【湯気/胸襟開いて】
追い込まれたシズハは、なにか隠れ場所や梯子が見つからないかと周囲へ素早く視線を走らせた。その時、高い位置の窓からちょいちょいと白い手が伸びている。なにかと思っているうちに、手招きとともに少女の声がした。
「そこのキミ、おいで」
声を抑えており、往来へ聞こえないようにとの意図が感じられた。手の先は間違いなくシズハへ向いている。呼びかけの対象は明らかだ。しかしまさか罠ではないか? とシズハは瞬間的に疑った。
(でもこのままだとまず間違いなく捕まる。あそこに飛びこんでも敵とは限らない。切り抜けるためには――)
瞬時に判断して、シズハは壁を駆け上って窓べりを掴む。
すると窓の中から伸びていた手が彼の手首を握りしめ、引っ張り込んだ。思っていたよりもしっかりとした力で引き込まれて、シズハは部屋の中に転がり落ちて受け身を取る。
シズハが入るとともに窓はぴしゃりと閉められた。直後、路地裏へと無神経そうな足音が飛び込んできて、そのまま過ぎ去っていった。
呼び込まれた直後まではシズハは気配を殺し、その場に伏せてじっと様子をうかがっていた。
追手が通り過ぎていったのを確認すると、その時ようやく息をついて部屋の方へと顔を向ける。
「ありがとう。助かりました」
「なに、いいさ」
直後、シズハは息を飲み、硬直していた。
彼の目前にいたのは、藤色の瞳に白い髪の麗しい少女だった。気性の強さを感じさせる大きな瞳をしていて、口元には涼やかでどこか自信のありげな微笑が浮かんでいる。
一見した限り、年齢はシズハと同じく十代の半ばか、やや幼いようだった。頭髪は背を覆うほどにたっぷりとしたボリュームのものを、左耳の上あたりでひとつに結んでいる。髪の毛だけでなく肌もどこか異質な白さを持っており、先天的な白化……アルビノ体質の類であると思わせた。
だが彼が身を強張らせたのはそんなことではない。少女が布一枚の姿だったからだ。
バスローブを羽織っているばかりの薄着であり、そんな服装でありながらはばかることなく足を組んで丸椅子に座っているのだからたまったものではない。シズハが思わず目をそらすと、その先には湯舟があった。頬にまといつくような湯気と、石鹸の香りをそのときやっと知覚した。
「お、お風呂場……」
もはや罠かどうかという懸念など頭からすっとんでいた。彼は赤くなる顔を隠すべく、スカーフを鼻よりもあげて顔を伏せる事しかできなかった。
腕組みをして、訝し気に少女は聞く。
「どうかしたのかい?」
「いえ……すみません。このような場とは露知らず」
「ふぅん? そこまでちぢこまることもあるまいに。ここは貸し切りの浴場、だれもこないさ」
そこでシズハは気づく、今の自分は傍目には女子に見えると。あまりに恥ずかしんではかえって怪しまれるとは思った。だがだからとて、それをいいことに肌身を見るのも、助けてもらった相手に不誠実だ。
「いえ、とはいえ……」
彼は妹のような内気な娘を装い正座して、やはり直視せずに済むように顔をそらした。
「取って食べたりはしないよ? ……恥ずかしがりやだね、キミは」
白髪の少女はどこか肝の据わったところがあり、鷹揚に笑った。そして自分の肌身が目の前の子の羞恥の種だと気づき、ローブの前をしっかりと重ねて帯を結んだ。膝をそろえて座ると、シズハもようやく目のやり場を得た。
「そんな君がなにゆえ追われているのか……由来と事情は聞かないことにしようか」
すこし黙っていたが、シズハは返す。
「うん。ごめんね」
「構わないよ。わたしも、おしゃべりしていられる身の上ではないんだ」
「あなたも?」
シズハは感じる、この人は本当に、ただ行きずりの娘を助けてくれたのだと。身を偽っている罪悪感が彼の胸中に湧く、胃の中の冷たい感覚が、ひどく強く感じられた。だがもうひとつ、薄暗い喜びも彼は自覚していた。自分の変装は成功している。目の前の女性は自分の正体をわからない……と。
白い髪の娘はすこし考えながら、髪をブラシで梳いていたが、やがて口を開いた。
「わたしは海流任せの旅の身だ。たまたまこの港に泊まったのだけどね。キミはどこへいきたいの?」
「南へ。海流から外れた南西に、御家があるもので……届け物を。どうしてもやり遂げないといけなくて」
「御家のため……か。それはお金の問題?」
喋る必要はない。本来であれば。しかしシズハは思わずスカーフを下げて、答えていた。
「いえ、お金だけでいいなら、時間はかかるけどもっとほかに手がありました。その……親を亡くしてから面倒を見てもらってる、伯父のためです。わたしはどうしても、それを届けなくてはなりません。わたしの双子の妹が……伯父の養子なんだけどね、その家を盛り立てるためにどうしても必要で」
「妹のため? 養子に取られたのが姉でなくて、双子の妹? 妹だけが? なぜ君が養子になれなかったの? 自分自身のためでなくていいのかい?」
「あの子は特別なの。双子だけど生まれつき、わたしの持ちえないものを授かっていた」
シズハは先天的な体質により、自分ではなく妹を選ばれたのだ。
「持ちえないもの、ね……それで養子の座も奪われたというのは、苦しくはないか?」
「妹ばっかりが……って、思わないわけじゃないけどね。いい部屋を貰ってるし、いい食事をして作法も教わって、勉強もたくさん機会があって……なのに甘えたがりで、たまにちょっと憎い」
同じ日同じ母から生まれた双子でも、妹は教会の跡継ぎでシズハはその召使いだ。妹の世話を役目とし、それだけでなく屋敷の庭園の管理や、隠密として働きを求められることもある。伯父によって、明確な身分差が設けられていた。
シズハは寂しく笑う。
「でもいい。それでも愛しいから。わたしじゃあの子にあんないい思いをさせてやれなかったし」
「己の幸福よりもか? それより妹が愛しいと?」
「うん。わたしだって衣食住を守ってもらえてたから、こんな気持ちでいられるのかもしれないけどね。とにかく、支えてやりたいっていうか、元気でいてほしくって」
少女は、訝し気に聞く。
「なぜそんなに?」
「理由なんかないよ。母さんを好きだとか、幼馴染を好きだとかそういうのと同じだもの」
「甘いねぇ」
「甘いかもね」
少女は途中まで計りかねるような様子だったが、ふっと表情を和らげて言う。
「かわゆいのだね、妹が」
「あはは、まあね。そうなんだ」
ふたりは笑顔を交わす。わずかな時間だが、心が満ち足りるなにかがあった
こんな風に笑ったのはいつぶりか、とシズハは思う。もう会わないであろう相手だからこそ、自分の内心を吐露したくなったのだと彼は自覚した。
ほっ……と安堵してみぞおちをさすると、いくらか切迫の感は和らいだ。それでもやはり、エリオンの重苦しさは依然として消えない。消えてもらっても困る。
(長居はしていられない、安全な場所で早く吐き戻さないと……)
「どう? 湯舟にでも入っていく?」
「えっ……そこまで甘えるわけにはいかないね。ごめん。もう行かなくちゃ」
良心が痛んだ。いまこの場にいることそのものが偽りだからだ。
少女はシズハに代わって、窓辺から外の様子を伺って周囲の索敵までもしてくれた。敵の姿はない。逃げ出すに好機であった。
別れ際、白い髪の少女はシズハに言った。
「約束してはくれないか。ここでの出会いは、誰にも明かさない。わたしたちふたりだけの秘密にすると」
「いいけど……どうして?」
「どうしても」
少女はどこかイタズラっぽい、子供のような口ぶりだった。シズハもなにかその気持ちが分かるような気がした。
「わかった。約束しよ」
シズハが右手を出すと、少女はそれを握った。
「次に会えたら、互いに名乗れるとよいものだねぇ」
「うん……でもそれはきっと、遠い土地でのことになるかな」
窓から様子を伺うと、船着き場の方面の輩は街中に散ったのだと見えて、頭数が減っていた。シズハが飛び降りると、少女は最後に言う。
「じきに雪もふる。それまでに逃げ切れることを祈ろう」
それだけ言い残すと、名残惜しげな手つきで窓は閉まった。
(雪だって? こんな時期に?)
シズハは思わず空を見上げる。曇天である。雨の心配ならば理解できるが、雪とは不可解だ。なにしろ初夏である。
(どうもわからないな。不思議なひとだ……)
窓に背を向けて歩き出したシズハの脳裏では、いつまでの少女の面影が消えなかった。繊細で気品あるのに、どこか底知れない風格の子だ。白い肌身までも思い出しそうになり、彼は思わず被りを振った。
(裸の付き合い……ね。僕の方からそれを断らなきゃってのが、この身を偽った虚飾の報いかな……いや、なにを考えてるんだ)
スカーフを鼻先まで上げて、熱を持った頬を隠す。そして胸の下、少しずれた詰め物を直した。




