絶望と、希望と
真っ暗な闇の中、一人の少女は本を読む。
明かりもない、窓もない、電球もない真っ暗な中で、パラパラと本をめくる音だけが聞こえる。
本には様々な事が記されている。
時には愛情を。時には希望を。時には憎悪を。時には殺意を。
本を読み、本の内容を経験に置き換え、記憶として蓄積し、蓄えて。
「こんなお話がありました」
少女は淡々と文を読む。椅子らしきものに座り、足をぶらつかせながら、たった一人で。
何度も何度も別の本を手に取って、読み終わったらまた別の本を。
少女は退屈だった。何故自分がここにいるのかも、一人なのかも知らなかった。
知りたいとも、思わなかった。
読んだ本の中には自らの犠牲で人を救ったり、また、自らの望みのために他人を害したり。
幸せになった人間の裏で、犠牲になっている人もいた。
物語は、様々な人間の在り方を訴えているものもあれば、人間と言うものをとことんまで突き詰めたものもあった。
ただ、少女は退屈だった。
希望が絶望に変わる。そんなありきたりな事を知りたいのではない。
愛情が憎悪に変わる。そんな単純な事を知りたいのでもない。
失望を、希望を、愛情を、憎悪を、殺意を。
そんな単体の感情を知りたいわけでもない。そんなもの、もう読みつくしているのだ。
かといって、少女自身も、自分が何を求めているのかは分からなかった。
ただ、これじゃない、これでもない。というのが分かるだけ。
ふと、少女の手の甲に固いものがあたる。
それは古い装丁の本だった。しかし、全く開かれた跡がない。
これは売れなかった本なのだな、と少女は思った。
少女が持っている本はどれも古く、人に読み古されたものばかりだ。
だからこそ、古いわりに開かれたことのないこの本は不評だったのだとわかる。
少女はその本を手に取り、ゆっくりと開いた。
物語は、こんな冒頭だった。
人はなぜ人を愛するのだろう?
人はなぜ人に希望を求めるのだろう?
人はなぜ人を憎むのだろう?
人はなぜ人を殺すのだろう?
愛した結果、海の泡になってさえ。
希望を求め、絶望してまで。
憎んだ末に、自分まで殺して。
殺した結果、悲しむくせに。
それは、今まで少女が読んだどの本よりも真摯に少女に訴えかける。
同時に、とても馬鹿げた内容だった。
一人の化け物は、一人の少女にこう言いました。
「悲しいのです。一人が寂しいのです。なのに、僕はいつも一人なのです」
涙を流しながら、化け物はただただ訴えます。少女は不思議そうに首を傾げ、こう返しました。
「なら、誰かの傍にいればいいじゃない。あなたはとても怖い姿をしているけれど、あなた自身は怖くもなんともないのだから」
少女の言葉に、化け物は顔を上げました。涙に濡れた顔で、さらに涙をこぼしました。
「それが出来たらなんと幸せな事だろう。僕は僕が化け物であることを誰より知っているのです。こんな醜い僕に、誰が傍にいたいと願うでしょう」
「そうね、その意見は最もね。でも、世界は広いわ。あなたの傍にいたいと願う物好きが、きっと現れるでしょうよ」
少女は化け物に同情しているわけではありませんでした。ただ少女も一人で、退屈だったのです。
少女は一人が寂しいと思うことはありません、悲しいと思うことはありません。
少女は悪魔だったからです。化け物よりも残酷で、化け物よりも冷酷でした。
しかし、そんなことを化け物は知りません。化け物は望みました。少女が共にいてくれる事を。
「そういうんなら、どうか、君が僕と一緒にいてよ。君は僕が怖くないでしょう?」
「嫌よ。面倒くさいわ」
少女はあっさり言って退けました。化け物は絶望に打ちひしがれました。
しかしそんな化け物の事も、少女はこう言って退けてしまうのです。
「私はあなたと一緒にいるなんでごめんよ。確かにあなたは怖くないけど、あなたの姿は醜いわ」
化け物は悲しむと同時に思いました。ならば声などかけてくれなければ良かったのに、と。
そんな化け物のことなど気にしないとでもいうように、少女は続けて言いました。
「悲しむあなたは面白いわね。自分が化け物と知っているくせに、人との共存を望むなんて。でも、いい退屈しのぎにはなったかしら。もう、私は行くわね」
そう言って背を向けた少女の事を化け物は憎みました。化け物は話しかけられたことが何よりも嬉しかったのです。
それが暇潰しだったと知り、化け物は怒りました。
その感情のままに鋭利な爪を、少女の背に突き立て引き裂きました。
悪魔であった少女は、それでも淡々とした表情でこう告げるのです。
「さよなら。おめでとう、これであなたは本物の化け物ね」
少女は灰になって風に消えてしまいました。
化け物は泣き叫びました。
少女への憎悪を、怒りを、悲しみを、絶望を、失望を。
何よりも、初めて人を殺してしまった事実に。少女は悪魔だったが、化け物にとっては人間だったのです。
人を殺してしまった事実は化け物を苛み、侵し、ついには殺してしまいました。
しかし、最後に化け物は笑いました。これであの子と一緒にいられる、と。
穏やかに微笑んだまま、化け物は静かに眼を閉じました。
パタン、と本を閉じた少女は首を傾げながら思った。
この化け物は何がしたかったのだろう、と。
自分で絶望して、悲しんで、なんと馬鹿げた化け物だろう、と。
しかし、どの物語よりも少女の胸に残るものだった。
そして、なんとなく思った。この本には、自分が欲しいものが書かれている。
絶望や失望が希望に変わる。ありきたりな内容。
しかし、それだけではない。普通なら、化け物は苦しみの中で死んでもよさそうなものだ。
死ぬその時まで少女をその手にかけたことを苦しみ、悲しみ。
己にそんな思いをさせる悪魔を憎むはず。それなのに、化け物は笑っていたという。
自分が殺した少女の元に行けることを喜んで。
少女は真っ暗な闇の中、一人呟いた。
「人間とは、なんと複雑な生き物だろう」
しばらく、少女はその本を眺めていた。
「化け物は…許したのだろうか」
そして、ぽつりと呟く。
未だに考えはまとまっておらず、もやもやとした曖昧な感情が燻っている。
少女は静かに眼を閉じ、考えた。
化け物の孤独を。話の中に孤独と言う単語は出ては来なかった、が一人だったというなら化け物は孤独だったのだろう。
その孤独を、化け物は諦め、同時に受け入れていた。しかし、それでも寂しいのだ。
一人が悲しくて、寂しい。そうこぼした化け物。そして、それを眺める悪魔の事を考えた。
悪魔は物語に書いてあったように、悪魔本人が言ったように、化け物と話したのは、本当に暇つぶしだったのだろうか。
一人が寂しくないものなどいるのだろうか?
そこで少女は目を開けた。
「一人が寂しくない人など、いるのだろうか…。私は、私は…こんなに、寂しいと言うのに」
もしかしたら、と少女は考える。
悪魔は、わざと化け物に殺されたのではないかと。
悪魔自身も、一人に疲れていたのかもしれない。だからわざと化け物を傷つけるような事を言ったのではないか。
化け物も、もしかしたらそれに気づいていたのかもしれない。
だから、悪魔を殺してあげたのかもしれない。でも、そこで化け物は気づいてしまったのだ。
これでまた自分は一人だということに。それが悲しくて、化け物は叫んだのでないか。
そしてその悲しみに耐えられず、自分自身を抉ったのかもしれない。
そして死ぬ直前に思ったのだ、あの子の傍に行けるなら、もう一人ではないと。
この物語は、絶望に隠れた、希望の話なのかもしれない。
少女は満足げに笑って、本をそっと抱きしめた。これが自分の希望かもしれない。
そう静かに思いながら、少女はゆっくりと、瞳を閉じた。