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 高度25,000メートルを超えたあと見たのは異世界だった。

 眼の前にあるのは、虚無に近いまっ黒な空だ。月は輪郭をくっきりさせて、太陽の光を無気味に反射していた。星々は瞬くことなく沈黙していた。

 上空から視線を下げると、円弧を描く地球が見える。

 何度も写真や動画で見てきたあの光景だ。青と白の絵の具をぶちまけ、かき混ぜたような球体、その縁は白いぼやけた膜に覆われている。

 恐るおそる僅かにロールをかけて、さらに下へと目を移すと、ここにも青と白のマーブル模様があった。眩しく思えた街路樹の緑も、数年前に訪れた砂漠の土色も、淡いパステルカラーになって、海と空と雲に溶けて霞んでいる。

 機体に目をやると、昼の側と夜の側に、はっきりとわかれた光と影があった。異様にくっきりとした境界はグラデーションで繋がれているよう見えるが、それはコクピット内の空気の影響だとわかった。

 エンジンの止まった機内には静寂があった。

 その静謐さが、眼の前の光景をより神秘的にしていた。

 わたしは機械によって生かされていることを強く感じた。与圧された機内は、いまも0.8気圧に保たれている。エンジンとともにヒーターは止まったとはいえ、電熱服のおかげで、さほど寒さも感じない。

 だが、ここは人が生きれない、空とも宇宙ともいえない領域なのだ。一歩外に出れば、気温はマイナス50℃の極寒の世界。一瞬にして凍りつく。いやそうじゃない、わたし自身の体温によって、血液が沸騰し、毛穴という毛穴から噴き出す。

 大気密度は地上の百分の一しかない、つまり1%だ。そんな大気に晒されれば、肺にある空気が爆発的に膨張して、これまた我とわが身を粉砕してしまう。息を吸う? 意思で吸うことなど、不可能だ。わたしを生かしているのは、酸素マスクが強制的に送り込んでいる、純酸素のおかげだ。

 音はといえば、そのマスクが立てる機械的なシュー、コウー、シュー、コウーと、自分の心臓や肉体が作り出す音だけだ。あらゆる音や振動が骨伝導となって耳に襲いかかってくる。だが、その耳は両手で塞がれたように籠もった感覚に支配され、あらゆる音が頭の中で鳴り響くのだ。そうして、そこに無音の思考が加わる。

「ここが天国だっていうのか? いいや、ここは地獄だ。では地上はどうなんだ? 地上だって地獄だったではないか?」

 思考が頭の中で響きわたり何度も木霊する。

 ふと我にかえって、太陽に目を向けると、わたしはさらなる地獄を感じた。

 ヘルメットバイザーに施された、金のコーティングがなければ、網膜を数秒で焼き尽くす暴力を、わたしははっきりと見たのだ。本来、見えることのない紫外線や電磁波、宇宙線が見えたのだ。

「ここは天国でも地獄でもない。――ここは煉獄だ! 天国にも地獄にもたどり着けない虚無があるだけだ!」

 瞬間、無意識が反応した。

 気がつくとわたしは"イーグル"を背面状態に入れ、ゆっくりと操縦桿を股の間に引きつけていた。

 そのとき、高度はちょうど30,000メートルに到達していた。

 わたしは恐怖に駆られたように叫んだ。

「"ネイキッド・ガイ"よりコントロールへ、目的は達成された、これより降下へ移る」

「こちら、コントロール、了解した、了解した。――目標達成、おめでとう! 無事の帰投を祈る!」

 すでに、"イーグル"は音速より遥かに低い速度に減速していたが、抗うことなく背面のまま降下を開始した。

 降下角40度付近で、180度のロールをうって、上下を入れ替え緩降下に入る。

 その間じゅう、無気味な音のない世界がわたしにつき纏っていた。

 そのとき、また母の声が聞こえた。

「ところがねお前、その男は鵞鳥に救われたにも関わらず、わがままにも、こういったのさ『おお、陸が見えはじめた。ここで下ろしてくれ』と。それに、鵞鳥はこう答えました。『そういうわけにはいかない。あっしはこれから海を超えなければならないからね。忙しいんだ』。男はそれでは困ると思い、再度『頼むから下ろしてくれ、海の上で落とされたらたまったものじゃないからな』といいました。すると、鵞鳥は『それなら好きにするがいいさ』といって、男をふり落としました。ところが、もうそのとき鵞鳥が飛んでいたのは海のうえだったのです」

「海のうえとは結構なことじゃないか、誰も道連れにしないですむのだからな」

 わたしは物語にさからわず、いいかえした。

 そんなこととは無関係に、"イーグル"は高度と引き換えに速度を取り戻してゆく。

 だが、エンジンはまだ無力のままだ。F-100に命の炎を灯さなければならない。それに必要なのは、ある程度の速度と濃い大気だ。理想をいえば、速度はマッハ0.8~0.9、高度は8,000メートルあたりだ。その状態を作り出せれば、コンプレッサーは風車効果(ウインド・ミル)で大気を高温高圧に圧縮し、その後に送り込まれる燃焼室で燃料を混ぜて点火すれば、飛べない鵞鳥は鷲になる。

 だが、一度でも失敗しようものなら、終わりの始まりだ。機体は大地に叩きつけられ、微塵に砕けるだけだ。わたしのほうは、射出座席で脱出すればいいが、コントロールを失った機体が市街地や民家に墜落しようものなら、目も当てられない。

「いいやお前、もう男は鵞鳥にふり落とされているんだよ。――それでね、結局、男は海にどぼんと落ちるのだけれど、偶然そこにいた鯨の背中に落ちたのさ」

「母さん、その先は知ってるよ。そこで夢から醒めた男は、女房に水をかけられ正気に戻るんだ。まるで鯨に嫌というほど、汐を吹きかけられるようにね。そして、女房にこういわれるのさ。『空軍のベッドなんかで長いこと寝てるからそうなるんだ。だから、やめとけっていったのよ』とね」

 わたしは苦笑いして先を続けた。

「だが、大丈夫さ。もう、俺には空軍のベッドは必要ないし、地上に無事たどり着くから」

 わたしは、慎重に再点火の時を待った。

 やがて、大気が機体を叩く音がしはじめた。

 速度はマッハ0.7。高度は10,000メートルを切っていた。凄まじい沈下率だ。

 わたしは降下角を60度付近にして、音のある世界で、重力が消える場所をまさぐった。

「あった、ここだ!――今だ!」

 "JFS"と書かれたボタンに添えられた指に力が入る。

 そして、あの爆音が戻ってきた。

 天国の門を突き破ったかのような、心踊る素敵な音楽が――。


 そうして、わたしは無事に基地へ帰り着いた。

 離陸スタートから、30,000メートルまで、わずか200秒ほどの出来事。基地の滑走路を踏むまで、10分とはかからないフライトだった。

 操縦席にかけられた梯子を降りると、遠くから近づく男の影が見えた。

 そうだ、管制塔にいたあの男だ。二人は顔が見える距離に近づくと、拳をあげてぶつけ合いハグしあった。周囲で歓声をあげる連中に、何度もサムアップしたあと、二人は共に歩き出した。

「どうするつもりかと、冷や冷やしたぞ」

「そのまま、月まで行くとでも思ったのか?」

 男はごくりと唾を飲んでから「正直、そうなんじゃないか……」と囁くような声でいった。

 わたしは男の肩を抱いてから答えた。

「地上に大きな荷物を置き忘れてね、それが気になったのさ」

「そうか、それは良かった、"ネイキッド・ガイ"。――いや、リチャードと呼んだほうがいいかな」

「ああ、それでいい。TACネームとは気兼ねなくおさらばさ! ミスター・グラビティ。俺はあの真っ暗な空のなかで、重力のなんたるかを知ったんだ。――これからも宜しく頼むぜ!」

 こうして、わたしは地上に無二の友を得て、心置きなく空軍を去ったのだった。

 そしてわたしは、今では自信をもってこういえる。

 この地上には、記録や記憶に残らなくとも、重力を好敵手にして戦っている人たちがいる。

 彼ら彼女らは、いつかきっと、高度30,000メートルを垣間見ることだろう。


               ――完――

  "The real barrier wasn't in the sky,

  but in our knowledge and our fears."

  壁は空にあったのではない。

  我々の知識と、我々の恐怖の中にあったのだ。

                チャック・イェーガー


  自選イメージ音楽:The Right Stuff

  https://www.youtube.com/watch?v=SkiY1a-ljYE

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