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第一話 静かなる予兆

二月五日、午前七時三十分。


 久保田澪くぼた みおは、築地のマンションのベランダで冬の澄み切った空気を深く肺に吸い込んだ。隅田川の対岸に整然と並ぶ高層ビル群が、昇り始めた朝日に照らされ、冷徹なまでの輝きを放っている。キッチンに戻り、愛用の手挽きミルで豆を砕く規則正しい音。丁寧に淹れた珈琲コーヒーの香りが、彼女のプロフェッショナルとしてのスイッチを静かに入れる。お気に入りの紺色のスーツに袖を通し、鏡の前で一筋の乱れもなく髪をきゅっと結び直す。

「よし」と小さく呟くその声には、今日一日、数千万人の資産を預かる基幹システム「テミス」を守り抜くという、銀行員としての誇りと責任が宿っていた。


彼女が務める帝都中央銀行は、国内に四つしかないメガバンクの一角を占める。預金残高は百兆円を超え、取引先企業は数万社に及ぶ。日本の血液とも言える「円」を循環させる巨大な心臓部であり、その決済システムがわずか一秒停止するだけで、国全体の経済活動に数千億円の損失をもたらすと言われている。

 澪が担当する「テミス」は、その心臓の最深部を司る勘定系システムだった。彼女の業務は、単なる保守点検に留まらない。数秒間に数万件発生する為替、振込、預金引き出しといった膨大なトランザクション(取引処理)が、一円の狂いもなく、かつ遅延なく実行されるよう、そのロジックを監視・制御することにある。 特に、異なる銀行間での資金移動を制御する「全銀システム」との接続ゲートウェイの設計・運用は、彼女にしか務まらないと言われていた。もし彼女がロジックの一行を書き間違えれば、日本中のATMが停止し、企業の給与支払いが滞り、国家レベルのパニックが引き起こされる。彼女は文字通り、日本の経済秩序という「ことわり」を守る門番だった。


午前八時。大手町駅の長いエスカレーターを上がりきると、そこには規則正しい足取りで歩くビジネスマンの奔流があった。その流れの一部となりながら、澪は帝都中央銀行本店ビルの前に立つ。明治から続く重厚な石造りの外壁は、この国の信用クレジットを支えてきた歴史と自負を無言で語りかけてくる。


「おはようございます、久保田さん。今朝も冷えますね」

ゲートを通る際、警備員がと親しげに声をかける。


「おはようございます。風が冷たいですね」


そう返す笑顔。守衛との短い会話、エレベーターホールの独特の静寂、そして指紋認証をパスした先のサーバー室の冷気。これらすべてが、彼女にとってかけがえのない平穏な日常の断片だった。


 三階、DX推進部のフロア。


「おはようございます、先輩! これ、差し入れです」


 八時半ちょうど、後輩の佐藤が明るい声を上げてやってきた。手には温かい缶コーヒーが握られている。


「佐藤君、おはよう。昨日の深夜バッチの結果、エラーなしだったわ。あなたの修正案、正解だったわね」


「へへ、自信つきます。あ、そういえば昨日の夜、テミスの決済ログに一瞬だけスパイク――突出した異常値が出てたの気づきました? すぐ収まったんでノイズかと思ったんですけど」


「ええ、確認したわ。でも整合性に問題はなかった。心配しすぎよ」


「流石ですね。あ、そういえば、今日のお昼、裏通りのイタリアンに チームの皆で食べに行こうって話になってるんです、先輩もどうですか?」


「イタリアン……いいわね。あそこ行ってみたかったのよ」


 その頃、階下の営業部では、DX推進部の穏やかな空気とは対照的な「戦場」が始まっていた。


「おい、今月の貸出金(融資)目標まであとどれくらいだ! 取引先に頭を下げてでも数字を引っ張ってこい!」


 上司の怒号が飛び交う中、若手行員の田中は、目の前の端末に表示された未処理のメールと格闘していた。田中の心は磨り減っていた。連日の残業、達成困難なノルマ、そして顧客からの理不尽な要求。「ミスは許されない、だがスピードは上げろ」という組織の

不条理な圧力が、彼の冷静な判断力を奪っていた。


八時四十五分からの朝礼が終わり、フロアは一気に活気づく。電話の呼び出し音、プリンターの動作音、部下たちと交わす進捗報告。佐々木次長が「久保田さん、例のシステム移行計画、役員への説明資料は完璧か?」と信頼を寄せた声でかけてくる。数千万人の生活、数千億の資金。その巨大なことわりの最前線に立っているという高揚感。午前十時までは、確かにその幸福な時間が流れていた。


 十時二分。若手行員の田中の元に、一通のメールが届く。


件名『至急:振込先口座変更のご案内』。


差出人は、彼が必死に追いかけている大口顧客の財務担当者の名前だった。


「やっと来た……」


 田中は疑いもしなかった。本来ならドメインの真偽を確かめるべきだったが、彼の思考は「これでノルマに一歩近づける」という焦燥に支配されていた。彼は急ぎ、メールに添付されたマクロ付きの文書ファイルをクリックした。一瞬、画面が砂嵐のように揺れたが、すぐに正常に戻った。


「なんだ、エラーか?」


 田中が首を傾げたその瞬間、目に見えない猛毒が、営業部のネットワークを伝って行内システムの中枢へと這い登っていった。


 十時五分。三階のDX推進部。


監視中の澪の手が止まった。

「……何? このトラフィック(通信量)」


 通常、この時間に顧客データベースから外部へ巨大なデータの塊が流れ出すことは、論理的にあり得ない。


「佐藤君、監視モニターを見て! 出力。ポートが……制御不能よ!」


「えっ!? 嘘だろ、管理者コマンドが拒否される!

先輩、全端末がロックされました!」


 モニターが暗転し、鮮血のような赤い文字が画面を支配した。


Your data is encrypted. Payment Required in 48 Hours.

(データは暗号化した。四十八時間以内に支払え)


Amount: 200 Bitcoin.(約二十億円)


Don't call the police. We're watching.

(警察に連絡するな。我々はお前を見ている)


「ランサムウェア……」


澪の心臓が、喉元までせり上がる。


身代金ランサム」と「ソフトウェア」の造語。でも、見て……この英文の構文。テミスの最深部にある管理者権限スーパーユーザーが上書きされている。データをロックするだけじゃなく、盗み出した

情報を人質にするエクスフィルトレーション(情報の外部流出)まで実行されてるわ。……二重脅迫よ。

要求額は約20億円。48時間以内に用意しろっていう、銀行の信用を破壊するための罠だわ」


 さっきまでのランチの約束、コーヒーの香り、同僚の笑顔。それらが一瞬にして、遠い過去の出来事の

ように霧散していく。


緊急招集された取締役会議室。


 円卓の最上席には、帝都中央銀行の頂点、中条頭取が険しい表情で座っていた。その左右を遠藤常務、法務担当の専務らが固めている。


「……三十万件の顧客情報が人質に取られている」


中条頭取の言葉は重い。澪が警察への通報を具申すると、遠藤常務が冷徹に遮った。


「二十億程度なら、予備費でどうにでもなる。だがハッキングが外部に漏れれば株価は暴落し、預金流出が始まり数兆円に及ぶだろう。そうなれば我が行の破綻、ひいては日本経済の混乱だ。君にその責任が取れるのか? 私の退職金、いや、我々が築き上げてきた信用を、君のちっぽけな正義感で潰されてはたまらん!」


「信用……?」

澪の声が低くなった。


隠蔽いんぺいすることが銀行の言う『信用』なんですか?私たちは嘘の上に立っているんですか!」


 会議室に流れる重苦しい沈黙。そこにあるのは保身ばかりだった。専務が眼鏡を光らせた。


「では解決策を提示したまえ」


 澪は覚悟を決め、名前を口にした。


「外部の専門家……栗栖公理くりす きみのりを招聘することを提案します。クリス・サイバー・ソリューションズの代表です。彼ならば、この事態を秘密裏に収束させる技術を持っています」


中条頭取は頷いた。


「毒を呑もう。遠藤常務、資金を。久保田、その男を呼べ。残り三十六時間だ」


 電算室に戻った澪は、佐藤と佐々木次長を呼び寄せ、震える指でコンソールに向かった。


「先輩、やはり営業部のPCからでした」


 佐藤が解析結果を報告する。


「フィッシングメールの添付ファイルから感染し、そこからネットワーク内を横展開ラテラル・ムーブメントしています。でも……おかしい。外部からの不正ログインの形跡が、ログのどこにも残っていないんです」


「そんなはずはないわ。……待って、特権アカウントのログを見て」


 澪は深層部へ潜る。


「今朝九時四十五分。私のIDで、管理コンソールにログインしている記録がある。でもその時、私は次長とミーティング中だったわ。誰かが私のIDを盗んだの?」


「でも、アクセス元のIPアドレスを見てください」

 佐藤が画面の一点を指差した。澪の顔から血の気が引く。


「これ……ログイン端末のIPアドレスは、このフロアにある予備の端末。外部からじゃなく『ここ』からアクセスされている」


 犯人は自分たちのすぐ側にいる。正規の権限が、正規の手順で、内部の端末から実行されている。これはハッキングというより、組織の内側から心臓を射抜くような、あまりに不気味な光景だった。


 夜、二十二時。


 電算室の扉が開き、仕立てのいいスーツを纏った男が入ってきた。


「お待たせしました。栗栖公理です」


 栗栖は澪の隣に立ち、モニターを見つめた。


「久保田さん。あんたの書いたテミスのコードは美しい。だが、それゆえに現実の汚れに無防備だった」


「栗栖さん、ログを見ましたが、内部の予備端末から私のIDが使われています。でも、誰もその端末に触れていなかったはずなんです」


「ログはすでに、奪われた特権を使って犯人の手で書き換えられている可能性がある。……物理的な現実を確認しよう」


 栗栖はサーバーラックの最下層、配線溝ケーブルダクトを指差した。


「そこに不自然な膨らみがないか確認してくれないか」


 澪が手を突っ込むと、指先に硬い異物の感触があった。引き抜いたのは、小さな黒い基板デバイスだった。


「これは……?」


「超小型のハードウェア・バックドアだ。営業部の感染は、システム担当の目を逸らすための陽動か、あるいは侵入の第一段階に過ぎない。外部のハッカーはこのデバイスを『踏み台』にして、LAN内部から特権昇格プリビレッジ・エスカレーションを仕掛けた。本来ならIDS(侵入検知)が作動するはずだが、このデバイスは『許可された保守用端末』のIDを偽装スプーフィングしている」


 栗栖の瞳が鋭く光る。


「物理的にデバイスを設置し、さらにポート監視の設定を一時的にホワイトリスト化(無効化)できる人間が必要だ。……つまり、これを設置できたのは、このフロアに自由に出入りでき、システムの『鍵』を持っている仲間だけだ」


 「……そ、そんなことありえない」

澪の顔が蒼白になる


「残り三十六時間。不純物を排除しよう。久保田さん、あんたのプライドを賭ける価値はあるはずだ」


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