Ⅲ
「"ネイキッド・ガイ"よりコントロールへ、聞こえるか」
「こちらコントロール、感度良好」
「飛行計画にはない雲にぶつかった。舵の効きが心配だ。プランBに変更する」
「天候ばかりは予定通りともいくまい、変更を許可する。――それで最終目標高度はどうするつもりだ? 20,000か、25,000か?」
ほんのわずか逡巡しただろうか。
「プランBなら、30,000までいける計算だ」
一拍おいて答えた。
「コントロール、了解した」
意を決したわたしは、高度計を目の端にとらえ、高度10,000メートルに達したのを確認すると、軽く操縦桿を引いた。
ゆっくりと機首が上がるのと同時に、雲海が下方へ流れだす。迎角70度、80度、大きな円弧を描きながら垂直を超え、背面のまま水平飛行に移る手前で180度のロールをうつ。
逆さまになったスカイラインが目に飛び込んできたかと思えば、世界がぐるりと転回する。何度味わっても味わいつくせない爽快感だ。
水平飛行に移ったとき速度はマッハ1.7を超えていた。
高度は12,000メートル、気象すらない高高度。眼下には青と白が混じりあった雲海が見える。F-100エンジンにとって最高に美味しい大気を吸い込んで、"イーグル"はぐんぐん加速していく。
「"ネイキッド・ガイ"よりコントロールへ。水平飛行に移った。あとは加速の頂点でセカンド・ズームするだけだ。気流も安定している。V-maxでマッハ2.5まで加速して、再上昇の予定」
「こちらコントロール。それでは、この飛行でエンジンはおしゃかってわけだな。どちらにしろ、気のすむようにしろ。そいつはお前のものだからな」
阿吽の呼吸というのはあるのだ。
――管制塔から呼びかけている男もまた空の男だ。ただ、あいつは飛ぶことができないのだ。今に至るまで空に憧れつづけ、縋りついてきたくせに、いまだに追いつけない不幸な男だ。生まれたときから身体に問題があったのだ。だがそれでも、あいつは執念深い。いまも地上から俺の背中に抱きついて離れず、齧りついている。どこまでついて来るつもりだ? 宇宙までか? もしわたしがこのまま、30,000メートルを突き抜けていったとしても、お前はまだ?――いいや、きっと追いかけてくるに違いない――。
この困難な飛行計画をメーカーに呼びかけたときから、あの男一人とだけ純粋に夢をわかち合ってきたのだ。わたしは、何となく後ろめたい気持ちに打たれながら、計器盤にある赤いカバーで守られたスイッチの位置を確かめた。
V-maxだ。
そうして、カバーを跳ね上げると、躊躇することなくスイッチを押し上げた。
音速を超えてから排気音とは無縁の世界に、それまで聞いたことのない唸ねりを聞いた。異常なまでの加速に耐えかねて、機体がギシギシと悲鳴をあげているのだ。
「不安と恐怖ならいつだって誰にだってある。今はあの男だってそうだろう」
わたしは猛烈な加速を示す速度計を見つめながら、呟くように独りごちた。
速度計の針は、これまで見たことのない加速を示していた。
操縦席から伝わる振動を感じとり、わたしはファン・タービン入口温度(FTIT)に視線を注いだ。
「まだ、大丈夫――しかし……」
これまで感じたことのない振動が気になった。
燃焼室から吹き出された高温高圧の爆風が、タービンを高速回転させている光景が脳裏に浮かんだ。ニッケル基超合金で出来たブレードは、900℃の熱波をうけ、それを逃がす場所をなくし、変形し溶融しバラバラに吹き飛び、エンジンが機体を粉砕する画像がスローモーションで再生された。なすすべもなく、空気の希薄になった極寒の空中に、放り投げられる惨めな姿が一瞬、脳裏を掠めた。
だが、FTITの指針は、いまだ850℃付近にある。
だとしたら、左右のエンジンの推力バランスが崩れているのか?
わたしは思わず上体ごと後ろを振り返ったが、そんなことで推力バランスの不均衡がわかるはずもない。
「くそ!」
口から悪罵が吐き出された。
まさか、電子操縦系統(FBW)に何かあったのか? それとも安定増強・操舵補正システム(CAS)か? あるいは、それらを統括する自動飛行制御システム(AFCS)か? だとすると、ことは厄介だ。
そのとき、いつどこで見たかも定かでない、映画の一幕が脳裏に浮かんだ。
朝の開け放たれた窓から、カーテンを揺らす爽やかな風。なじんだ食卓に湯気を立てるベーコンエッグと珈琲とサラダ。男は初夏の涼やかな風に頬を撫でられながら、食事を終える。それから立ち上がると身支度を済まし、日課のジョギングに出た。陽光と鳥の囀り、目に眩しい街路樹が流れてゆく。いつもと同じ朝。そこへ突然襲った腹痛。男は我慢して走りながら考える。
――朝食の食べ合わせのせいか? それとも昨日の晩飯のせいか? 何か傷んだものを食べただろうか? もしかして病気? いやいや、ジョギングにはつきものの痛みだろう。いいや、この痛みは違うかもしれない。骨からくる痛みではないか? 男は立ち止まってうずくまる――。
だが、ここは空だ。原因不明の腹痛くらいで立ち止まってはいられないのだ。
「くそ!!」
そのとき、パイロットの本能が勝手に反応した。操縦桿を少しずつ前後左右に揺すり、左右のラダーペダルをかすかに踏んで、機体が直進しているかを身体で感じ取ろうとしたのだ。
「いける、いけるぞ」
速度はマッハ2.0を突破。
FTIT温度も危険値を下回っている。あと、マッハ0.5加速できればいい。
底知れぬ安堵が湧き上がると、次の瞬間、静かで果てしない大空に意識をさらわれた。
――美しい。
それ以外の言葉がでてこない。
成層圏下層とはいえ、もはや、わたしの頭上に雲は一片たりともない。地上から見慣れた水色ではない、形容しようのない澄んだ青だけが眼前と頭上を覆いつくしている。全身が空に吸い込まれそうな感覚、錯覚が起こる。
目を凝らせば、頭上の青は眼前の青より濃い紺に見えるが、天才画家さえ描けない微妙なグラデーションで繋がり、破綻はどこにも感じられない。
キャノピーを通してさえ感じる南国ばりの強い日射。
サングラスをしていなければ、太陽の方向に頭を向けることさえできない。
そして、この温もり。
Tシャツ一枚になりたくなるような、熱を孕む直射日光。こここそ天国なのだと思わされる。何もかもが停止し、静まりかえっている気がした。だが、F-100エンジンはいまだ最大推力とA/B、そしてV-maxで、"イーグル"を猛烈に前に押しだしている。
速度はM2.3に増速。
振動は気になるが、異常はない。
わたしは、V-maxの幽霊と戦いながら、燃料計を確認して、M.2.5を待った。
「"ネイキッド・ガイ"より、コントロールへ。特別な異常はない。V-maxからくる振動が気になるが、FTITは思ったより低いくらいだ。――これより、再上昇を開始する。到達目標高度は、30,000だ」
「こちら、コントロール。12,000付近の空気密度はF-100にとって理想よりやや低めだからな。そのせいで冷却効率がいいんだろう。だが、油断はするなよ。――以上だ」
わたしは、サングラスだけでは避けられない、紫外線や電磁波を防護するために、ヘルメットのシールドを下ろすと、操縦桿を一気に引いた。
とたんに凄まじいGが肉体を苛む。血液が一気に下半身に流れ落ちそうになる。それを押し留めんと、Gスーツが圧力を加える。呼吸が荒くなり、マスクがへばりついたあたりが痛い。吸い込んだ空気から、濃い酸素を感じる。視野が狭まり、青い色が薄れていく。
迎角60度で操縦桿をもとに戻すと、Gで失われた空の色が戻ってくる。
「残り、17,000メートル。"イーグル"よ、昇れ! 昇れ! お前の真価を見せてみろ!」
子どものように胸がはずむのを抑えきれなかった。
高度計の針は、いままで見たこともないスピードで、右へ右へと回っている。
それにあわせるように、しだいに空は青から紺へ、そして濃紺へと明るさを失ってゆく。視線を逸らした先にある真昼の月は、まるで夜空で照っているかのようだ。昼間なのに星が見える。しかしその数は地上より遥かに少なく、ほとんど瞬きをやめている。
大気と重力がつくるパノラマが、どこからか畏怖心を運んでくる。
高度は18,000メートル。
「そろそろだな」
わたしは、確認すべき計器へと順に視線を泳がせた。
速度計、高度計、燃料計、そしてFTITへと。
「さて、どうする、お前は止まるのか、F-100よ。それとも――」
エンジンは大気密度の薄くなった高空では、役に立たない。
どんなに高圧コンプレッサーが大気を圧縮しようと、もはや燃えることを許さないのだ。そうなると、"イーグル"は推力を失い、あとは慣性だけが頼りだ。いいや、そうではない。推力を失ったエンジンなど、ただの重量物であって邪魔な存在でしかない。どちらにしても、このまま行けば、高度20,000メートル付近でエンジンはストールして停止する。その前に止めるかどうかが問題だ。
そのとき聞き憶えのある、どこか懐かしい声が頭のなかに響いた。
「その人は、してはならないことをしたのです。飲んではいけない場所でお酒を飲み、酔いつぶれて眠ってしまったのです」
亡き母の声だ。寝床にはいったわたしの傍で、ケルト民間伝承を語る声だった。
「男は夢を見たのです。しかし、あんまり良い夢ではありませんでした。泥沼に難渋し文句をいいながら、家を目指しているのですが、一向に足取りは捗らなかったのです。そんなとき、空から鷲が現れたのです。『お前を運んでいってやろうか?』と。――男は狂喜乱舞しました。ところが、いざ鷲に掴まれてしまうと、鷲は月まで飛んで行き、男をそこへ置き去りにしたのです」
「冗談ではない、俺は月へなど行く気はない!」
わたしは、頭のなかで激しく反旗を翻した。
「そんなこんなしているうちに、男の来訪を知った月の住人が現れました。『ここは儂の住処だ、そこで何をしている。さっさと立ち去らないと酷い目に遭わせるぞ』と凄んだのです。『そんなことを言われても困る。ここから落ちらた死んでしまうのだから。だったら、わたしを運んだ鷲をここへ呼んでくれ』と男は懇願しますが、月の住人は『そんなこと知るもんか、さっさと出て行け』と、男を蹴り落としたのです」
「ぶざけるな! 俺には"イーグル"がある、それにエンジンだっていまだに快調だ、何を今さらなんだ!」
額には脂汗が粒になって浮かび、首筋にも冷たい汗がこびりついていた。
わたしは物語から抜け出そうと、頭を激しく振って、FTITを見た。
930℃――いまだに安全圏だ。――高度は?
指針は20,000メートルを指していた。
だがそこで、F-100エンジンは息を切った。
わたしは慌てることなく、V-maxをオフにし赤いカバーを被せ、スロットルを停止位置に戻し、A/Bを停止させた。燃料計は地上への帰還に足りる、ギリギリの数字を示していた。
だがまだあと、10,000メートルの戦いが残されている。
「大丈夫だ、男は墜落死してないんだ。落下している最中、そこへ飛んできた鵞鳥に救われたのだから。さあ昇れ、推力を失い、鵞鳥になった"イーグル"よ! わたしはあの時の少年ではない! 布団をかぶって怯えたりするもんか!」
だが、気迫とともに吐き出された独り言は、頭のなかに響いただけだった。
高度20,000メートルの空は、音を完全に奪い去っていたのだ。




