けた人狼はうめき声をあげて膝から崩れ落ち、道端に捨て置かれたゴミを見るかのような視線を投げ落とされた。


「ふん! どうせ私にはそのような女らしい物なんて似合わんさ!」

「い、いや、正直すまんかった……」

「なんで主様はそう余計な言葉を口走るのかのぉ?」


 椅子に座り怒りにふんぞり返る聖女に痛みに耐えながらゆっくりと立ち上がる人狼の主人。そしてそんな二人に呆れの感情を隠すことなく顕わにする魔王は、もはや恒例となっている情景に嘆息をつく。


魔界と人界の境界線。人魔線の魔界側に存在する小さな喫茶店を営む人狼の主人は、珈琲と口の悪さだけは一級品であった。


「つか、いきなりどうした。人手なら足りてるぞ」

「そこはほれ、わしも最近は人界への視察などで忙しくなってこの喫茶店に来られる回数も減っておるじゃろ? そこでわしの居ないときは聖女に任せてみようかと思っての」

「一応言っておくがな、この店は俺の店であってお前の店じゃねぇんだよ。雇うかどうかは俺が決めるものであってお前が決めるものじゃないんだよ」

「良いではないか。どうせ暇なんじゃし」

「忙しいですぅ! お前が働いてないだけで俺は準備やらなんやらで忙しいんですぅ!!」

「どちらにせよ後々暇になるではないか。細かい男は嫌われるぞい?」

「余計なお世話だ!」


 甘ったるいという言葉を超越した白く濁りきった珈琲を口につけ、白々しく話す魔王へと怒鳴り散らす人狼の主人に聖女は先ほどまでの怒りを忘れ、口元を隠してほくそ笑む。その姿に苦々しく表情をゆがめ机を拭く作業を始めた主人に、魔王はつまらなそうに唇を尖らせた。


「なんじゃ主様よ。聖女が働くのは反対なのかえ?」

「当たり前だろ。ただでさえお前を雇ってること事態上位の奴らは反対してるんだぞ。これで魔族討伐を仕事としてる聖騎士団のトップである聖女なんか雇ってみろ。まず間違いなくこの店が潰されるぞ」

「なんじゃそれくらい。そんなもの、わしが直接そやつらに説明すれば良いだけの話じゃろ?」

「余計な敵を作りたくはないって俺は言ってんだよ」

「すでに常連客である私を敵に回す言葉を使っておいて何を」

「俺は働かない従業員や余計な騒動を持ち込む常連客相手に愛想を振りまくつもりも勘定に容赦をする気も微塵もないが、上位魔族の奴らには小型犬の如く尻尾を振って愛想を振りまくことを生き様としてるんだよ」

「清々しいほどにクズじゃな」

「魔族でもそのように惰弱な思考をする者も居るのだな」

「生き残るための聡明な知恵と言え」


 魔族にとって、力とは絶対的なものだ。

 魔界とは王者絶対の地であり、そして強者至上主義の一族の地でもある。

 力なき者は一切の権利も与えられず、強者に従い無様に頭を垂れることでようやく魔界で生きる権利を与えられる。そうしなければ、弱者である者達は明日を迎えることなど出来はしない。

 人狼主人の強者に媚びへつらう姿というのは強者至上の魔族において決して間違いではない。むしろ、一般的魔族の模範的な解答とも言えるだろう。

 だがそれも、長年による平穏と疑問が亀裂を生み、新たなる時代を迎えようとしていることも事実の一つであることを感じ取る者達は多い。


「それそうと主様よ。わしの姿もどうかの?」

「どうかのっていうか、どっから持ってきたんだそんな服」

「ふっふっふ、人界を散策しておったらある店でこの服を着て給仕をしておる女子達の姿を見つけてのぉ。実に憂い姿であったので拝借してきたのじゃ」

「盗んできたのかよ」

「失敬な。ちゃんとわしが働いた金で買ってきたんじゃよ。動きやすいという点では今のメイド服よりも機動面では優秀じゃし、魔王城の給仕達の服装もこれに変えるよう打診してみようかのぉ」

「可哀想過ぎるから止めてやれ」

「なんじゃつまらん。それよりほれほれ。どうかのどうかの? 憂いらしいわしの姿に一目惚れしちまったかの?」

「寝言は寝て言え」


 その場で優雅に回り出した魔王の体にはいつもの折り目の付いた黒いシャツや薄茶色のジーンズは無い。代わりにあるのは、短く足をふとももまでさらけ出しフリルの付いたスカート、そして短い袖の黒服の上に短いエプロンを着けている。人界で俗に言われる、ミニスカメイドの姿で魔王は上機嫌にミニスカートに取り付けられたものと同じフリルの付いたカチューシャを被って人狼の主人を虜にせんとポーズを決める。

 ほかの魔族であればその可愛らしさと美麗に打ち震えるであろうその姿を見せられた人狼の主人といえば、長い口頭の先についた鼻から一息吐き出し机を拭く作業へと戻りだした。


「むぅ、主様は素直じゃないの」

「とっとと着替えないとその無駄に細くて不味そうな足に珈琲パンチを食らわすぞ」

「褒めるでも触るでもなく殴打!? 可愛い名前なパンチの割に鬼畜すぎやせんかの主様!?」

「いや可愛くはないだろう魔王よ……」

「諦めろ聖女。あの悪趣味な電話機を選んだ時点で魔王のセンスはどん底だ」

「喧嘩売っとるのか主様!!」


 しれっと魔王のセンスを罵倒する人狼の主人に、声では怒鳴りつつも楽しげな表情で魔王は机を拭く主人へと近寄り、体を動かすたびに揺れ動く大きな黒い尻尾へと抱きつく。顔をしかめながらも無理に引きはがそうとせず、尻尾を先ほどよりも少しだけ大きく尻尾を振って魔王を振り落とそうとする人狼の主人の後ろ姿に、聖女は微笑みながら眺めつつカップに残った珈琲を飲み干した。


「ほれほれもっと言うべきことがあるじゃろうがよ~」

「でぇい、鬱陶しく抱きついてくんな屍王。その喰っても不味そうな骨が伝染するだろうが」

「骨が伝染するってなんじゃい!? それにわし魔王! 魔の王!! 屍の王ではないわい!!」

「似たようなもんじゃねぇか。上位魔族のリビングデット共だってお前の配下なわけだし」

「あーとかうーとかしか言わぬ彼奴等などと一緒にするでないわ!!」

「どうでもいいからさっさと尻尾から体を離せ。さもないと今月の給料をカットするぞ」

「何という理不尽!? 聖女~、主様が苛めるのじゃ~!」

「店主なりの優しさだろう? いつものことじゃないか」


 叫ぶ魔王を尻尾から振り落とし、床に足をつけて聖女の元へと子供のように駆け寄っていく姿に人狼の主人は腰に手を当て溜息を吐き出す。

 傍目から見れば人狼魔族としての恐ろしい出で立ちと魔王としての莫大な魔力を持った二人。だが側で見てみれば、仲の良い人間と何ら遜色のないそんな二人の関係に、聖女は隠すことなく笑みを浮かべてかけよってきた魔王の頭を撫でて慰めた。


「うら、いつまでもサボってねぇで仕事しろ現ただの従業員」

「主様それを定着させようとしておらぬかの!? 認めぬからな!? わしは絶対にただのなどという言葉を認めぬからな!?」

「うるせぇ板魔王。給料を払ってほしかったら働け」

「板!? ナイスバディな身体とスレンダーな肢体を持つこのわしに向かって板とぬかしおったか主様!?」

「自分でナイスバディとかスレンダーとか言ってんじゃねぇよ。さっさと砂糖の買い出し行ってこい。戻ってきたらカフェオレでも入れてやるから」

「……またわしの自腹かの?」

「きちんと買えてきたら俺の奢りにしてやる」

「全力の俊足で買ってくるでな! 話はまた後じゃ聖女よ!」

「あぁ、ゆっくりと珈琲を楽しんでいるさ」


 言うや早いか。人狼主人から金を手渡された魔王は勢いよく扉を開き街道を走って行く。

 乱暴に開けられた扉に取り付けられたベルがやかましく喫茶店の店内で鳴り響き、牛の如く走り去っていった魔王に人狼主人は大仰に嘆息を吐き出す。


「やれやれ、もう少しくらいは慎ましくならねぇもんかねあいつは」

「元気があって良いではないか。魔王らしさという点においては、少々難は有りだがな」

「そう言ってる割には、妙に楽しそうだな?」

「事実、楽しいからな。私は独り身だが、もし妹というものが居たらあのような感じなのかと考えるのは実に面白い」

「俺は絶対に嫌だがな。あんな我が儘な妹なんざ」


 素直でないなと笑う聖女に、人狼の主人は鼻を鳴らしヤカンの中へと水を注いでいく。

 火にかけたからといって水は直ぐには沸騰しない。砂糖を売っている店まではそれなりの距離があるとはいえ、あのこまっしゃくれな魔王様が帰ってくる前に準備の一つでもしていなければ拗ねて余計なことになることは目に見えている。


 しばしの間二人の間に静寂が訪れる。店の外から聞こえてくる鳥の鳴き声と、カップの中に入れられた珈琲をすする二つの音が喫茶店の中を満たし、多く取り付けられた窓からは暖かな日差しが差し込み平和な空気を作り出していた。


 そんな平和な店の心地よさに長椅子に座り腕を組んでいた聖女は襲ってくる眠気と共に船を漕ぎ出し、その様子にカップを拭きだした人狼の主人は目を細める。


「寝るのは構わねぇが、風邪引くぞ」

「む? ……むぅ。居心地が良すぎるというのも考え物だな」

「なんだ、夜更かしでもしていたのか?」

「うむ、昨日は魔族の社交界に連れられてな」

「……それはそれは。随分と魔王に好かれたもんだな」


 聖女の口から出された場所に、そこまで行っていたのかと人狼の主人は皮肉めいた長い口を開いて目を細める。


 魔族のと名が付くとはいえ、社交界は人間の行う行事と左程変わりはない。

 強者達が集まり酒を呷り、魔族の行く末について話し合う。そこに下位の魔族の言葉はなく、上位の魔族達ですべてを決める。

 人間達となんら変わりのないこの行事に、人狼の主人はさして思うことはない。それがこの地では当たり前であり、魔界では常識だからだ。そしてその場に人狼たる主人を差し置いて人間である聖女が赴くことが許されたのも、また仕方のないことだとも理解出来ている。


「パンツ伯爵や筋肉男爵にも会ったのか?」

「吸血鬼の伯爵とは会えたのだが男爵は出席していなかった。少し、いや少々独特的な考えを持った方だったな」

「はっきり言っていいんだぞ。あいつは魔族の中でも特別な変人に分類されるからな」

「それを店主が口にするのか? 私が見てきた魔族の中では、店主も相当な変わり者だぞ?」

「心外だな。俺は平凡な魔族として生きているつもりだが」

「平凡な魔族なら、魔王とあんな風に口を利きあったりなんてしないだろうに」

「ここは俺の喫茶店で、あいつはここの従業員だからな」

「答えになっていないぞ」


 笑う聖女に向けて人狼の主人は返答とばかりに鼻から息を吹き出す。その様子にやれやれといった表情で聖女は空になったカップを主人へと突き出した。


「おかわりを頼むよ。湯もそろそろ沸くだろう?」

「……はいよお客様」

「おや、店主からその言葉を貰えたのは初めてだな」

「そうか? 俺はいつでもお客様至上主義だぞ?」

「接客商売人として実に素晴らしいことだが、是非とも私にはやめてくれ」

「さっきは客扱いしないことに苦言を申してきたじゃないか」

「あれは店主が悪い。魔王から女心というものを分かっていないと言われたことはないか?」

「お前らみたいな貧相体じゃなくバインなお姉様のお気持ちなら分かりた――ゴッふ!?」

「本当に失礼な奴だな店主はッッ!! 少しは学んだらどうなんだ!?」

「だからって横腹に魔力の込めた拳を叩き込んでくる女がいるかよ……」


 美しい金の長髪が逆立ち魔力を込めたことにより握り混んだ右拳から蒸気を立ち上らせた聖女へと、脇腹を抑えてカウンターの奥で座り込んだ人狼主人のうめき声が店内に重く響き渡る。

 痛みと格闘しながらなんとかシンクに手を置いて立ち上がり、ふんぞり返って座っている聖女へと拳痕の残る脇腹をさすりながら苦言を告げる人狼主人は端から見れば尻に敷かれた亭主に見えなくもない。


「ったく、魔王でもここまで暴力的じゃねぇぞ」

「女を舐めるなということだ。魂に刻み込んでおいた方が良いぞ店主?」

「肝に銘じておこう。砂糖は?」

「余計な物は入れない主義だと言っただろう。いつもので頼むよ」

「そうだったな。忘れていた」


 蒸気によってけたたましく鳴り響いたヤカンの火を弱め、挽いておいた珈琲豆を手順良く薄茶色のペーパーが敷かれた容器へと敷き詰めていく。人狼の手によって行われるその作業を、聖女は興味深げにカウンター越しから覗き見て感嘆の息を吐き出した。


「いつもながら、見事な手際だな」

「これくらいしか取り柄がないもんでね。それに珈琲を入れる作業は誰でも出来ることだ」

「そうか? 人界でも珈琲を飲むことは多いが、店主の入れるそれとは天地の差があるぞ?」

「そりゃご愁傷様だな。俺以上のバリスタなんぞ人界にいくらでもいるのに」

「ばりすた?」

「俺みたいな超男前な奴の事だ」

「矛盾しているぞ店主よ」


 そうか? と首を軽く捻る人狼の主人の手元から香ばしい香りと程よい湯気が聖女の鼻孔をくすぐる。その匂いに表情を緩め、気を軽くした聖女に人狼の主人はすっと目を細めた。まるで何かを見通そうとしているかのようなその視線に、聖女は目を丸め不可思議な物を見つめるかのような表情で、人狼の店主へと視線を返す。


「どうかしたのか店主よ? 何か気に障るようなことでも言っただろうか?」


 聖女の質問に、入れたての珈琲を差し出した人狼の主人は何も答えない。答えようとしている節はあるものの、長い口をもごもごと動かしては黙りこくるその姿に苛立ちを覚えたのか、聖女は摘まみ上げていたカップを乱暴にソーサーへと戻した。


「なんだ店主。言いたいことがあるならはっきり言え」

「……なぁ聖女。維持は罪か?」

「何?」


 目の前に入れられた珈琲を見つめ、人狼の主人は視線を聖女と合わすことなく己の思いを告げていく。


「魔族と人間が手を取り合う世界が、本当に必要か?」

「それは……」

「なにも聖女を責めてるわけじゃない。魔王の言葉に反論するわけでもない。ただ、こうして珈琲を飲んで、馬鹿みたいな話をするだけの平和を壊すだけの価値が、本当にあるのか?」


 長く続いた争乱に資本が尽きかけた人間。長く続いた平穏に進化を忘れ、先へと進むことが出来なくなった魔族。双方二つの悩みを解決するために二つの種族が手を取り合い、新たな時代を迎えるのはある意味必然であるのかもしれない。

 だがそのために今の平和を壊す必要は本当にあるのだろうかという悩みが、人狼主人の心を蝕む。今を愛し、今を望む主人だからこそ、二人が望む未来の話は受け入れがたくもあった。


「人界はどうか知らんが、少なくとも魔界は平和だ。平和だからこそパンツ伯爵は商売に熱意を燃やし、筋肉男爵は農業に専念し、俺はこの喫茶店を続けられている。それを壊してまで、平和を壊す必要はあるのか?」

「……店主は、人と魔族が手を取り合うことを望んでいないのか?」

「俺は人間が好きじゃないし魔王の言う魔族の未来なんて正直言ってどうでもいい。この店を続けられて、今の生活を送れてさえいれば、人と魔が共存の道を歩むことも悪くはないと思う」


 人と魔族が本当に手を取り合えるのであれば、それはそれで良いのかもしれない。魔界には無い人界の珈琲豆も手に入れることが容易になれるのであれば、それは人狼の主人からすれば願ったり叶ったりの未来だ。魔王が望み、聖女が望み、人魔の民が望むそんな世界に向かおうとするのは必然だ。

 しかし、そんなものはただの夢物語であり、空想の産物でしかないのではないか。


「人と魔族は相容れない。人は魔族を忌み嫌い、魔族は人を贄とする。吸血鬼が人を襲うように、人が人狼の皮を剥ぐように、魔王と聖女が争うように、人魔共存なんてのは俺からすれば夢物語でしかない」

「だが、私はこうしてこの店で」

「聖女、あんたまさか、自分が普通の人間だなんて思ってないだろうな」

「――ッ!」


 聖女。それは人の身でありながら、人の道より外れた存在。偶像の神より賜りし莫大な魔力を身に宿した神の子と名付けられた存在。魔より恐れられ、魔王と相対することが出来る世界で唯一無二の存在。誰よりも清く、何よりも美しく、そして人の頂に立ち人を導く運命に縛り付けられた、人のためだけに生み出された哀れな存在。

 それがただの人である筈がない。ただの人であることを、人の子は決して許さない。英雄として、勇者として、聖女として、魔を滅ぼすために生きることを数多の人により強いられる。

 誰もがそれを正しいと信じ、そして聖女を崇める。人のため、我々のためと、強欲な人の意思で動かされる。

 それが聖女という存在だ。それが人という存在だ。

 それ以外の何物でも無く、それ以上の何者でもあってはならないと決めつけられた人の子を、人狼の主人は、魔族は汚れ無きその存在を視認する。


「人と魔族、聖女と魔王は全く違う生き物だ。聖女のように俺達を受け入れるなんてことは人には出来ない。魔王のように人を受け入れることは魔族には出来ない。それが現実で現状だ。それはお前らが一番分かってることだと、俺は思っていたんだけどな」


 魔王も聖女も、己の役割を担うために生きてきた。魔を滅ぼすために、人を滅ぼすために、人を生かすために、魔を生かすために、二つの命は生き続けてきた。自らの配分なんて考えず、ただ双方の担う幸せを望み走り続けてきた。その道のりの苦行がどれほどのものであったのかなど、ただの魔族である人狼の主人には計り知れない。

 計り知れないからこそ、考える気も起きない。未来などという見えないものを望む二つの命のことなんて、ただの魔族である人狼の主人には考える余裕も知恵も無い。


 黒く湯気の立ち上る珈琲を、長い口ですすり下で転がす。豆の苦みが口の中で広がり、熱くもすっきりとしたものが喉を通り胃へと伝わっていく。至福であるその余韻に浸りつつ聖女の言葉を待つ。

 自らの思いは打ち明けた。それをどう捕らえるのかはそちらの自由だと言わんばかりに、人狼の主人はただ待つ。冷めつつある珈琲の入ったカップを両手で覆い持つ聖女は、ただ無言でその余熱を感じ取り続けている。


「……私は、この世界は、珈琲のようだと思っている」

「……へぇ」


 時間にして五分足らず。ようやく口を開いた聖女の言葉を、人狼の主人は否定することなく聞き入れる。


「珈琲は世界で、砂糖は人間で、ミルクは魔族だ」

「魔族が白ってのもおかしな話だな。むしろ珈琲が魔族だろ」

「いいや、魔族も人も、等しく白さ」


 カウンターに置かれた二つの容器を持ち上げ、聖女は微笑む。小さな陶器の壺に入れられた砂糖と、指先で摘まめるほどの細さを持った銀細工の容器に入れられたミルクを見つめ、湯気の薄れた珈琲へと注ぎ込む。


「世界は珈琲のように苦く、それでいて奥深い。初めてそれを飲んだ人は、その珈琲の苦みを嫌悪する」

「おかげで紅茶の需要ばかりが高まりやがるからな」

「これでも私は真面目に話しているつもりなのだぞ?」

「知ってるさ。だから俺は嘘をつかずに会話してる」


 どんなに人狼の主人が嫌悪しようとも、聖女の意思を否定することは出来ない。ならば真っ向から否定するのではなく、あえて自然体で話し合う。聖女が何を思うのかを知るために、これから先に何を見るのかを聞くために、着飾ったありきたりな言葉では無く、聖女自身の思いを聞くために、人狼の主人は尖った耳を傾け長い口を開く。

 そんな捻くれた人狼の思いを知ってか知らずか、先ほどよりも表情を緩ませた聖女は自らの思いを言葉にして紡いでいく。


「そんな苦く奥深い世界に砂糖の人を入れれば、苦みは薄れ飲みやすくなる。けれど、それだけではまだ世界という名の珈琲は飲みにくいままだ。だがこれにミルクを混ぜれば、それはより飲みやすくなり、誰もが飲めるものとなる。私が、私たちが目指すのは、そういった世界だ」


 誰かしか飲めない珈琲ではなく、誰かしか生きられない世界ではなく、誰もが生きていられ、誰もが飲むことが出来る。聖女はそんな世界にしたいと述べる。空想でも夢物語でも無い、現実として生み出したいと穏やかな声でその気持ちを剥き出して目の前の魔族へと心意を伝える。

 

「魔族も人間も、この珈琲のように相容れることは出来る。私と魔王が相容れたなら、人間と魔族だってそれが出来る筈だ。確かに私は普通の人ではないだろう。魔王も普通の魔族とは違うのだろう。そんな私たちが出来て、違う者同士の魔族と人間が手を取り合うことが出来無いだなんて、私は思わない」

「随分と強気に言ってきてるがよ、それは人を襲わないで済む魔王と、魔族を殺さないでも問題の無い聖女だからこそのものだ。俺達とは違うだろう」

「いいや違わない。違ったのだとしても、それを私は認めない。それから人々が目を反らすのであれば、私は聖女として人に見せつける。私達は手を結び歩むことが出来るのだと、私を産みだしたすべての人に教えなければならない」


 聖女としての役割を、聖女は己の目指す道を使って突き進む。

 魔王としての役割を、魔王は自らの意思を使って歩み続ける。


 間違っているか、合っているかは問題では無い。そうあるべく、二人は二つの命を使って成し遂げようとしている。


 解は成した。なれば後は進むのみ。それを、太古の昔から続くその意思を、二人の王は持ち続けている。


「そうかい」


 短く口にする人狼の主人に、聖女はどうだと笑みを向ける。その笑みは美しく、珈琲のように暖かい。

 そんな聖女に、人狼の主人は珈琲をすすり飲み干して息を吐き、空気の軽くなった店内に言葉を放つ。


「まぁ、ぶっちゃけどうでもいいけどなお前らの思想とか」

「おい!? 聞いてきておいてそれはないのではないか店主!?」

「客に会話を合わせるのも立派な業務だからな。仕方ないな」

「仕方ないで済ませられる会話の内容では無かっただろう!?」

「済ませられるんだからどうしようもねぇなあ」


 あまりにも先ほどまでの会話を蔑ろにした言葉に聖女は勢いをつけて立ち上がり抗議する。しかしそんな聖女に目もくれず、ただ人狼の主人は二つのカップに温め直した湯を注ぎ入れていった。


「そんな重たい未来の話なんざ焼却ゴミに捨てとけばいいだけの話だ。ただでさえ無能従業員の世話で忙しいのにそんなこと考えてられるか」

「相変わらず口が悪いな店主よ。また魔王が拗ねるのではないか?」

「拗ねても珈琲もどきを飲ませりゃ一発だ。見れば分かるだろ拳帝聖女」

「待て。まさかそれを私のあだ名にするつもりではないだろうな」

「まな板聖女暴力聖女脳筋聖女、どれがいい?」

「歯を食い縛れッ!!」

「危ねぇな。店で暴れんな腹筋聖女」


 さすがに一日に三度も見て慣れたのか、轟音をたてて向かってくる聖女の拳を屈み避ける人狼の主人に鬼の形相で聖女は睨みつける。


「それによ、もとより俺に拒否権なんて無いだろうが」

「む? どういうことだ?」

「ふざけんなよ。この店でお前ら馬鹿共が揃って俺に言った言葉を忘れたとは言わせんぞ」


 それで思い出すのは、聖女が初めてこの喫茶店へと訪れたときのこと。

 魔王と聖女が手を取り合い、この喫茶店から始めようと誓ったあの時、人狼の主人は二人に対して抗議を申し、そしてその抗議を却下した時のことを思い出す。


「……まさか、あの時のことか?」

「魔族は魔王絶対で強者絶対だ。魔界最強と人界最強に言われちゃ、もうそっちに向かうしか無いだろうが」


 あまりにも荒唐無稽な夢物語。だがそれを魔王と聖女が成したいというのであれば、たとえどれほどの反発を覚えようとも人狼の主人は従うしか無い。なれば考えるのは否定の言葉では無く、進むべき先のことであるべきだ。

 しかしそれは人狼の主人が出来る範囲を容易に超えている。普通の魔族の身で出来ることなど何も無いに等しい。

 ならば、何もしないことも正解だ。


「俺はお前らの言ってる未来なんて知ったことじゃない。俺が望むのは、この喫茶店で珈琲を入れることだけだ」


 今を続け、後に従う。

 人狼の主人が珈琲を入れ、魔王がそれを運び、聖女が珈琲を飲み、くだらぬ会話に身を委ねる。それだけで充分であると、人狼の主人は白く甘ったるい珈琲を作りながら答えていく。


「……ふふっ、店主も答えになっていないではないか」

「それでいいんだよ。人生も魔生も、答えなんざこの程度の挽きで丁度良い」


 珈琲豆は挽きすぎれば味が落ちる。世界が珈琲であるというのであれば、丁度良い挽き加減を知っているのはバリスタたる自分であるべきだ。そんな言い掛かりに近いことを述べる主人に笑いをかみ殺す聖女の口から漏れ出す声と、入れ立ての珈琲の香りが店を包み始めた頃、ドアに着けられたベルがけたたましく鳴り響いた。


「今帰ったぞ主様よー!! 」

「遅ぇぞ鈍足従業員。珈琲が冷めるところだ」

「あまりにも理不尽すぎやせんかの主様よ!? こうしてきちんと砂糖を買ってきたというのに!」

「うっせ。ほら、もう出来てるぞ」

「わぁい♪ のぅのぅ聖女よ、わしが居らぬ間に主様と何を話しておったのじゃ?」

「いつも通りのくだらない会話さ」


 喜びを体全体で表し席に着いた魔王の目の前に真っ白な珈琲を差し出し、変わりとばかりに買ってきた砂糖を受け取り中身を確認する。

 紙袋の中に入れられていた砂糖、いや、砂糖の割には何かがおかしい。試しに指先の鋭い爪で軽くすくって口の中に入れてみる。すると砂糖の筈の白い粉からは甘みは味わえず、代わりにやってきたのは海の香りと痛いほどの辛み。


 間違いなく、塩だ。


「…………」

「む? どうかしたのかの主様?」

「………いや、お疲れさん」


 満面の笑顔で珈琲もどきを飲む魔王に怒る気も失せ、とりあえず給料から引いておこうと溜飲を飲み込んだ人狼の主人は、こちらを見てあざ笑うかのように微笑を浮かべている聖女に目を細めた。


「なんだ聖女」

「いや? 店主は店主で、なかなかに大変なのだなと思ってな」


 聖女は先ほどまでの仕返しであるとばかりに素知らぬ振りで世界を表した珈琲を傾け、その甘く優しい味わいに吐息をつく。そんな二人に、魔王はよく分かっていない表情を隠すこと無く顕わにし、首をかしげて眺めていた。


 今日も今日とて平和は続く。

 ここは普通の喫茶店。

 他と少し違うのは、人狼の主人と、魔王の従業員。そして魔族の敵ながら、魔族の地で珈琲を嗜む聖女。

 今日も小さな喫茶店からは、薫り高い珈琲の香りを街道へと送り続けていた。

こちらの作品は人狼と魔王と喫茶店の話の続きとなっております。

作品の設定にはifを書いていただいた白笹那智様の設定を盛り込んでおりますのでぜひそちらもお読みください。


人狼と魔王の喫茶店→http://ncode.syosetu.com/n3944cl/


人狼と魔王の喫茶店if→http://ncode.syosetu.com/n9348cl/


白笹 那智様のユーザーページ→http://mypage.syosetu.com/490384/

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― 新着の感想 ―
[良い点] せ、聖女がバイオレンスー! 聖女に人間らしさが追加されましたね。 私はコメディーパートを書くのはあまり得意ではないので、ノリ良くかけるのが羨ましいです。良い掛け合いですね! 人狼の立ち位置…
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