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婚約破棄ざまぁシリーズ

断罪されるはずの悪役令嬢、隠しキャラのせいで女王になりました

掲載日:2026/03/07

 ガシャン、と陶器が砕ける高い音が、騒がしい学園の第一食堂を静まり返らせた。

 足元には、無残にぶちまけられたトマトシチュー。

 公爵令嬢としての誇りであるはずの白い制服、そのひだの多いスカートの裾が、どろりとした赤色に汚されていく。


「無様だな、エルゼ! 貴様、今度はミアに何をするつもりだった?!」


 第一王子、アラル・ド・ヴァルモントが勝ち誇ったように私を指差した。

 その隣では、わざとらしく尻餅をついて見せたミア・ルフレシアが、上目遣いに涙を浮かべている。


「ひどい……エルゼ様、私、ただ殿下の隣に座りたかっただけなのに……っ」


 ミアの震える声。周囲の生徒たちの蔑みの視線。

 その瞬間――熱いシチューが肌に染みる不快感と共に、脳内で何かが弾けた。


(……ああ、思い出した。私、これ知ってるわ)


 溢れ出してきたのは、ここではないどこか、現代のオフィスでの記憶。

 徹夜で仕上げたプロジェクト。泥臭い調整。積み上げた実績。

 それら全てを「愛嬌」と「綺麗事」だけでかっさらっていった、あの無能な部下の顔。

 上司にすり寄り、私のミスを捏造し、最後には私を「チームの輪を乱すお局」として放逐した、あの忌々しい光景。


(またなのね。……また、実力のない『お気に入り』が、必死に生きてる人間の居場所を奪うのね)


 どろりと濁っていた私の瞳に、極低温の理知が宿るのを自覚した。

 ミアがここで図々しく隣に座ろうとして私の怒りを買う。それは、この乙女ゲームにおける中盤の重要イベントフラグだ。

 そうと分かった今、もはや王子への恋心など欠片も残っていない。あるのは、二度と踏みにじられないための、剥き出しの生存本能だ。


(破滅する側は、もう終わり。なら――破滅させる側に回るまでよ)


 私は公爵家とはいえ王家の血を引く分家——私にも、継承順位はある。

 だからこの婚約は飾りじゃない。後ろ盾の薄い殿下を補強するための政治案件だ。


「……ご懸念には及びませんわ、アラル殿下」


 私は、汚れを拭うこともせず、ゆっくりと背筋を伸ばした。

 王子は、私の無反応を「絶望」だと勘違いして鼻を鳴らしたが、違う。私はただ、目の前の男を「コストに見合わない不良債権」だと判断しただけだ。

 王子の背後に隠れたミアが、私にしか見えない角度で、醜悪な勝ち誇り顔をしている。

 彼女がこの世界の「ヒロイン」で、私が「悪役」?

 ……笑わせないで。ビジネスの世界なら、真っ先にリストラ対象よ、貴女。


「私、何もいたしませんもの。……ただ、少しだけ『お掃除』が必要だと感じただけですわ」


 優雅に一礼し、私は踵を返した。

 王子の罵声も、ミアの芝居がかった泣き声も、もはや不快なノイズにすらならない。

 私が向かったのは、食堂の最も暗い片隅。

 生徒たちが「薄気味悪い特待生」と遠巻きにしている、常に一人で読書をしている男のテーブルだ。

 この学園で唯一、誰の派閥にも属さず、影で全ての情報を握る天才。

 本来の筋書きなら、私を破滅へ導く黒幕――隠しキャラのヴィンセント・ナイトレー。


「……こんにちは、私の詐欺師さん。退屈な学園生活に、刺激的な『共犯』は欲しくなくて?」


 私は、彼の向かいに音もなく座った。

 ヴィンセントは本から目を離さず、口端だけを凶悪に吊り上げた。


「おや……エルゼ様。シチューまみれのスカートで何を言い出すかと思えば。あのアホ面の横で、お人形のように微笑んでいるのに飽きましたか?」

「ええ。今の私は、とても気が短いの。……ヴィンセント様。貴方の学歴詐称と、その裏にある『本当の年齢』……私は高く評価しているわ」


 ヴィンセントがようやく顔を上げ、私を凝視した。

 ミアがどんなに媚びを売っても動かなかったその瞳が、獲物を見つけた獣のようにギラリと光る。


「……ほう。孤児院の記録まで洗いましたか。ミア様は『可哀想な貴方を癒やしたい』と涙を流してくれましたが?」

「吐き気がするわ。同情なんてコストの無駄。……私は貴方を雇いたい。貴方に、最高の玉座を見せてあげる」


 ヴィンセントはしばし私を凝視し、やがて低く笑った。


「……いいでしょう。甘い餌より、剥き出しの毒の方がよっぽど食欲をそそる。……好きに呼びなさい、エルゼ。今の私は、貴女の『ヴィンス』だ。……さあ、誰から消しますか? マイ・レディ」

「まずは継承権第四位のオーウェン公爵から。……アラル殿下が、自分で自分の首を絞めるための『階段』を用意して差し上げて?」

「もちろんですとも。ただし、捨てるのは許しませんよ。……雇った以上、最後まで責任を取ってもらう」


 断罪の卒業式まで、あと半年。

 私の前には、四人の障害。

 一人につき一ヶ月半――。

 この汚れた裾を、王族の血で洗い流すには十分な時間だ。




「……それで? 最初の『お掃除』の標的は、あの堅物ですか」


 深夜の図書室。月光が差し込む書架の影で、ヴィンスは低く笑った。

 学園では「根暗な特待生」を演じている彼の指先は、今、王家の極秘家計簿や貴族のスキャンダルが記された羊皮紙を、鍵盤を叩くように軽やかに操っている。


「オーウェン公爵。王位継承権第四位。軍部に太いパイプを持ち、冷静沈着な男です。アラル王子にとっては、本来最も頼りになるはずの『盾』ですが?」

「ええ。だからこそ、真っ先に外して差し上げるの」


 私は、汚れを落としたばかりの制服に身を包み、彼が差し出した報告書に目を通す。

 前世のオフィスで、私を追い落としたあの部下を思い出す。あいつもそうだった。実力のある先輩を「自分の出世の邪魔」だと勘違いして、上司に讒言して排除した。その結果、チームの業務が回らなくなって崩壊したことにも気づかずに。


(……アラル殿下。貴方も、同じ愚を犯すのよ)


 病床の国王は、半年で「次期王の資質」を示せと迫っている。――殿下が焦るには十分だ。


「ヴィンス。オーウェン公爵が最近、軍の近代化のために動かしている予備費。……あれを、殿下に『偶然』見つけさせて。……殿下は今、病床の国王陛下から成果を急かされているわ。飛びつくはずよ」

「汚職ではありませんが、手続きが強引ですからね。――なら、匿名など使いません」

「……どうするの?」

「殿下の側近に持ち込ませます。表向きは忠臣、裏では監査側の駒。『近代化の不正を突けば、陛下に成果として示せます』と功績の形で売り込む」

「殿下は?」

「成果に飢えています。精査より先に、見栄えのいい結論を選ぶでしょう。……そして、署名は殿下自身がする。こちらの手は汚れない。――戦時条項なら、なおさら」




 一週間後。食堂には王子の高笑いが響いた。


「聞いたか、ミア! 我が国の軍部に巣食う膿を、この俺が暴いてやったぞ!」


 アラル王子が、特等席でふんぞり返りながら、ミアの手を握って高笑いしている。

 周囲の生徒たちは、何事かと耳を立てていた。


「まあ、殿下! すごいですわ! 悪い人をやっつけちゃうなんて、まるで物語のヒーローみたい!」

「ははは! オーウェン公爵の奴、軍の予算を勝手に動かして私兵を募っていたのだ。父上に報告したら、即座に謹慎と継承権剥奪が決まったよ。あんな危険な男、王家に置いておくわけにはいかないからな! これで父上も、俺を認めざるを得まい!」


 王家監査局の三重承認を、戦時名目だけは飛ばせる条項。

 迅速化のための刃——私が整備したそれを、殿下は玩具みたいに振り回している。

 アラルは、自分の「知略」を褒め称えるミアに鼻を高くしている。

 だが、事実は違う。オーウェン公爵は、隣国との緊張に備えて独断で防衛線を整えようとしていた、王家への忠誠心が最も厚い男だった。

 それを、アラルは「反逆の芽」だと決めつけ、自らその最強の盾を粉砕したのだ。


(……お見事ですわ、殿下。これで貴方を守る軍の剣は、一本折れましたわね)


 私は離れた席で、冷めた紅茶を口にする。

 オーウェン公爵という「実務家」がいなくなったことで、今後、軍部の支持は一気にアラルから離れるだろう。


「……見てくださいよ、あの王子の顔。自分の首を絞める縄を、金色の鎖だと勘違いして喜んでいる」


 背後の影から、ヴィンスの低い声がした。

 彼は本を読んでいるふりをして、口元を愉悦に歪めている。


「一石二鳥ね。殿下の手柄になれば、彼はますます増長して、周囲の声を聞かなくなるわ」

「ええ。では、次は第三位……保守派の重鎮、カスティエル王弟閣下を『お掃除』しましょうか。……あちらは女癖が悪い。殿下が最も嫌う『不潔な悪』として、最高の餌を用意しましょう」


 私は、窓の外に広がる王城を見つめた。

 一段、また一段。

 アラルが喜んで「不要だ」と切り捨てた石を積み上げて、私は玉座への階段を作る。


「……ふふっ。あはは……っ!」


 思わず、小さな笑いが漏れた。

 前世では、奪われるだけだった。

 けれど今は、無能が自滅していく様を、特等席で眺めていられる。


「……お嬢様。いい笑顔だ。……そのまま、地獄までエスコートしましょう」


 ヴィンスの瞳が、狂気を孕んでギラリと光った。




「……嘘よ。こんなの、絶対にありえないわ!」


 学園の放園。人気のない中庭で、ミア・ルフレシアがヒステリックに叫んでいた。

 彼女の目の前には、かつて「騎士団の若き獅子」と称えられたオーウェン公爵令息が、力なく立ち尽くしている。


「すまない、ミア。父上が……あのアラル殿下に反逆の疑いをかけられ、公爵家は取り潰しに近い減封となった。俺も、近衛騎士団への入団は白紙だ。……君を幸せにする資格が、今の俺にはない」

「そんなの困るわよ! 貴方が騎士団長になって、私を守ってくれないと……っ!」


 ミアの口から漏れたのは、愛の言葉ではなく、損得勘定の悲鳴だった。

 公爵令息は、最愛の人が見せたあまりに現金な態度に、氷水を浴びせられたような顔で去っていった。


(……あら、お気の毒に。攻略本通りに進まなくて、パニックかしら?)


 私は校舎の窓から、その無様な光景を見下ろす。

 隣に立つヴィンスが、楽しげに耳元で囁いた。


「お見事。親のオーウェン公爵を叩いただけで、息子まで芋づる式に無力化しましたね。ミア様は、彼の『ステータス』を愛していただけですから、あんな顔になる」


 ヴィンスは、窓の外で泣き崩れるミアと絶望する公爵令息を指して、愉悦に肩を揺らしている。


「ええ。前世の無能な部下もそうだったわ。自分を引き立ててくれる上司が失脚した途端、泥船から逃げようとして自爆した。……人間、追い詰められた時こそ本性が出るものね」


 私は感情の失せた瞳で、かつての自分を追い落とした組織の縮図を眺める。

 ミア・ルフレシア。彼女は「攻略対象」という名の高スペックな部品を集めているだけで、その中身にはこれっぽっちも興味がない。だから、部品が壊れた途端に「欠陥品」として投げ捨てるのだ。


「……で、オーウェン家には?」

「次の席を渡したわ。沈ませた分だけ、浮上する場所も用意してある」

「救済込みの粛清、か。……情じゃなく、利で縛る」

「有能な人間に必要なのは、同情じゃない。適切な権限と、正当な評価よ」


 二人で冷徹な笑みを交わし、私は影の中へと歩き出した。




 数日後。学園は、王位継承権第三位・カスティエル王弟殿下による「特別視察」の対応に追われていた。

 表向きは学園の予算執行状況の確認。だが、その裏で手綱を引いたのは私だ。ヴィンスを通じて、「学園には稀代の美少女である聖女がいる」という情報を、女癖の悪い彼に吹き込ませておいた。

 かの王弟は無垢で清らかな娘が好み――そういう手合いだと、ヴィンスは笑っていたかしら。


(……獲物は、放っておいても餌の場所へやってくるわ)


 視察の合間、人目を忍んで休憩室へと向かったカスティエル。そこには私が「聖女への聞き取り」と名目を通し、伝令役の生徒を使って向かわせたミアが待っていた。

 ……密室、権力者、そして無知なヒロイン。

 本来のゲームなら、アラルが間一髪で助け出し、二人の絆が深まる「救出イベント」だ。


(ええ、予定通りに助けに来て差し上げて、アラル殿下。……ただし、その後の『見せ方』だけは、私流に変えさせてもらうわよ)


 案の定、アラルが扉を蹴破り、ミアを救出した。

 ここまでは「原作通り」だ。だが、その直後の第一食堂。

 ミアは全生徒が見守る中、アラルに縋り付いて泣き叫んだ。


「殿下……! 私、怖くて……! 視察に来られた叔父様に、無理やりあんな場所に……! 王家の方が、公務の最中にあんな破廉恥なことをするなんて信じられません……っ!」


 食堂が、氷を叩きつけたような沈黙に包まれる。

 ……公務中。それも、学園という公共の場で起きた醜聞。

 アラルはミアの涙に突き動かされ、騎士のような顔で彼女の肩を抱き寄せた。


「安心しろ、ミア! 私が君の、そしてこの国の正義を守る! 公務を汚し、君を傷つけた叔父など、もはや身内とは思わぬ! 父上に奏上し、叔父上を貴族院から叩き出す!」


 周囲の生徒たちからは喝采が上がる。

 だが、私は離れた席で、冷めきった紅茶を眺めながら溜息を吐いた。


(……救いようのない、大馬鹿者ね)


「お嬢様、見ましたか。あの素晴らしい『公開処刑』を。……王家が自ら、公務中の不祥事を、公衆の面前で大々的に認めるなんて」


 影から現れたヴィンスの声には、隠しきれない嘲笑が混じっている。

 カスティエルの悪癖は周知の事実だが、それは「裏で処理されるべき瑕疵」だった。それを、あろうことか「聖女」が公衆の面前で糾弾し、王子がそれに乗っかった。


(王家の醜聞を自ら拡散し、権威を泥に塗った。……アラル殿下、貴方は今、叔父を裁いたのではない。王家そのものの『管理能力』が欠如していると、全世界に宣伝したのよ)


「殿下! カスティエル閣下を即座に排斥するなど暴挙です! 閣下がこれまでどれほど貴族間の調整を……!」


 慌てて詰め寄った保守派の重鎮たちに対し、アラルはミアを庇いながら、これ以上ない「最悪の宣言」を放った。


「黙れ! 叔父の肩を持つ者も、ミアを疑う者も皆敵だ! 私の正義を否定するなら、その席から叩き落としてやる!」


 その瞬間、貴族院の実力者たちの目が、一斉に冷え切った。

 彼らが守っていたのは「内々のルール」だった。それを、色恋に狂った王子が「正義」という名の独りよがりで踏みにじった。


(前世でもいたわ。「コンプライアンス」を免罪符に、長年会社を支えてきた協力会社との『阿吽の呼吸』をぶち壊し、結果として全取引先を敵に回した、あの若造の二代目……)


「……滑稽ですね。聖女の清らかさが、王家の基盤を一番汚い形で破壊した。……さて、これで軍部に続き、貴族院も全滅。残る柱は、あと一本だけだ」

「ええ。……次に行きましょう、ヴィンス。……『有能な弟』が、この惨状を見て絶望する前に」


 私は夕暮れに染まった王城を見つめた。

 その夜、カスティエル王弟に「謹慎」と「貴族院出入り停止」が下ったと報せが入る。「公務中の醜聞による体面毀損」——その名目で。

 ヴィンスとグラスを合わせ、ひそかに笑った。

 ——さあ、アラルが「正義」を誇るたびに、玉座を支える脚が一本ずつ腐り落ちていく。




「……さて、盤上もいよいよ大詰めですね。最後の一人、王位継承権第二位。シグルド・ド・ヴァルモント殿下です」


 深夜の資料室。

 ヴィンスが広げたのは、王宮の警備配置図と、シグルド王子が密かに軍部の生き残りと交わしていた書簡の写しだった。


「シグルド殿下は現実主義者だ。兄のアラル殿下が、オーウェン公爵や王弟閣下を次々と切り捨てる暴挙を見て、本気で危機感を抱いています。彼は今、独断で軍の再編に動き、王家の崩壊を食い止めようとしている。……正論ですが、アラル殿下から見れば?」

「『無能な兄を廃して、自分が王座を奪う準備をしている』……そう見えるわね」


 私は、シグルド王子の端正な署名を指でなぞる。

 彼は有能だ。前世の職場にも、一人だけまともな後輩がいた。私を助けようとしてくれたけれど、結局、無能な上司に「反抗的だ」と目をつけられて一緒に飛ばされた。


(……シグルド殿下。貴方の「正しさ」が、アラル殿下には毒なのよ)


「覚書は本物のまま。添付の要約だけ王位簒奪の準備に読める形で整えて。……人は本文じゃなく、結論から信じるものよ」

「御意。……アラル殿下は、自分より優秀な弟を心の底で恐れている。この火種は、一瞬で大火になるでしょう」




 数日後。学園に流れる空気は、これまでにないほど冷え切っていた。


「……シグルド、お前まで私を裏切るのか!」


 アラル王子の震える声が食堂に響く。

 彼は血走った目で、手元の報告書を握りしめていた。そこには弟が自分を廃位しようとしているという「決定的な証拠」が記されている。ヴィンスが、アラルの猜疑心を煽るためだけに「加工」した毒入りの真実だ。


「兄上! それは捏造です! 私はただ、今のままでは我が国が……!」

「黙れ! お前はいつもそうだ! 私を馬鹿にし、陰で嘲笑い、隙あらばこの座を奪おうとしていた! ……衛兵! この反逆者を拘束しろ!」


 アラルの怒声に応じ、食堂の入り口に控えていた学園の衛兵たちが、戸惑いながらも一歩踏み出した。

 本来、王族を拘束するなど不敬の極みだが、第一王子の絶対的な命令に逆らえる者はここにはいない。

 オーウェン公爵という盾を失い、王弟という重鎮を欠いた今、学園も王宮も、アラルの暴走を止める「ブレーキ」を失っていた。


 衛兵たちがシグルドの肩を掴もうとした、その時。

 シグルドは抵抗を止め、真っ直ぐにアラルを見据えた。


「兄上。貴方は利用されている」


 その言葉に、アラルの目が一瞬だけ大きく揺れた。

 静まり返る食堂。

 最近、自分の「決断力」を異常なまでに褒めそやす側近の顔や、ミアの甘い囁きが、ノイズのようにアラルの脳裏を過ったはずだ。

 ……自分は、誰かに踊らされているのではないか?

 その疑念が、アラルの表情を一瞬だけ「迷える少年」に戻した。


(……あら、気づきそうかしら?)


 私は離れた席で、冷めた紅茶を口にする。

 だが、その揺らぎこそが、プライドの高いアラルにとっては最大の屈辱だった。

 弟に憐れまれ、己の無能を指摘される。それは、彼が最も恐れていた事態だ。


「……黙れ……黙れッ! 私を侮辱するか! 衛兵、何をしている、この反逆者を今すぐ連れて行け!!」


 揺れは、即座に猛烈な拒絶へと変わった。

 アラルは自ら耳を塞ぐように叫び、自分を現実に引き戻そうとする唯一の声を、暴力で封殺した。

 シグルドは、もはや兄に言葉が届かないことを悟り、絶望に満ちた目で引きずられていく。

 その去り際、彼は私と目が合った。

 私は、一切の感情を排した無表情で、彼を見送った。


(……これで最後。アラル殿下、貴方を支える骨組みは、もう一本も残っていませんわ)


 シグルド殿下の追放と継承権剥奪は、その日のうちに決定した。

 アラルは「王位を狙う反逆者の弟を仕留めた」と興奮し、ミアと祝杯を挙げている。

 だが、その祝宴の噂を耳にする学園の騎士たちの目は、かつてないほど冷ややかだった。


「……おめでとうございます、お嬢様。第四位から第二位まで、見事に全滅。……残るは、あのアホ面一人だ」


 背後の影から、ヴィンスが静かに現れる。

 彼は、震える手でシグルドの罪状に署名するアラルを眺め、この上ない愉悦に目を細めた。


「軍部はエルゼ様に忠誠を誓い、貴族院は王弟を失って混乱の極み。そして唯一の対抗馬だった王子様も消えた。……アラル殿下の背後には、もう、何もありません」

「ええ。……自ら逃げ道を塞いでいく姿は、いつ見ても滑稽ね」


 窓に映る自分の姿を見つめる。

 スカートの裾に飛んだシチューの汚れは、もうどこにもない。

 けれど、あの日の屈辱だけは、今も鮮明に焼き付いている。


(さあ、パーティーを始めましょう。……アラル殿下、貴方が一番高い場所に立った瞬間に、梯子を外して差し上げますわ)




 卒業パーティーの会場は、異様な熱気に包まれていた。

 ……少なくとも、壇上のアラル王子と、その傍らでピンクのドレスを揺らすミアにとっては。


「……緊張しているのですか、我が女王?」


 影から現れたヴィンスが、私の手袋の端を指先でなぞる。


「震えていたら、見抜かれますよ」

「震えていないわ」

「では、俺が代わりに震えます。――貴女を失う可能性だけは、許せない」


 彼の囁きは冷たいのに、指先だけが熱を持っていた。


「もし失いそうになったら……貴女が嫌がっても、俺が攫う」

「ええ、期待しているわね」


 ――次の瞬間。


「静粛に!」


 鋭い声が響き、音楽が止まる。

 アラルは勝ち誇った顔で、フロア中央に立つ私を指差した。


「エルゼ・フォン・シュライベル! 貴様は聖女たるミアを虐げ、王家の権威を汚し続けた。もはや看過できん。……今この時を以て、貴様との婚約を破棄し、国外追放を命じる!」


 会場がざわめく。

 ミアは「殿下、そんな……エルゼ様が可哀想ですぅ」と台本通りの台詞を吐きながら、その瞳には勝利の悦びが滲んでいた。

 私は静かに息を吸う。


「……追放。それは、王家としての正式な決定ですの?」

「当然だ! オーウェン公爵、王弟カスティエル、そして我が弟シグルド……。反逆者共をことごとく排除した今の私に、逆らう者などおらん! 父上も病床で伏せっている今、実質的な最高権力者は、この私なのだ!」


 アラルは胸を張り、会場を見渡す。

 私は、その姿を静かに見つめていた。


「……そうですか。ご自分の手で、支えを全てへし折った自覚はあるのですね」


 私が扇を閉じると同時に、会場の扉が開いた。その場にいた貴族たちが振り返り、一斉に凍りつく。

 そこには、王家直属査察官――ヴィンセント・ナイトレーが姿を現していた。


「残念ですが、アラル殿下。貴方が『正義』の名で行った一連の追放劇……その手続き自体は、貴方が王代理として署名したことにより、『継承権の永久放棄』として法的に完遂されています。……ですが」


 ヴィンスは冷笑を浮かべ、羊皮紙を広げた。


「提出された証憑を監査手続きに従い精査した結果、当該罪状はいずれも成立しません。――すべて、殿下の誤認です。……つまり、上位継承者たちは貴方の暴走によって『無実のまま権利を捨てさせられた被害者』となったのです。当然、彼らは貴方を支持しない。……そして」

「な、なんだと……!? 私は、確かにこの目で証拠を……!」

「誰かが置いた『嘘』に、馬鹿正直に食いついたのは殿下、貴方だ。……さて、アラル殿下。現在、第一位の貴方は『冤罪による国政混乱』の責任を問われ、資格を停止されました。そして第二位から第四位までは、貴方がご丁寧に『正式な手順』で継承権を剥奪済み。……わかりますか?」


 アラルの顔が青ざめていく。

 そう。オーウェンたち上位者は、私に救われた恩義はあれど、彼自身が「正式な書類」で彼らを葬ったせいで、もう王位には戻れない。


(……ええ。彼らには『公爵』や『元王族』としての名誉は返してあげる。でも、玉座は渡さない。……彼らを法的に再起不能にしたのは、他でもない貴方よ、アラル殿下)


 私は一歩、前へ出る。


「継承権第五位、エルゼ・フォン・シュライベル。消去法により、現在、私がこの国の『唯一かつ正当な第一位』ですわ」


 その瞬間、会場に控えていた軍の精鋭たちが一斉に跪いた。

 重い鎧の音が床に響く。


「嫌、嘘よ! こんなのイベントにないわ! 私がヒロインで、あいつは悪役で……!」


 ミアが崩れ落ち、叫ぶ。


「だって……努力なんて意味ないじゃない! 愛される方が早いし、楽で……みんなだって本当はそれが好きなくせに!」

「ヒロイン? 悪役? ……下らないわね、ミア様。ビジネスの世界では、ルールを正しく使った方が勝つのよ」


 彼女は物語にすがり、私は制度に立っている。

 胸の奥で、冷たい笑い声が鳴った。

 夢は、誰かが叶えてくれるものじゃない。まして、他人の努力を踏み台にしていい免罪符でもない。


「継承順位は第五位。――ですが、シュライベル公爵家は先王の血を引く直系に最も近い。加えて、国令の空白を埋められる実務を持つ。……評議会は、エルゼ様を第一位として承認した」


 ヴィンスがそう読み上げるのを聞きながら、私は腰を抜かして座り込むアラルを見下ろす。

 前世でもそうだった。無能な上司は、自分がクビにした部下の穴を誰が埋めるかも考えず、最後には自分の椅子さえ失くして泣き喚く。


「……連れて行きなさい。アラル殿下には、ご自分が壊した国を外側から眺める『平民』としての余生を。ミア様には、攻略本のない世界で、ご自分の足で歩く苦労を味わっていただきましょう」


 二人が引きずり出される。

 歓声も、悲鳴もない。ただ重い沈黙だけが残る。


 ヴィンスが私の手を取り、その指先に唇を寄せた。


「……お見事です、我が女王。上位者たちを『被害者』として味方に付けつつ、彼らの野心を法的に封じ込める。……これ以上の詰め将棋はありませんよ」

「ええ。……さあ、ヴィンス。汚れた制服はもう脱ぎましょう。……新しい王国の、忙しい朝が来るわよ」


 彼は私の手袋の上から、薬指にだけ口づけを落とす。


「――貴女の隣の席は、死ぬまでじゃ足りない。来世まで俺のものだ」


 シャンデリアの光が降り注ぐ中、私はかつて汚されたスカートの裾を翻す。

 あの日の屈辱は、決して消えない。

 けれど今、それは私を縛る傷ではない。玉座へと至るための、踏み台だ。

 ――だから私は、王になる。

トマトシチューは、服に飛ぶと本当に落ちにくいので気をつけてください。


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作者は数字で生きる生き物です。


それでは、次の一手でお会いしましょう。

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