Ⅱ
整備員の右手があがるのが見える。
わたしも左手をあげると、キャノピー開閉レバーを操作する。強化アクリルの覆いが棺のふたのように閉まると、そこから少し前に進んで、機内が密閉された。それまで聞こえていた大きな不協和音が一気に静まりかえる。
「"ネイキッド・ガイ"よりコントロールへ、離陸を開始する」
「コントロールより"ネイキッド・ガイ"へ、手順どおり行う。――幸運を祈る!」
わたしは、そのとき幸運を願っただろうか。
神か女神か、それとも"イーグル"に対してか、自分自身に対してか。ただ、何かを願いながらスロットルに手を置いたことは、確かだった。
ブレーキ・ペダルを力一杯に踏んで、スロットル・レバーを押しこみ、最大推力を発揮させる。
「おれを自由にさせろ」
"イーグル"は機首を下げて、前へつんのめろうとする。
動力のない車輪が耐えかねて、数センチ滑走路をスリップし、摩擦熱を発散させている。
「まあ待て、慌てるな」
わたしは、機首の上下動が安定したのを見計らって、A/Bを点火する。
排気口から、1,000℃を超える数メートルの火炎が吐き出され、背後に熱を感じる。滑走路のあげる苦痛を訴える声が聞こえた気がした。しかし、機体とエンジンは安定し、これ以上ない極限に向かって身を震わせ、悲鳴と咆哮をあげる。機体後部下面にあるアレスティング・フックと、滑走路に埋め込まれたアンカーを繋いだ、特殊鋼のケーブルがピンと張り、暴力的なパワーを引き受けている。
「リリース」
声と同時に、アレスティング・フックが爆散されると、血液が下半身と背骨に流れていく、強烈なGを感じる。頬の贅肉が嘲笑するように揺れる。
艦載機が空母のカタパルトから投げ出される猛烈さより、幾分穏やかとはいえ、数秒息を止めて横隔膜や胸郭がつぶされないように、身構える過酷さに変わりはない。
「凄まじい加速だ」
思う間もなく即座にランディング・ギアの収納レバーを跳ね上げる。
ほんの一息、この操作が遅れれば破滅だ。風圧に耐えかねた脚が吹き飛ぶ光景が、滑走路に激突して膨れあがる火の玉が、走馬灯のように脳裏によぎる。
脚への過荷重を知らせる赤ランプと警報が耳障りだ。
「うるさい! わかっているが、わたしにはどうしようもないのだ」
腹を据えたわたしは、真直ぐに飛ぼうとしない暴れ馬を手懐けつようと、操縦桿とラダーペダルを操作し微調整を加える。そうして、地上を離れた"イーグル"がさらに速度に稼げるように、神経を集中した。
脚の収納を知らせる緑ランプがともる。
だが、滑走路の終点はすぐそこだ、排気熱で樹木や民家を燃やすわけにはいかない。滑走路の端に視線を釘付けにしつつ、操縦桿を引く。
またしても、凄まじいGが血流を阻害する。一瞬、風景から色が失われたあと、"イーグル"は跳ね馬のように頭をあげて、空に突っ込んでいった。
上昇角が60度あたりになったところで、操縦桿をニュートラルに戻す。
"イーグル"は加速を鈍らせることなく、溜め込んだ速度エネルギーを高度エネルギーへと変換してゆく。高度はもうすぐ3,000メートルになる。
スタート・ダッシュからわずか25秒ほどで、"イーグル"は音速を突破した。
今まで聞こえていたエンジンの轟音や空気が機体を叩く音が消えると、静寂が訪れた。視野には雲を泳がせている青空が一杯に広がっている。飛行機乗りにとって至福とは、この瞬間をいうのだ。
迎角60度での第一弾ズーム上昇、ハイレート・クライムはつづく。
心持ち軽く操縦桿を前後に揺する。飛行機にとって重要なのはバランスだからだ。音もなく機体を突き上げている推力は、大気の抗力に打ち勝ち加速をつづける。翼が発生する揚力と重力が均衡する場所を探しながら、わたしは全身をセンサーにように研ぎ澄ました。瞬間、ふっと重力が消える感触を掴み、操縦桿を固定する。
橙色の服を着た僧侶が、瞑想中に上体を前後左右に揺すり、重心を見極める姿が見えた。
"イーグル"はもっとも効率のよい体勢ののまま、ぐんぐん速度と高度を上げる。高度8,000メートル、マッハ1.5はもうすぐそこにあった。
空軍からの引退は、長い観劇の終幕に似ている。分厚い白い雲に突っ込んだとき、ふとそんな思いがよぎった。子どもの頃から飛行機ばかり追いかけてきた。そうして追いついては跨り、いまもこうして未練がましく縋りついている。それしかなかったからだ。
いきなり視界を閉ざした白い塊は、風防に微細な水滴を付着させたが、いまだフルスロットルとA/Bの力で加速していること知らせるように、吹き飛ばされてゆく。"イーグル"は大量の水蒸気を含んだ大気を浴びて、見えない乱気流は三舵を翻弄して姿勢を狂わそうとする。
長いパイロット生活で身につけた癖が反射的に操縦桿を動かし、あらぬ方向へゆこうとする機体を宥める。もっとも半身が電子化された操縦系統だから、手の中で操縦桿が転がっている感覚があるだけだ。
それでも、乱流の翻弄は恐ろしい。
T/W比は常に1.0を超えているとはいえ、飛行機は飛行機だ。空気という道路に支えられてこそ姿勢が安定する。その道路が凸凹で歪み、ところどころに陥没があろうものなら、推力などなんの役に立とう。むしろ、暴動の原因ですらある。主翼と舵という腕と手が、その握力が空気を掴みそこねれば、いつ制御不能のスピンに陥ってもおかしくない。
見慣れた青空を奪われたわたしは、白濁する牛乳のなかを泳いでいる気分がした。




