第5話 選ばれる側から、選ぶ側へ
月曜日の朝、里紗は会社のエントランスで足を止めた。
ガラスに映る自分の姿を、なんとなく確認する。
疲れているわけでも、機嫌が悪いわけでもない。むしろ、ここ最近では珍しく、気持ちは安定していた。
それが、少しだけ怖かった。
「最近、雰囲気違いますね」
総務の後輩にそう言われたのは、昼休みだった。
「そう?」
「なんか、柔らかくなったというか」
冗談めかした言い方だったけれど、里紗は内心で小さく驚いた。
自分では気づかない変化が、外に滲んでいるのかもしれない。
午後、スマートフォンに通知が入った。
佐々木からだった。
件名も前置きもない、要件だけのメッセージ。
『よろしければ、真剣交際を前提に、もう少し関係を深めたいと考えています』
画面を見つめたまま、指が止まる。
来るかもしれないと思っていた。
条件も、タイミングも、世間的には「逃す理由がない」。
年齢も近く、仕事も安定していて、結婚への意思も明確。
結婚相談所のカウンセラーなら、きっと背中を押すだろう。
――迷う理由は、ないはずなのに。
里紗はスマートフォンを伏せ、深く息を吐いた。
真剣交際。
その言葉は、今まで何度も頭の中で想像してきた。
でも、いざ現実になると、胸がざわつく。
不安なのではない。
違和感だった。
「この人と結婚したら、安心できるよ」
そう誰かに言われている気がする。
でも、その「安心」が、どこか他人事のように感じられる。
仕事を終え、帰宅途中の電車で、別の通知が届いた。
土井からだった。
『今日は一日どうだった?』
たったそれだけの一文。
でも、読んだ瞬間、肩の力が抜けた。
条件の話も、将来設計もない。
ただ、今日の延長線にある問い。
里紗は、しばらく考えてから返信した。
『少し、考えることがあって』
すぐに返事は来なかった。
その間も、不安にはならない。
しばらくして、通知が鳴る。
『無理に話さなくてもいいよ。会って話したくなったら、連絡して』
その文を読んだ瞬間、胸の奥で、何かが静かに決まった。
――ああ、私は。
選ばれるために、正解を探すことに慣れすぎていた。
でも今は、自分がどうしたいのかを、ちゃんと考えている。
それは、怖いことだった。
佐々木を断ることで、
「安定した未来」を自分から手放すかもしれない。
でも、土井といるときの自分は、
未来を計算していなかった。
ただ、その場にいた。
帰宅後、里紗はテーブルに座り、改めて佐々木のメッセージを開いた。
丁寧で、誠実で、非の打ち所がない文章。
それでも、指はゆっくりと文字を打ち始めた。
『お気持ちありがとうございます。とても真剣に考えていただいていること、伝わりました。ただ、今の自分の気持ちと向き合った結果、前向きなお返事ができません。本当に申し訳ありません』
送信。
胸が締めつけられる。
でも、不思議と後悔はなかった。
少しして、佐々木から短い返信が来た。
『分かりました。正直に伝えていただき、ありがとうございます』
その言葉に、里紗は頭を下げるような気持ちになった。
誰も悪くない。
ただ、選択が違っただけ。
スマートフォンを置き、里紗は深く息を吸った。
そして、土井の連絡先を開く。
『今週、少し話せる時間ありますか』
送信ボタンを押す指が、わずかに震えた。
これは、期待だ。
同時に、失うかもしれないという覚悟でもある。
でも。
選ばれるのを待つのではなく、
自分で選ぶと決めた今なら。
結果がどうであっても、
「ちゃんと生きた」と言える気がした。
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