雨の日の文官
雨の日だけ書庫に来る人と、それを見ている人の話。
雨の日に限って、彼女は来る。
最初に気づいたのは、春の終わりだった。
王城の書庫は私の管轄だ。
出入りする者の顔は、大方覚えている。
文官、学者、ときどき暇を持て余した貴族。
書庫に用がある人間の種類は、そう多くない。
だから、見慣れない影が棚の間を歩いていれば、すぐにわかる。
薄い灰紫のドレス。
控えめな装飾。
帽子は被らず、薄い外套を肩にかけている。
顔は横からしか見えなかったが、若い女性だった。
書庫の利用台帳を確認した。
名前はない。
記帳せずに入ったのだ。
不審——と言いたいところだが、
書庫は王城の職員と許可を受けた貴族に開かれている。
記帳は義務ではなく慣例だ。
破ったところで叱責する根拠がない。
私は彼女の動きを目で追った。
禁書の棚には近づかない。
機密文書にも触れない。
奥の一角——寄贈書の棚の前で足を止め、一冊を抜き出した。
しばらく頁を繰り、また棚に戻して去った。
滞在時間は半刻ほど。
特に問題はない。
問題は、ないのだが。
二度目に彼女が現れたのは、次の雨の日だった。
偶然かと思った。
三度目も雨だった。
四度目も。
さすがに偶然ではないだろう。
私は管理机で、彼女が来るたびに帳面に記録をつけた。
日付、天候、滞在時間、手に取った本。
文官の性分だ。気になれば記録する。
それ以上の意味はない。
五回目の訪問で、ひとつわかったことがある。
彼女が手に取る本は、毎回同じだった。
『中央大陸の薬草と花卉——図解百選』。
寄贈書の棚の、下から二段目。
背表紙はすっかり色褪せている。
誰も読まない本だ。
寄贈されてから十年以上、貸出記録は一度もない。
植物図鑑としても古く、学術的な価値は乏しい。
なぜ、あの本なのか。
気になった。
いや、気にしすぎだとは思う。
文官が利用者の読書傾向を詮索するなど、越権も甚だしい。
だが、雨の日になると、
つい管理机から奥の棚へ目をやってしまう。
あの灰紫の影を探してしまう。
職業病だと思うことにした。
六度目の雨の日。
彼女はいつもの棚の前に立っていた。
本を抜き出し、近くの椅子に腰を下ろす。
頁を繰る手つきは、読んでいるというより、触れている。
文字を追う目の動きがない。
挿絵のある頁で、指先が止まる。
薄紫の花の図版だった。
そのとき、初めて彼女の顔を正面から見た。
目が赤かった。
私は視線を帳面に戻した。
見てはいけないものを見た気がした。
正確には、見ていいものだったかもしれないが、
この距離で見るべきものではなかった。
七度目の雨の日、私は一つの仮説に辿り着いた。
寄贈書の台帳を調べた。
『中央大陸の薬草と花卉——図解百選』。
寄贈者の名前がある。
エルザ・フォン・グリューネヴァルト侯爵夫人。
寄贈日は十二年前。
エルザ・フォン・グリューネヴァルト。
記憶を辿る。
三年前、王城の追悼記録に名前があった。
グリューネヴァルト侯爵夫人、病により薨去。享年四十二。
薬草と花を愛した侯爵夫人が、書庫に一冊だけ寄贈した植物図鑑。
——あの令嬢は、侯爵家の息女か。
だとすれば、すべて繋がる。
雨の日にだけ来るのは、晴れの日は庭にいるからかもしれない。
あるいは、雨の日にだけ母を思い出すのかもしれない。
どちらでも構わない。
彼女があの本を読んでいるのではなく、触れていた理由がわかった。
あの本は、母の手を通った本だ。
頁の隅に残る折り癖。
挿絵の余白に走る薄い鉛筆の線。
すべて亡き母の痕跡だろう。
私は帳面を閉じた。
これ以上調べる必要はない。
禁書に手を出していたわけでもない。
不審者でもなかった。
ただの——母に会いに来ていた人だった。
八度目の雨の日。
私はいつもの管理机に座り、帳面を開いていた。
雨脚が強い。窓の外が白く煙っている。
今日は来ないかもしれない、と思った。
この雨では馬車も出しにくい。
わざわざ書庫まで来る理由が——いや、彼女にとっては理由があるのだろう。
足音がした。
灰紫ではなく、今日は深い紺色のドレスだった。
外套の裾が濡れている。
髪にも細かい水滴がついていた。
傘を持っていない。
いや——正確には、傘を差さずに来たのだ。
侯爵家の令嬢が、この大雨の中を傘なしで。
理由は想像できた。
侍女をつけず、馬車も使わず、一人で来ている。
誰にも知られたくないのだ。
母の本を読みに来ていることを。
彼女はいつもの棚に向かった。
本を抜き出し、椅子に座る。
今日は、長かった。
頁を繰る速さがいつもより遅い。
指先が何度も同じ頁に戻る。
あの薄紫の花の図版。
窓を叩く雨の音だけが、書庫に響いていた。
やがて彼女は本を閉じ、棚に戻した。
丁寧に、元の位置に。
背表紙の向きまで揃えて。
立ち上がり、出口へ向かう。
私は帳面から顔を上げた。
雨はまだ止んでいない。
むしろ強くなっている。
声をかけるべきか、迷った。
迷って、やめた。
彼女の秘密に踏み込む権利は、文官にはない。
だが、傘なら。
傘を差し出すだけなら、それは文官の職務だ。
来訪者が雨に濡れるのを黙って見送るのは、管理者として不適切だ。
そういう理屈なら、立つ。
我ながら下手な言い訳だった。
だが、まあ、それでいい。
管理机の脇に立てかけてあった傘を取り、入口まで歩いた。
彼女は扉の前で立ち止まっていた。
雨を見ている。
出るに出られない様子だった。
横に並んだ。
彼女がこちらを見た。
近くで見ると、思っていたより若い。
二十歳前後だろうか。
母を亡くしたとき、まだ十七ほどだった計算になる。
目が合った。
私は何も言わなかった。
名前を尋ねもしなかった。
雨の日の書庫で何をしているのかも聞かなかった。
傘を差し出した。
それだけだ。
彼女は少し目を見開いた。
それから、傘と私の顔を交互に見た。
「……よろしいのですか」
初めて聞く声だった。
思っていたより低い。落ち着いた声だ。
「雨ですので」
それ以上は言わなかった。
言う必要もなかった。
彼女は数秒ほど迷って、傘を受け取った。
指が触れた。冷たい手だった。
雨で冷えたのだろう。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げて、雨の中へ出ていった。
傘を開く後ろ姿を見送った。
深い紺色のドレスが、灰色の雨に滲んでいく。
名前も聞いていない。
名乗ってもいない。
次の雨の日に、また来るかどうかもわからない。
管理机に戻った。
帳面を開き、今日の日付と天候を記入する。
滞在時間、長め。
手に取った本、いつもと同じ。
その下に、一行だけ書き足した。
「傘、貸出中」
我ながら、文官らしい記録だと思う。
翌週、雨が降った。
管理机に座り、帳面を開く。
窓の外は薄い灰色だ。
本降りではない。傘がなくても歩ける程度の雨。
足音がした。
灰紫のドレス。
いつもの外套。
そして、手に一本の傘。
彼女はまっすぐ管理机に歩いてきた。
これまで一度も、こちらに近づいたことはなかったのに。
机の上に、傘が静かに置かれた。
「お返しします」
「ご丁寧に」
彼女はわずかに会釈して、奥の棚へ向かった。
傘を手に取った。
柄に、小さな花が一輪、結ばれていた。
薄紫の、見覚えのある花だ。
あの図鑑の——あの頁の花と、同じものだろう。
私は花を外して、帳面に挟んだ。
押し花にするつもりはない。
ただ、記録のあいだに挟んでおくだけだ。
文官の帳面に花を挟む趣味はないが、
捨てる理由もなかった。
奥の棚から、かすかに頁を繰る音が聞こえる。
雨はまだ降っている。
私は帳面に視線を戻し、今日の天候を書き入れた。
「雨。傘、返却済。
付記——花、一輪」
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
それでは、また別の物語で。




