第4話 静かな時間
店は、駅から少し離れた住宅街の中にあった。
派手な看板もなく、知らなければ通り過ぎてしまいそうな小さなイタリアン。土井が「落ち着くと思って」と言っていた理由が、扉を開けた瞬間に分かった。
「こんばんは」
先に来ていた土井が立ち上がり、軽く会釈をする。
スーツではなく、柔らかい色のニットにジャケット姿だった。
「こんばんは」
それだけの挨拶なのに、前回よりも緊張が少ない。
名前を呼ばれることにも、もう驚かなくなっていた。
席に着くと、店内には穏やかな音楽が流れていた。
隣のテーブルとの距離がほどよく、声を張らなくても会話ができる。
「こういう店、好きそうだと思って」
「……当たってます」
里紗は少し笑った。
婚活のデートでは、「万人受けする店」を選ぶことが多かった。
相手の好みに合わせ、無難な空間を選ぶ。
でもこの店は、土井の基準で選ばれている。
それが、なぜか心地よかった。
ワインは頼まず、二人ともソフトドリンクにした。
その選択も、どちらからともなく自然に決まった。
「仕事は、相変わらず忙しいんですか?」
「忙しいけど、前よりは自分で調整できるようになりました」
土井はそう言って、少し肩をすくめた。
「昔は、全部仕事が優先でしたから」
その言葉に、里紗は黙ってうなずいた。
責める気持ちは、もうなかった。
「早川は?」
「私は……特別な変化はないです」
そう答えながら、少しだけ迷う。
「婚活は、してますけど」
正直に言うと、土井は一瞬だけ目を伏せた。
「そうなんだ」
それ以上、何も言わない。
その沈黙が、妙に優しい。
「やっぱり、焦ります?」
里紗は、自分からそんなことを聞いていることに驚いた。
「焦る、というより……置いていかれる感じ、かな」
口に出して初めて、自分の本音に触れた気がした。
「周りはみんな、次のステージに進んでいて。私はずっと、同じ場所にいるみたいで」
土井は、フォークを置いて里紗を見た。
「同じ場所、ではないと思う」
その言葉は、慰めではなかった。
「進み方が違うだけで」
簡単な言葉なのに、胸に残る。
料理が運ばれてくる。
味付けは優しく、食べることに集中できる。
会話は、途切れ途切れだった。
でも、気まずさはない。
沈黙が怖くない。
それが、どれほど久しぶりの感覚か。
「結婚って、どう思ってる?」
食事の終わり頃、土井がぽつりと聞いた。
里紗は、すぐに答えなかった。
「……前は、絶対したいと思ってました」
「今は?」
「今は……分からないです」
また、その答えだった。
でも今回は、自己嫌悪はなかった。
「一緒にいたい人がいれば、その延長にあるもの、って思えたらいいなって」
そう言うと、土井は少し考えてからうなずいた。
「俺も、同じだ」
店を出ると、夜風が心地よかった。
駅までの道を、並んで歩く。
歩幅が自然に合っていることに気づく。
「今日は、ありがとう」
「こちらこそ」
改札の前で立ち止まる。
「また……会ってもいい?」
前回と同じ言葉。
でも、里紗の胸の奥に響き方は違っていた。
「はい」
答えながら、はっきりと分かった。
この人といるとき、
自分は「ちゃんとした自分」でいなくていい。
改札を通り、振り返ると、土井が軽く手を振っていた。
その姿を見ながら、里紗は思った。
婚活では、いつも未来の話をしてきた。
でも今は、今日の時間が、ちゃんと心に残っている。
それだけで、十分だと思えた。
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