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【甲板06/凍てつく輝き】


 直後。シズハの眼前に巨大な影が走った。


 生々しく大きな音を立てて――


 彼の真横、甲板の木材へと角が突き立った。


 首長竜の体表から跳ねた海水の一滴が、シズハの頬を打つ。


 皮膚に感じたのはそればかり。

 痛みはない、傷もない。その身に触れたのは海水の一滴のみだった。


(た――助かった……?)


 瞬間、彼は極限の緊張から解放されていた。


 少年を救ったものとは――


「ダカツぅ! おぬし、すばらしき働きよのう!」

 テンヌの喜びに満ちた声がする。


 シズハを救ったのは、船守の巨漢ダカツだった。


 彼はあの一瞬のうちに、竜の横っ面へと、肩を突き出して全身でぶつかった。その巨体と鍛えられた筋肉をもって、竜のひと突きに横からの強い力を加えてを外させた。


 軌道を逸らせて、シズハを救ったのだ。

 さらには直後、甲板に角が突きたったのを見るや、その腕で角を抑え込んでいた。


 また、シズハは気づいた。目の前には白い髪が揺れていることに。


 彼の前に立っていたのはダカツだけではない。

 テンヌも角が振り下ろされる前に、シズハを庇い立っていた。


 彼女はとっさに守りに入り、胴体と両腕に氷の装甲を作り出してもいた。だがそれでもなお、そのままでは直撃を免れぬ体勢だった。


 しかしダカツは、テンヌさえも竜の一撃から守った。そして竜の動きを止めるに至ったのだ。


「お褒めはまことに光栄! しかし身に余るな、こやつの力は!」

 男は叫ぶ。


「ダカツでも余るんなら頭数だ! 頭数で抑え込むぞオイ!」

 ロウギが叫び、まわりの人員が呼応した。


 彼と周囲にいた船員たちが、首長竜の頭へと飛び掛かる。

 人間たちの力で、辛うじて竜の頭部は抑えこまれた。甲板に角が刺さったまま抜けずにいることも、助けとなっていた。


 後発の中には棍棒で殴りつけたり蛮刀を首へ突き立てるものもあったが、鱗が固く有効打には至らない。

 口に縄をかけようと試みるものもいるが、敵があまりにも大きい上に水気で滑ることもありうまくはいかない。



 そしてテンヌの背中越しに、シズハは知る。


 銛で攻撃したテンヌ、抑え込んだダカツ。取り囲む船員たち。

 それらよりも、己がこの首長竜から敵意を向けられていることを。


 首長竜は、興奮した様子で目をぎらつかせていた。

 牙の間から盛んに吐かれる息は、生き物の呼吸とは思えない音を立てている。温度こそ低いが、高圧の蒸気が機械の中から漏れ出る様のようだ。


 視線と吐息とに込められた敵意は、シズハへ向けられていた。


 その時、彼は気づく。竜の目の奥に、銀色の光があることを。

 敵意の眼差しに射すくめられ、シズハは身体を強張らせた。


 吐き気までもが彼を襲う。

 腹の奥の冷たいエリオンが、うごめきせり上がるかのように感じた。


(なんだ、これ。なんなんだ……? あいつが求めているのは、もしかして……)

 それ以上、考える暇はなかった。


「よいぞ。抑えておれ。今にこの頭を――」

 テンヌは竜の頭を凍り付かせるべく追撃を行おうとしていた。


 だが彼女の表情は急に強ばり、足を止めた。そしてシズハを腕に抱えてとっさに身を引き、左舷の船縁へと寄りかかって体重を預けた。


「船が傾いておる! 動けるものは左弦へ寄れ! 船内にも伝達せよ!」

 よく通る声を張り上げて配下たちに言った。


 号令により船員たちも異変に気付き、急いで船の左側へと身を寄せた。


 だがそれでもなお、船の傾きは右に寄っている。甲板へ持ち込まれた武器や道具が、徐々に右舷へすべってゆく。


 首長竜が思い切り体重をかけてきたためだ。

 片側に急激な荷重がかかり、大船といえども平衡ではいられない。


「ちぃ……この無道丸と押し引きしようとは、やりおる!」


 ダカツをはじめとした船員たちの力で、竜の頭はどうにか抑え込んでいる。だが全員が必死に押しとどめている状態だ。


 それが少しでも緩めば敵はまた動きだす。竜は今度こそ角を振るい、人間たちを切り裂いて海に戻ることだろう。


 かといってこのまま抑え込んだとしても、船の平衡は崩される。やがて無道丸そのものが転覆することになり、すなわち全滅だ。


 テンヌがとどめを刺すべく踏み込めば、その巨躯ゆえに船の平衡をなおさら乱し、致命的な事態をもたらすおそれがある。


 引くも押すもためらわれる膠着がもたらされた。だが時間がない。


「テンヌ、このままだと、船が……」

「わかっておる。シズハよ、見ていてもらおうかの?」


 彼女はシズハを腕から下ろし、船縁に捕まらせた。


 そして竜へ向き直る。船を海底へ引こまんとする脅威へと。


 その時、シズハは一瞬だが、目にした。

 笑みの失せたテンヌを。


 自分と戦っている時には決して見せなかった顔だ。

 極限の冷気を湛えたような表情である。


 身震いがした。竜の得体のしれない敵意よりも、なお恐ろしい。

 今この時ばかりは、腹の奥底の冷たさも薄らぐかのようだ。


「わしが組みつき次第、おぬしらは退け! 巻き添えを食わぬようにな!」


「おお!」ダカツたちは額に汗を流しながら頷いた。


 テンヌは竜の頭へと飛びつき、角の根元を抑えた。

 周囲の船員たちは指示のもと、すぐさまその場から離れて引き下がる。


 シズハは思わず叫んだ。

「いくらなんでも、ひとりの力じゃ抑えられない!」


「逆よ、押し返す!」


 テンヌは甲板を両脚で踏みしめ、がっぷりと力をこめて竜の頭を真正面から()()()


 突き立っていた角は、テンヌの力がかかったことで甲板から引き抜かれた。


 拮抗していた抑えこむ力が突然なくなったことで、竜の首は跳ねあがる。

 天を仰ぐように、まっすぐに上向いたのだ。

 長い喉の奥から、惑いと驚きを感じる鳴き声がした。


 船もまた、かかっていた重みが急になくなって左右に大きく揺れる。船員たちは慌てて船体の中央によって姿勢の保持に走った。


 首長竜の頭が持ち上がったことで、角を掴んで逃がさないテンヌもまた高みにあった。


 だが女はひとつも慌てずに、たいをひるがえし反転させた。

 角を握りかえ、またがるようにして両足で敵の頭を挟み込む体勢をとったのだ。


 牙に晒されることを避け、己の姿勢を保持する状態だ。

 そして自らの蛮刀を逆手持ちにして、振りかざした。


「我が祝福の、威力をくれてやろうか!」

 テンヌは渾身の力で、分厚い刃を竜の目へと突き立てた。


 血が(ほとばし)り、甲板へと跳ねるかに思えた。

 だが甲板に落ちてきたそれからは、固い音がした。赤い血が、すでに氷となっていたのである。


「おお、あれは!」

 ロウギやボレーが喜色の混じった驚きを見せた。


 シズハにはなんのことだかわからなかったが、直後にその意味を知ることとなる。


 竜に組み付いたテンヌの全身が一瞬、光を放ち輝いたかに思えた。

 すると首長竜の巨大な首がびくりと硬直し、まったく動かなくなったのだ。


 シズハは見上げ、目を凝らしたことで気づいた。

 竜の頭は、すでに完全に凍り付いていたのだ。


「あんな急速に凍てつくなんて……眼窩から冷気を直接頭の中に流し込んだのか!」


 頭部の血液も脳髄もすべてが凍結し、首長竜は完全に沈黙していた。


 長い首はゆっくりと傾き、やがて海面を打うって大きな水しぶきをあげる。

 銀海流の飛沫が西日を受けてよく輝いた。


 完全に横倒しになる直前、テンヌは飛びのいて海面へ浮いた首長竜の腹の上に降り立った。

 征服した獲物の胴を、両足で踏んで立ったのだ。


「皆の者! 成したぞ、竜狩りをのう!」

 拳を掲げる頭領を、船員たちは歓声をもって称えた。


 シズハは膝に手を着き、ゆっくりと吐息を漏らしていた。脱力と安堵の息である。


 いつのまにか吐き気も収まっている。

 あれは恐怖心ゆえだったのかそれとも……


 彼は顔を上げ、テンヌを見た。竜に勝利した堂々たる海賊の姿を。


 ふと思う。生存術と野戦術のすべてをおしえてくれた師父でさえも、この大きさの竜を倒すには至らないであろう、と。


「なんてでたらめな力……」

 シズハは気づかなかった。唇の端が上がり、感嘆の笑顔を浮かべている己を。


 テンヌはシズハの眼を見返し、笑い返す。そして固く握った勝鬨の拳を捧げた。


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