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雨の日の文官

作者: はるのあめ
掲載日:2026/06/29

雨の日だけ書庫に来る人と、それを見ている人の話。

雨の日に限って、彼女は来る。


最初に気づいたのは、春の終わりだった。

王城の書庫は私の管轄だ。

出入りする者の顔は、大方覚えている。


文官、学者、ときどき暇を持て余した貴族。

書庫に用がある人間の種類は、そう多くない。


だから、見慣れない影が棚の間を歩いていれば、すぐにわかる。


薄い灰紫のドレス。

控えめな装飾。

帽子は被らず、薄い外套を肩にかけている。

顔は横からしか見えなかったが、若い女性だった。


書庫の利用台帳を確認した。

名前はない。

記帳せずに入ったのだ。


不審——と言いたいところだが、

書庫は王城の職員と許可を受けた貴族に開かれている。

記帳は義務ではなく慣例だ。

破ったところで叱責する根拠がない。


私は彼女の動きを目で追った。

禁書の棚には近づかない。

機密文書にも触れない。

奥の一角——寄贈書の棚の前で足を止め、一冊を抜き出した。


しばらく頁を繰り、また棚に戻して去った。

滞在時間は半刻ほど。


特に問題はない。


問題は、ないのだが。





二度目に彼女が現れたのは、次の雨の日だった。


偶然かと思った。

三度目も雨だった。

四度目も。


さすがに偶然ではないだろう。


私は管理机で、彼女が来るたびに帳面に記録をつけた。

日付、天候、滞在時間、手に取った本。

文官の性分だ。気になれば記録する。

それ以上の意味はない。


五回目の訪問で、ひとつわかったことがある。


彼女が手に取る本は、毎回同じだった。


『中央大陸の薬草と花卉——図解百選』。

寄贈書の棚の、下から二段目。

背表紙はすっかり色褪せている。


誰も読まない本だ。

寄贈されてから十年以上、貸出記録は一度もない。

植物図鑑としても古く、学術的な価値は乏しい。


なぜ、あの本なのか。


気になった。

いや、気にしすぎだとは思う。

文官が利用者の読書傾向を詮索するなど、越権も甚だしい。


だが、雨の日になると、

つい管理机から奥の棚へ目をやってしまう。

あの灰紫の影を探してしまう。


職業病だと思うことにした。





六度目の雨の日。


彼女はいつもの棚の前に立っていた。

本を抜き出し、近くの椅子に腰を下ろす。

頁を繰る手つきは、読んでいるというより、触れている。


文字を追う目の動きがない。

挿絵のある頁で、指先が止まる。

薄紫の花の図版だった。


そのとき、初めて彼女の顔を正面から見た。


目が赤かった。


私は視線を帳面に戻した。


見てはいけないものを見た気がした。

正確には、見ていいものだったかもしれないが、

この距離で見るべきものではなかった。





七度目の雨の日、私は一つの仮説に辿り着いた。


寄贈書の台帳を調べた。

『中央大陸の薬草と花卉——図解百選』。

寄贈者の名前がある。


エルザ・フォン・グリューネヴァルト侯爵夫人。

寄贈日は十二年前。


エルザ・フォン・グリューネヴァルト。


記憶を辿る。

三年前、王城の追悼記録に名前があった。

グリューネヴァルト侯爵夫人、病により薨去。享年四十二。


薬草と花を愛した侯爵夫人が、書庫に一冊だけ寄贈した植物図鑑。


——あの令嬢は、侯爵家の息女か。


だとすれば、すべて繋がる。

雨の日にだけ来るのは、晴れの日は庭にいるからかもしれない。

あるいは、雨の日にだけ母を思い出すのかもしれない。

どちらでも構わない。


彼女があの本を読んでいるのではなく、触れていた理由がわかった。

あの本は、母の手を通った本だ。

頁の隅に残る折り癖。

挿絵の余白に走る薄い鉛筆の線。

すべて亡き母の痕跡だろう。


私は帳面を閉じた。


これ以上調べる必要はない。

禁書に手を出していたわけでもない。

不審者でもなかった。


ただの——母に会いに来ていた人だった。





八度目の雨の日。


私はいつもの管理机に座り、帳面を開いていた。

雨脚が強い。窓の外が白く煙っている。


今日は来ないかもしれない、と思った。

この雨では馬車も出しにくい。

わざわざ書庫まで来る理由が——いや、彼女にとっては理由があるのだろう。


足音がした。


灰紫ではなく、今日は深い紺色のドレスだった。

外套の裾が濡れている。

髪にも細かい水滴がついていた。


傘を持っていない。


いや——正確には、傘を差さずに来たのだ。

侯爵家の令嬢が、この大雨の中を傘なしで。


理由は想像できた。

侍女をつけず、馬車も使わず、一人で来ている。

誰にも知られたくないのだ。

母の本を読みに来ていることを。


彼女はいつもの棚に向かった。

本を抜き出し、椅子に座る。


今日は、長かった。


頁を繰る速さがいつもより遅い。

指先が何度も同じ頁に戻る。

あの薄紫の花の図版。


窓を叩く雨の音だけが、書庫に響いていた。


やがて彼女は本を閉じ、棚に戻した。

丁寧に、元の位置に。

背表紙の向きまで揃えて。


立ち上がり、出口へ向かう。


私は帳面から顔を上げた。


雨はまだ止んでいない。

むしろ強くなっている。


声をかけるべきか、迷った。

迷って、やめた。

彼女の秘密に踏み込む権利は、文官にはない。


だが、傘なら。


傘を差し出すだけなら、それは文官の職務だ。

来訪者が雨に濡れるのを黙って見送るのは、管理者として不適切だ。

そういう理屈なら、立つ。


我ながら下手な言い訳だった。

だが、まあ、それでいい。


管理机の脇に立てかけてあった傘を取り、入口まで歩いた。


彼女は扉の前で立ち止まっていた。

雨を見ている。

出るに出られない様子だった。


横に並んだ。


彼女がこちらを見た。

近くで見ると、思っていたより若い。

二十歳前後だろうか。

母を亡くしたとき、まだ十七ほどだった計算になる。


目が合った。


私は何も言わなかった。

名前を尋ねもしなかった。

雨の日の書庫で何をしているのかも聞かなかった。


傘を差し出した。


それだけだ。


彼女は少し目を見開いた。

それから、傘と私の顔を交互に見た。



「……よろしいのですか」



初めて聞く声だった。

思っていたより低い。落ち着いた声だ。



「雨ですので」



それ以上は言わなかった。

言う必要もなかった。


彼女は数秒ほど迷って、傘を受け取った。

指が触れた。冷たい手だった。

雨で冷えたのだろう。



「……ありがとうございます」



小さく頭を下げて、雨の中へ出ていった。


傘を開く後ろ姿を見送った。

深い紺色のドレスが、灰色の雨に滲んでいく。


名前も聞いていない。

名乗ってもいない。

次の雨の日に、また来るかどうかもわからない。


管理机に戻った。

帳面を開き、今日の日付と天候を記入する。


滞在時間、長め。

手に取った本、いつもと同じ。


その下に、一行だけ書き足した。


「傘、貸出中」


我ながら、文官らしい記録だと思う。





翌週、雨が降った。


管理机に座り、帳面を開く。

窓の外は薄い灰色だ。

本降りではない。傘がなくても歩ける程度の雨。


足音がした。


灰紫のドレス。

いつもの外套。


そして、手に一本の傘。


彼女はまっすぐ管理机に歩いてきた。

これまで一度も、こちらに近づいたことはなかったのに。


机の上に、傘が静かに置かれた。



「お返しします」



「ご丁寧に」



彼女はわずかに会釈して、奥の棚へ向かった。


傘を手に取った。

柄に、小さな花が一輪、結ばれていた。

薄紫の、見覚えのある花だ。


あの図鑑の——あの頁の花と、同じものだろう。


私は花を外して、帳面に挟んだ。


押し花にするつもりはない。

ただ、記録のあいだに挟んでおくだけだ。

文官の帳面に花を挟む趣味はないが、

捨てる理由もなかった。


奥の棚から、かすかに頁を繰る音が聞こえる。


雨はまだ降っている。


私は帳面に視線を戻し、今日の天候を書き入れた。


「雨。傘、返却済。

付記——花、一輪」

最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

それでは、また別の物語で。

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