【決闘の天秤/不抜のテンヌ】
いつのまにやら海風は弱まっていた。対して上空の風は盛んと見えて、雲が早くに流れゆき日が覗いた。
青空から注ぐ光で、凍えていたシズハの全身にじわりと熱が贈られる。雪交じりの風が嘘のように、熱い風がシズハの肌を撫でていく。
(天は僕を見捨てていない。打つ手はきっとある……)
シズハとテンヌは、それぞれ左舷と右舷の船縁を両手で掴んで備えた。
周囲を取り囲んだ船員たちが、テンヌとシズハとを無言で見守る。それが正当な所作であるかのように、一様に背中側に腕を回し、胸を反らせて壁のように佇立していた。
「開始は硬貨の音……」
副長は懐から光る硬貨を抜きだして、無造作に宙へ放った。
投げられたそれは、甲板に落ちて音を立てた。
すなわち決闘開始――
シズハは一瞬で振り向く。彼の視線の先にあるは、テンヌの隆盛たる白い美髪に覆われた背中だ。間合いを詰めて肉薄する。
(真っ向勝負も長期戦も一切が不利! 勝ち筋はひとつ、初手奇襲、最短最速頭部狙い! 振り向きざまに一撃だ!)
全力で甲板を蹴って跳び、拳を打つように逆手持ちの短刀をまっすぐ振りかざした。
「うりャァ!」
しかし――標的を捕らえることはなかった。
避けられも防がれもせず、動きにミスはなかった。ではなぜか、振り向いたテンヌはシズハの狙いを瞬時に悟ると、むしろ頭突きで返したのだ!
互いに息を意を持って運動した額と指とが、激突する。痛み分けにはならない。どちらの痛手が大きいかと言えば、それはシズハであった。
「痛ぅっ!」
瞬間的に衝撃を受け止めたもの
の、腕から伝わる重みに、彼は顔を歪めて数歩退いた。一方のテンヌは、敢えて頭で受けたにもかかわらずびくともしていない。
(規格外のバケモノだな、本当に!)
間髪を入れず、突き出された頭を目がけて、シズハは即座に上段の回し蹴りを放つ。
対するテンヌは即座に体勢を戻すと、軌道を鏡に映したかのような蹴りで迎え撃った。
足と足とがぶつかった瞬間、シズハは身体ごと跳ね返されて転がり、必死に受け身を取る。一方で、テンヌは蹴りを放ったまま、片足を高く上げた姿勢でそのまま制止した。
「今のうちに行っておく――わしは手ごわいぞ?」
(見せつけてるつもりか? ちくしょう。なんの冗談にもならない強さだ!)
周囲に佇立して決闘を見守る北蛮船員たちが、思わず言葉を交わしていた。
「案外やるね、あの小僧。体術が堂に入ってやがる」
「カシラとぶつかってそのまま吹っ飛ばんあたり、槍担ぎの雑兵とは違う。案外、充分に公正な条件だったかもしれんな」
その中でひとり、無精髭のロウギは痛む顎をさすってつぶやいた
「へっ、当たり前だ。そうでなけりゃ俺がやられた甲斐がない」
小声のその会話は、シズハの耳には届いていなかった。焦りが彼の身を動かしていた。
片足立ちの軸足を刈るべく、シズハは身を低くしたうえで双手を突き出して一気に甲板を蹴った。
だがそれもまた対応される。全速力をもっての攻めだったが、その手が目標へ届くよりも早くに捕まれた。少年の手首が、大きな手のひらで握りしめられていたのだ。
握力たるや、骨が軋みを上げるかのようでシズハは声を上げた。
「うあああっ!?」
そのまま、手首をつかんでその全身を持ち上げられる。手首と肘と肩と、腕に体重がかかって痛みが生じ、シズハは苦悶の声を押し殺して顔をしかめた。
テンヌはすでに両足で地を踏んでおり、彼の顔を覗き込んでいた、うっすらとした笑顔を絶やさず、この瞬間そのものが楽しいというように。
「なんだよその……薄笑みは!」
直後――シズハは不意打ちの前蹴りを放ち、鳩尾に直撃させた。不安定な体勢ながらも、全身で反動をつけて重みを乗せた一撃。鍛えられた武人であったとしても――人間であれば無反応ではいられないものだった。
しかし――
「うおお!? やるのう!」
むしろ楽しげであった。テンヌは手を離してのけぞり、一歩退いたものの、余裕の態度を崩すことはなかった。むしろ驚きとともにいっそう楽し気な笑いを顔に浮かべているほどだ。割れた腹筋の盾は割れず。
苦悶の表情を多少なりとも期待していたシズハにとっては絶望の笑みだ。それがハッタリでないことは、自らの足の感触が物語っていた。その腹筋に打撃をはじき返され、まったく有効打を与えられていないことを、彼自身がよくわかっていたのだ。
師父との組手でもかつて感じたことのない、圧倒的、まさしく圧倒的な力と技だ。
(この女、武に優れている! 力や身体の強さだけじゃない。根本的な戦闘術があまりにも鍛え上げられている!)
シズハは巨大な氷山を目の当たりにするかのような迫力で動けなくなりそうだった。
(どうやって勝てばいいんだ、こんな巨大なものに……)
いつ、どこが崩れて氷の塊が降ってくるかわからない。
自然物であればあくまで物理法則によるものでしかないが、この場合は戦に長けた海賊が攻意をもって選択する行動である。物理以上に計りかねるものがあった。
「子狐と巨狼だな……」
船員の誰かがつぶやいた。
「どうした? 傷らしい傷もあるまい。まだここからよのう?」
テンヌがゆっくりとした足運びでシズハに近づく。
対するシズハは、周回軌道を描くように横へと移動した。完全に格付けの決まりきった戦況だ。甲板の広さは限りがある。現状維持の猶予はない。
「くそぉっ!」
「甘いわ!」
再び飛び掛かったシズハを、テンヌがはじき返した。腕を振るい、手のひらで少年の腹を捉えて打ち返したのだ。
シズハは空中で一回転して弾き飛ばされる。その時、手にしていた短刀が彼の手から離れて跳ねあがり、マストの中腹に突き刺さった。
観戦していた船員たちが、飛んできた彼を慌てて迎えた。いくつもの黒い袖の手が、彼を受け止めてくれた。
「おおおぅ! 大丈夫か小僧!」
「そら、もっと気張っていけ! 殺し合いじゃねえんだ、死にはしねえ、ドンといけ、ドンと!」
「あのデカいのに鼻血ィ出さしてやんな!」
彼らの声に皮肉や邪念はなかった。苦境の者を煽るだとか、負けを見届けるのを楽しみにしているだとかではない。
奇妙なことながら、船員たちは大きな敵に挑むシズハに、本当に心を寄り添わせている。彼らは蛮勇と喧嘩が好きなのだ。
だがシズハは、頷いて応えるのがやっとだった。
受け止められたことで怪我はなかった。だがはじき返された打撃が、びりびりと彼の肉と骨と心とに、尾を引いていた。その衝撃が思考のすべてを塗りつぶし、わずかだが少年の思考に空白をもたらした。
(痛い。すごく痛い。吐き気がする。でも吐いちゃだめだ。なにしてんだっけ僕……)
硬く握っていた手で鳩尾に触れる。その時に気づいた。
もう武器さえ無い。
その瞬間に、ふっ……と、シズハは実感してしまっていたのだ。これまで使命感と気合と周囲の盛り上がりとでごまかされていた、巨大な敵への純粋な恐怖を。
(勝てない。勝ち目がないよぅ……)目が潤む自覚があった。ひとりきりなら顔をくしゃくしゃにして泣き声をあげていそうだった。
至極単純な話……自分の倍ほどもあろうかという相手に、素手の競り合いで勝てるはずがない。技巧の極まった領域でないのなら、体重差はすなわち戦力差である。
そのうえで相手の方が技巧に優れているのであるならば言わずと知れたことだ。
北蛮たちの温情は、むしろ彼に重圧を与えてしまっていた。
立ち上がるようにして、両手を甲板についてうつむく。密かに涙をこぼしたかった。誰も知らないうちに、あきらめを悟られないように。
だがその時、目からこぼれたかけた涙を、風がぬぐっていった。
涙は甲板にシミをつくることはなく、さわやかな風にさらわれて宙舞うきらめきとして消えた。
風が彼を鼓舞する。妹フィシーがその身に祝福を受けた、風が。
(僕が海賊船にもらわれていったら……泣くだろね、あの子は。それじゃあ駄目だ。いくら教会が興されたって……!)
素振りではなく、シズハは立ち上がった。同時に彼の師父の言葉が脳裏をよぎり、自らの口で唱える。
「挑むのなら、微かでも救いはある……!」
そして見据える。対峙する敵、白狼の巨魁を。
立つか立たぬかの一部始終を見つめていたテンヌは、つぶやく。
「ほおっておくわけにはいかぬ。お主が欲しい。ますますな……」
じりじりと間合いを維持しながら、シズハは必死に考えを巡らせた。
(技術や速さで勝とうなんて発想が甘かった。才覚も生き方も知恵も、戦いに向いた敵だ。半端に勝てる相手じゃない!)
彼はなおも手を探す。
(ならば『半端じゃない勝利』とは? 顔から血を流させるための方法……暗殺に近い術が要る)
腹の底に暗い覚悟が宿る。
その覚悟を知ってか知らずか。テンヌは余裕の笑みを絶やさない。依然として楽しげで、余裕をもって構えている。
実のところ、この女の力と技と反射速度とを合わせれば、シズハの攻撃に対応することなど造作もないのだろう。それがむしろシズハの闘志に火をつけた。
(お前を乗り越える。勝って妹に会う! 絶対に!)




