第3話 条件と、息のしやすさ
日曜日の午後、里紗は駅前のカフェに入った。
ガラス張りの店内は明るく、隣のテーブルとの距離も程よい。婚活用に「失敗しにくい」と言われている店だ。実際、同じような空気をまとった男女が、いくつも向かい合って座っている。
――今日も、ちゃんとした人。
待ち合わせの相手は、すでに席に着いていた。
清潔感のあるジャケット、控えめな笑顔。プロフィール写真よりも実物のほうが誠実そうに見える。
「初めまして。佐々木です」
「早川です。今日はありがとうございます」
定型文のような挨拶。
里紗は自然に笑顔を作りながら、心のどこかでスイッチが入るのを感じていた。
会話は滞りなく進んだ。
仕事の話。休日の過ごし方。家族構成。
佐々木は聞き上手で、否定的なことは言わない。結婚に対しても前向きで、子どもについての考えも現実的だった。
「価値観、近いと思います」
そう言われた時、里紗は反射的に「ありがとうございます」と答えた。
悪くない。
むしろ、条件だけを並べれば理想に近い。
それなのに。
心が、静まり返っている。
楽しくないわけではない。
でも、気を抜くと沈黙が怖くて、話題を探してしまう。
「早川さんは、どうして結婚したいと思ったんですか?」
その質問に、胸の奥がわずかに揺れた。
「……安心できる場所が欲しい、というか」
無難な答えを選ぶ自分がいる。
本当は、もっと曖昧で、もっと個人的な理由なのに。
佐々木は満足そうにうなずいた。
「分かります。やっぱり一人は不安ですしね」
その言葉を聞いた瞬間、里紗はなぜか、少し息が詰まる感覚を覚えた。
不安だから一緒になる。
間違ってはいないはずなのに、胸に残る違和感。
デートは、何事もなく終わった。
別れ際、「またご連絡しますね」と言われ、里紗も同じ言葉を返した。
そのやり取りに、感情はほとんど動かなかった。
帰りの電車で、スマートフォンを開く。
ちょうど、由香からメッセージが届いていた。
『今日どうだった?』
里紗は少し考えてから、打ち込む。
『条件はすごく良い人』
すぐに返信が来る。
『で、気持ちは?』
画面を見つめたまま、しばらく指が止まった。
気持ち。
それを基準にしていい年齢なのか、自分でも分からない。
その時、別の通知が表示された。
土井からだった。
『この前はありがとう。近くで、落ち着いた店を見つけたんだけど、もしよかったら』
短い文面。
でも、読んだ瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。
比べるつもりはなかった。
比べてはいけないとも思っていた。
それでも、はっきりとした違いがあった。
佐々木との会話では、常に「正解」を探していた。
土井との時間を思い出すと、答えを用意していなかったことに気づく。
息をしていた。
ただ、それだけだった。
里紗は、由香への返信を消して、新しく打ち直した。
『よく分からない』
そして、土井への返信画面を開く。
『ありがとうございます。行きたいです』
送信ボタンを押したあと、心臓が少しだけ早くなった。
――私は今、何を選ぼうとしているんだろう。
条件を満たす未来か。
それとも、理由の説明できない安心か。
窓の外に流れる景色を眺めながら、里紗は思った。
婚活では、いつも「選ばれる自分」でいようとしてきた。
でも今は、久しぶりに「選ぶ側」に戻っている気がした。
それが正しいのかどうかは、まだ分からない。
ただ一つ分かるのは、
土井と会う約束をした今、胸の奥が少しだけ、温かいということだった。
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