【小舟/口説き】
シズハは目をしばたかせた。視界は空、薄い雲から降りてくる雪粒たちばかり。日差しもさすようになって天気雨ならぬ天気雪と言った空模様だ。
動揺を辛うじて抑えながら状況を頭の中で整理する。
真昼の雪の中、だれかの厚い腕に抱かれている。自分の身体にはロープが巻き付いていて、身動きがとれない……
周囲を見回して気づく。周囲は海原だ。自分は小舟の上にいる。そしてひとりの女の腕の中にいるのだと。
のぞき込んできた女と目が合った。静かな吐息の温かさを頬に感じるほどの距離だった。
ぞっとするほどに美女であった。恐らくはもともと白い肌に、血色で赤みがかった薄紅色をしていた。それはまさしく紅顔である。
だがなによりも獰猛な凄味がある。切れ長の目から覗く、赤く大きな瞳は引力を錯覚するような迫力があった。両目の下には、牙型の白い紋様があり、容貌の特異さと美しさとを際立たせていた。笑みを浮かべる口元からは、牙もとい長く鋭い犬歯が覗いている。
(な……なんだ? このひと……)
視線が交差したと見るや、女は少年に笑いかけてきた。新雪のように白く輝く前髪が揺れて、シズハの耳をくすぐった。
「わしは北蛮海賊団頭領、血吹雪のテンヌである」
「は……あ?」
「よく化けていたものだな子狐よ。お主の胆力、実に気に入った! 名は?」
「し……シズハ……です」
迫力に負け、思わず名乗った。だが直後に我に返る。海賊ということは追手だ。捕縛されたままではつきだされるばかり。
彼は身じろぎするが、すぐに抑え込まれた。
「ちょっと待ってくれ、僕をどうするつもり……」
「こら、じっとしておらぬか」こともなげに頭領は言う。
腕の中で片方の手首を掴まれ、また両足を抱きこまれて保持された。
シズハが抵抗してもびくともしない、すごい力だが、あくまで女の手つきは柔らかかった。飴細工を手にするように、あるいは赤子を抱くように、少年の肢体に触れている。
そばにいるだけで、ムッとするような気配がある。鼻をくすぐる不快臭の類ではない。匂いはむしろ清潔さを感じる香りだ。
(目でも耳でもましてや舌でもない。肌の感覚だ。このひとのそばにいるだけで、全身の骨か、いっそ内臓にまで響く、威圧感がある……!)
小舟が海流で滑るように進む。銀色の波が小舟を押し流し、副長の男は無駄のない手さばきで舵を操っている。
「おカシラ、副長、やるじゃねえか!」
港の岸辺に立つ北蛮の船員が、快哉の声を上げた。
副長の男は深編笠で顔を隠した、長身瘦躯の者だった。腰に細身の直刀を吊り下げている。北蛮の船員たちと同じような外套だが、決定的に違うのはその年季だ。
黒かったのが褪せて灰色になった外套と、渇いた藁の黄色であったろうものが風雨で黒ずんだ深編笠だ。すべてが荒んでいる。
目覚ましく人目を引く頭領とはまた違った凄味があった。直刀の鞘ばかりが青白く、瑞々しさを湛えていた。だがそれも含めて全体がモノトーンの風貌である。
老騎士が岸から声を張り上げた。
「下賤の蛮人どもとばかり思っていたが、海から回り込むとはさすがは海賊といったところか。さあ、連れてまいれ!」
副長はそれを一瞥すると、何の意思も示さずすぐに前方と潮目へと視線を戻した。頭領においてはひとつも気に留めていない。なにやら道端で野良犬が吠えているとでも言わんばかりの扱いだ。
小舟の舳先はもっとも近かった桟橋を過ぎ去り、向かう先は停泊している北蛮たちの大船である。
シズハは身体を戒める縄を解こうと密かにもがいていた。かねてから鋭く研いである小指の爪で、何度も縄を擦る。少しずつでも切ることを試みるが、頑丈な繊維はそうそう綻びてはくれない。
そうしているうちにテンヌはシズハを抱えたまま顔を近づけた。シズハの背に緊張が走る。胃へ重い痛みを感じる。彼の身は捕縛されてもとより逃げるに厳しい状態だが、そのうえで目の前の女は、彼の手首を握りしめていた。
なにか返答を間違えれば一挙に捻り上げられはしないかという恐怖感がシズハにあった。少々の苦痛には耐えるつもりだが、理不尽な暴力が目の前で息づいていては平静ではいられない。
「わしが追手どもを叩き潰してやろう。ならばすぐに逃げ出すとは言うまいな?」
重い荷物を運んでやるとでもいうかのような軽い調子だった。シズハは不可解さに眉をひそめた。
「……なんのつもりだか。お前たちの手に秘宝が渡ることはないんだぞ」
「よい。秘宝などどうでもよくなったがゆえにな。それよりも、お主じゃ」
美貌をほころばせて女はささやいた。
「お主と話がしたい。それではだめか?」
(まるで下手な口説き文句だ)と彼は内心で毒づいた。舌打ちしそうになるのを抑えて言う。
「……信用ができない。申し出の意味が分からない」
「く……ふふふふふ。わからぬか」
女は実に愉快そうに笑った。
「わからずともよい。ただ見ておればよいのだ」
気が付けば、海賊たちの大船はシズハの視野に入っていた。小舟は桟橋に行きついている。
「寸分たがわぬ操船……さすがじゃな」
「この程度……」
テンヌはシズハを抱えたまま一足で橋へとあがった。シズハはその時気づいた。不安定な小舟だというのに、それまでほとんど揺れを感じていなかったと。この女海賊は、その体幹で自らの姿勢をまったくゆるがせずにいたのだ。
また、周囲すべての人間の顔が目線より下にある。視点が高いのだ。腕に抱かれているというのに普段の視点よりもさらに高い。
(この海賊、どんな身の丈をしている……!?)




